井上 靖 崖(下) 目 次  出  発  な ぎ さ  真  物  満  月  横  顔  仲  秋  ぬ け が ら  ひ よ ど り  再  会  あ る 関 係  崖 の 上  火  あ る 夜  早  春  出  発  伊豆の二泊旅行から帰ると、山代はアパートで新しい生活を始めた。まず電話番号を手帳に書きつけた。電話番号と言っても、自分が入院していた病院の電話番号と、佐沼、高崎、つかさの三人の家の電話番号である。いまのところ山代が必要とする電話番号はこれだけであった。これを書きつけながら、自分はここから出発して行かなければならぬと思った。これまでは自分の方から電話を掛けるといった気持にはなれなかったが、いまは違っていた。生きるということに対して積極的な気持だった。  この四つの電話番号を手帳に書き込んだ朝、山代はさっそく自分から受話器を取り上げた。やがて出て来たのはつかさだった。つかさとは伊豆の旅行から帰ってから会っていなかったので、山代はまずその礼を言った。 「この間は有難う。お蔭ですっかり元気になりました。郷里へ行ったせいでもないでしょうが、何か生き返った気持です」  すると、つかさは、 「結構です。でも、山代さんって、とても現金だと思いますわ。お別荘のことが判ったら、とたんに元気になって、生き生きなさるんですもの。わたくし、自分の役割がつまらなくなって、あれから考えてしまいましたわ」  つかさはそんなことを言った。このつかさの言葉は、山代には全く予想していないことだった。 「冗談じゃないですよ」  山代は笑った。実際におかしかったので、山代は笑ったのであったが、 「いままで、そんな笑い方をなさいませんでしたわ」  つかさはまた、そんなことを言った。 「困りますな」 「でも、そうなんですもの」 「別荘のことなんか関係ありませんよ。急に気持も体も健康になったんです。旅行へ出るまではやはり病人だったと思うんです」 「そうです。わたくしもそう思います。でも、急に健康になった理由があると思いますわ」 「そんなものはない」 「理由と言ったら変ですが、何か刺戟になっておりますわ。——わたくし、いままでの、ひとりでは何もできない山代さんの方がずっと好きですわ。急に生き生きとなさったりして」  つかさは言った。山代はまたおかしさが込み上げて来て、声を出して笑った。そして、 「とにかく、来て下さい。相談がある」 「伺います。今日でも」  それで電話は切れた。山代はつかさに佐沼や高崎に対する礼のことを相談するつもりだった。長い入院生活中世話になっているので看護婦たちにもたとえ気持だけのことでもしたかった。こうした気持も、初めて山代を見舞ったものだった。  つかさとの電話を切ったあと、山代はつかさが現在の急に心身共に健康になった自分を誤解していることが滑稽に思われた。  一人の女性と会った場所や、恐らくその嫁ぎ先きと思われる後川という姓が判ったことで、そのために山代は気持が一変したのではなかった。幾ら自分の心の内部を探ってみても、そのことは山代の心身の回復に何の役割も果していなかった。山代にとって、その女性に関する記憶の小さい欠片は、いつも気になってはいたが、それはその女性に対する恋情とは違っていた。その記憶の欠片の舞台が判明したことは、山代にとって歓迎すべからざる厭なことが一つ明るみに出たことであって、これからその女性と自分との関係がいかなるものであるか、調べて行かねばならないが、しかし、それは決して山代の楽しい作業ではなかった。  山代は確かに大阪の新聞記者時代を通じて、その女性に烈しい思慕の念を燃やしていた。そしてそれは、その女性が山代の前から姿を消して、誰かと結婚して東京に生活を持ってからも、少しも変らないものであった。だからこそ、山代は自分に対して東京で生活を持つことを禁じていたのである。  山代は当時の自分の一つのものに憑《つ》かれていた気持も、その苦しさも、はっきりと思い出すことができた。が、しかし、その山代の気持が、当時と少しも変らず、現在の山代の心の中に生きているかと言うと、そうは言えなかった。  現在の山代はその女性に会いたいとも、その女性と話をしたいとも思わなかった。失われた過去三年の間における彼女との交渉が、どのようなものであるかということは心配であり、そのために彼女のことを繁く思い出しては来たが、それは彼女に対する思慕の念とは違っていた。はっきり言うと、山代の自分の心の中に、曾て彼が持っていた思慕の念がすっかり死滅していることを知らなければならなかった。  それならば、あれだけ烈しかった恋情はどこへ行ってしまったのであろうか。そのような変化はどのようにして、いかなる理由で行われたのであろうか。  現在の山代の心の中にあるものは、彼女とのあるいはあったかも知れない情事への不安の念だけであった。三年前の、彼女に対する思慕の気持や愛情は、はっきりと思い出すことができ、納得することも理解することもできた。しかし、現在、それは山代の内部では生きてはいなかった。もしそれが生きていたら、彼女に会いたいという気持が烈しく起り、彼女の嫁ぎ先きを知り得た以上、当然心のときめきを感ずる筈であったが、山代はどのように自分の心の内側を探ってみても、そのようなものを発見することはできなかった。あるものは無気味さだけであった。もし、彼女との間に何事かがあったなら、それに対して、現在の山代は償わなければならなかったからである。それはセザンヌの偽作問題の場合と全く同じであった。  山代が惹かれていた女性は八束陽子《やつかようこ》と言った。父の八束嘉十は関西では屈指の証券会社の社長で、戦前は二流級の存在でしかなかったものを、戦後めきめき売り出して、今日の隆盛にまでもり育てた人物だった。その人柄については冷酷だとか、吝嗇《りんしよく》だとか、とかくの批評があったが、しかし、誰もその事業に関する才腕は認めなければならなかった。  山代は学生時代から陽子の家庭教師として京都にあった八束家に出入りしていた。週に三回は八束家を訪ねていたが、一度も山代は陽子の父に会ったことはなかった。  父の嘉十はたとえ家に居ても、娘の家庭教師の前へ自分から姿を現わすような人物ではなかった。山代はそうした自分の教え子の父親に余りいい感情は持っていなかった。いい感情を持たないと言えば、父の嘉十ばかりでなく、陽子の母にも、もっと広く八束家全部の者に対して、少しも好感は感じていなかった。すべてを金で価値評価するような、その家の持つ空気が堪らなく厭だった。  それでいて、山代がずっと陽子の面倒を見て来たのは、それに対する報酬の必要なことは勿論であったが、そのほかにいつとはなく陽子という自分より五つ年下のその少女に惹かれていたからである。陽子は家の誰とも似ていなかった。美貌な夫人として知られている母の面輪《おもわ》は、そのまま受けついでいたが、性格はその母とも父ともまるで違っていた。  頭はよかった。山代がひと言教えれば何もかも呑み込んでしまい、打てば響くところは怖いくらいだった。性格は冷たく自分本位であったが、山代には頭のいい少女としては、それが当然なことに思われた。本来なら家庭教師など必要としない少女であったが、陽子は自分の学校の成績のいいのはみな山代に教わっているためだというように母親に吹き込んでいた。陽子は友達を殆ど持っていなかった。山代にも、陽子が女友達を持たぬ理由が判った。女としての甘さや弱さがないだけに、同性からは何となく敬遠されるところがあった。  山代は新聞社へ入ってからも、時折、八束家を訪ねて行った。当時大学へ通っていた陽子はいつも気持よく迎えてくれ、待っていたとばかり、雑多な質問を浴せられた。文学や音楽の話になると、山代はたじたじであったが、絵の話になると、山代自身が好きであって、主な展覧会は見ていたし、美術雑誌や美術書にも眼を通していたので、どうにか陽子に対抗することができた。  ある時、京都へ取材のため出掛けて行った山代は、仕事が終ってから八束家を訪ねた。その日も、陽子はいつものように山代を自分の部屋に案内したが、 「昔、スペインのあるお城のお姫様が娘時代に一番沢山使った言葉があります。何か知ってます?」  陽子は言った。そして、山代の返事を待たないで、 「幾ら好きでも、駄目……って言葉ですのよ」  陽子は笑ったが、山代は笑わなかった。  山代はその時、八束陽子が自分の心の内部をすっかり知ってしまっており、その上でそれに対しての拒否を宣告したのを知った。勿論山代はそれまで一度も自分の心の内側を覗かせるような言動はとったことはなかったが、八束陽子は硝子の人形でも見|透《す》かすように、山代の気持を見透かしていたものと見える。 「一体、それはどういうことです」  山代はかさかさに乾いた口から、やっとのことで声を出した。 「どういう意味もありませんわ。ただそれだけのことです。昔、スペインのあるお城のお姫さまが、幾ら好きでも駄目! って言葉を、娘時代に一番多く口から出したんですって。——そう本に書いてありました」 「————」 「詰まり、そのお姫さまには求婚者がそんなにも多く、なかなか彼女の気に入るような人はなかったということですわ」 「貴女もまた、そうだということですか」  山代は切口上で言った。いままでにそんな調子の言葉を口から出したことは一度もなかったが、絶望的な気持が山代の顔を半ば蒼白ませていた。 「どういたしまして」  八束陽子は声を出して笑った。 「わたし、自分のことを言ってるんじゃありません。ただそういうお話があるということを申し上げただけですわ。わたしにはまだ求婚者なんて一人もありません。あったらどんなにいいでしょう」 「そんなことはないでしょう」 「いいえ、ほんとです」  その陽子の言葉で、山代は急に自分の心が脹らんで来るのを感じた。暗い心の洞窟に極く微かだが明りのようなものが射し込んで来た気持だった。しかし、そうした山代の気持を、こんどこそ再び立ち上がれぬものにするように、陽子は次の言葉を続けた。 「求婚者があったら、わたしはそのお姫さまと同じように、その言葉を使いますわ。だって、そういう言葉を一度も口にしないで嫁《とつ》いで行く女なんて、ずいぶん不幸だと思いますもの」 「自分の気に合った人が求婚した場合はどうですか」 「多分、わたし、その人が最初だったら、その言葉を口から出すと思いますわ。幾ら好きになっても、駄目!」  その最後の言葉を、陽子は山代に言うように、山代の眼をまっ直ぐに見入ったまま言った。  山代は思わず立ち上がった。陽子の前に自分を置いておくことができない気持だった。幾ら好きになっても、駄目! 山代はその同じ言葉が自分の頭の内部を渦を巻いて駆け廻っているのを感じながら、陽子にひと言の挨拶もしないで、その部屋を出た。  山代はそれ以後八束陽子の家を訪ねたことはなかった。陽子が結婚したという噂を聞いたのは、陽子が結婚してから一年ほど経った頃だった。  山代と陽子の関係は、関係と呼ぶべきほどの何ものもなかったが、しかし、山代にとってはやはりそれは大きな事件だったと言える。山代はそれ以外に、どの他の女性にも恋情というものを懐いたことはなかった。山代は、幼時から一つのことを思い詰めると、そこから気持を離して行くことのできない性格で、そうしたところは成人した山代の長所とも短所ともなっていた。妙に人から信頼感を寄せられるところも、どちらかと言えば暗い感じを人に与えるところも、みな山代の生れながらに持つそうした性格から来ていた。  山代の八束陽子に対する恋情は、彼女が結婚したということを聞いても、それで消えてしまうようなものではなかった。山代にとっては、どの女性も八束陽子に較べると、それは光を失った詰まらぬものに思えた。  山代は新聞記者時代、そうした一人の結婚してしまった女性に対する思慕を、勿論誰にも語らなかった。もしそれを語ったら、誰からもあり得べからざる世迷言《よまいごと》として一笑に付されてしまうことは明らかだった。実際山代自身考えて、八束陽子という女性が他の女性と較べて、どのように優れていたか、それを挙げることはできなかった。美貌と言えるに違いなかったが、しかしかなり個性の強い特徴のある顔で、そうした彼女を嫌いな人も沢山いるに違いなかった。  それからまた、その性格に到っては、山代自身よく理解しているとは言えなかった。打てば響くような頭の切れるところはあったが、その感受性の強さも、物の考え方の人の意表に出るところも、多分に異常であった。それから我儘でもあり、ヒステリックでもあった。こうして算え立てて行くと、欠点の方が多くなりそうであった。しかし、山代の彼女への思慕はそうしたこととは無関係であって、彼女の持つそうしたところ全部に惹かれていたと言うほかはなかった。山代は、現在そうした曾ての彼女への思慕が、完全に自分の心の中で死滅してしまっているのを感じた。あのように決して消えることのないものとして自分の心の中に大きい爪跡を残していたものが、どうして失くなってしまったのであろうか。三年間の過去と一緒に、彼女への烈しい思慕の気持もすっぽりと形を消してしまったわけであったが、一体そのためにはどのようなことが行われたというのであろうか。  山代は新聞記者時代の八束陽子に対する思慕も、それに関する苦しみも、いまはっきりと思い出すことはできたが、しかし、それは現在生きてはいなかった。それを思い出す山代の心には妙にしらじらとしたものがあった。  その日の午後、つかさはやって来た。朝の電話では少し気持の尖っているような烈しさを、その言葉に感じたが、部屋にはいってきたつかさはにこやかな笑顔を見せていた。 「今日、初めてお電話を戴きましたわね。すぐ佐沼先生にお報せしたら、もう本格的に癒った証拠だとおっしゃって悦んでおられました。——三年間の生活が失くなっているだけで、あとはすっかり正常にお戻りになったわけです。自分から生きて行こうという積極的な意志を持つか、持たないかで、正常に戻ったか、戻らないかが判るんですって」  つかさは明るい口調で言った。そう言われれば、山代とて嬉しくないことはなかった。確かに、伊豆の旅へ出る前と、伊豆の旅から帰ってからでは、自分に大きな違いのあることが、山代自身にも感じられた。 「朝起きた時、暫く頭が覚めきらないで、ぼうっとしていることがあるでしょう。この間までの僕は、そんな状態だったと思うんです。何となくはっきりしないんです。何もかも、貴女の助言と命令が必要だったんです。貴女に何か言って貰わないと、何一つできなかった。右を向くことも、左を向くこともできなかった。あのままだと、一生大変だったと思います」 「一生って、誰の?」 「貴女のですよ」 「まあ、一生わたくしの厄介におなりになるつもりだったんですか、呆れましたわ」  つかさは笑った。 「これからはもう大丈夫です。自分で生きて行ける」  山代が言うと、 「あら、また、そんなことを! 朝のお電話でも同じようなことおっしゃったので、わたくし、妙に悲しくなったんです。もう自分という人間が、山代さんには要らないような気がして」 「そんなことありませんよ。必要だからこそ、今朝電話して来て貰ったんじゃないですか」  山代はそう言ってから、すぐ用件の方へ話を持って行こうとした。つかさという女性の心の内側の問題にかかわり合うことを避けて、仕事の方へ話を切り替えて行こうとする、こうした気持は、何年かぶりのものであった。以前はこのようにして、眼の前にあるものを判断して、避けた方がいいものは避け、それが必要ならその方へ歩み寄って行ったものである。そうした気持の動き方が久しぶりで自分のものとなった感じであった。 「ずいぶん病院にも世話になりましたし、佐沼、高崎両先生にも厄介になりました。この辺で、気持だけでもお礼をした方がいいと思います」  すると、 「佐沼、高崎両先生でしたら、ご一緒にお食事を摂るぐらいのことがよくはないでしょうか。品物を差し上げてもお受け取りにならないでしょう」 「じゃあ、そうしましょう」  山代は言った。 「病院の婦長さんや看護婦さんたちへのお礼の気持の現わし方は、佐沼先生にご相談になった方がいいと思います」 「そうですね。それが一番よさそうだ。じゃ、そうしましょう」  山代は言った。すると、つかさは山代の顔を見入るようにして、 「いまみたいにぽんぽんいろいろなことお決めになって行くところは、新聞記者時代の山代さんなんでしょうか」  と言った。 「どうしてです」  山代が訊くと、 「でも、画廊の事務所で仕事をなさっていらっしゃる時の山代さんは、少し違いました」  そんなことをつかさは言った。 「ほう?」  山代もふいをつかれたような気持で、つかさの方へ顔を向けた。 「山代さんって、もっと投げやりな感じでした。いまみたいに、即決なさいませんでした」  つかさは言った。 「じゃ、投げやりな三年間の僕が抜けてしまって、新聞記者時代のいろんな事務を片っぱしから捌いて行く僕が出て来たんでしょうか。——やれ、やれ」  半ば冗談の口調で山代は言ったが、何となくつかさから指摘されたことが無気味だった。現在の自分は仕事の処理の仕方まで三年前の自分のそれと結び付いてしまったのであろうかと思った。 「そうかも知れませんわね。でも、そうだったら、わたくし、厭ですわ」 「どうして」 「どうしてって、もし前に恋愛していらっしゃったら、その相手が好きだという気持はそのまま現在の山代さんのものですもの」 「ところが、それは違う」  山代は言った。もしつかさの言うようなものだったら、八束陽子に対する恋情は生きていなければならないわけだが、それは現在の山代の心の中では死んでいる。 「違いますよ。三年前の一人の女性に対する執着は、いまは完全になくなっています」 「本当でしょうか。そんなに都合よく行くでしょうか」 「都合がいいか、悪いか知りませんが、ともかく、そうなっている」 「本当かしら」  つかさは疑わしげな表情で言ったが、 「こんど、それが本当かどうか、佐沼先生に訊いてみましょう」 「佐沼先生は何と言うか知りませんが、僕の場合、そうだから仕方がない」  それから山代は、 「明日から少し積極的に失くなった三年間のことを調べてみようと思うんです。その仕事を貴女に手伝って戴きたいんです。いままでも手伝って戴いたが、もっとたくさん手伝って戴きたいんです」 「承知いたしました。もともとそうしたお仕事をするつもりでおりました。何でもいたしますわ」 「それから今日、一体、僕はどれだけ金を持っているか、それを知りたいです。いつまでこうした何もしない生活を続けていられるか——」 「お持ちになっている銀行の預金通帳、ごらんになりませんの?」 「勿論見ました。額は知っています。しかし、これから支払わなければならぬものがあるんじゃないですか」 「ないと思います。預金通帳と一緒に会計の報告書を差し上げておきましたが、あれで一切すんでいると思います。画廊の部屋代も払ってありますし、——その領収書はノートに貼りつけてあります」 「見ました。知っています」 「そのほかには、もう何もないと思います。ただ受け取るべきお金で、受け取ってないのが幾つかあるだけです。それも書いておきました」 「それも見ました。十何人かありますね。絵の代金の未収でしたね」 「そうです」 「それにしても三年越しのもありましたが、絵を買うような人でもなかなか金は払わないものですかね」  山代は言った。退院直後につかさから渡されたそうした書類に、山代は二、三日前に眼を通して、かなり高額な絵を買っておきながら極く少額ずつしか支払っていない人のあるのを知ったのである。 「でも、それ、山代さんにも罪がありますのよ。——お金はいつでもいいというようなことをおっしゃっていたんですから」  つかさは真顔で言った。 「気が弱いというのか、向うが何も言わないのに、お金はいつでもいいというようなことをおっしゃるんですから。——それでいて、お店にはたいしてお金ありませんの」 「こんどは、そんなことありませんよ。じゃんじゃん取り立てます」 「びっくりするでしょうね、先方は。——まるで人間が変ってしまったと思うでしょう」 「実際に変ったかも知れませんからね」  山代は顔から笑いを消して言った。そして実際に自分はそうしたところは変ってしまっているのかも知れないと思った。八束陽子に対する恋情が死んでしまったように、そうした気の弱さも、あるいは自分の心の中で死んでしまっているかも知れない。何となくそんな気がする。 「そうした金の取り立ても手伝って戴かないと」 「勿論、お手伝いします。しかし、大体において相手がちゃんとした人たちですから、これは難しいことないと思います」  つかさは言った。 「そうした取り立てのお金も入れたらずいぶんの額になります。それも計算しておきました」 「見ました。ただ、それで、どれだけ生活できるかが見当付かないんです」 「でも、毎月要るのはここのお部屋代と食事だけですから」 「それだけでしょうか」 「どうしても要るのは、それだけですわ。この間のように、旅行すると旅行代が要りますけど」  そう言われればその通りであったが、旅行に要する費用にしても、この間実際に旅行してみて初めてそれを知ったのであって、それまでは二泊旅行にどれくらいの金がかかるか見当を付けることはできなかった。三年間の空白が、鉛筆一本買うにしても、山代に戸惑いをさせていた。 「貴女に立て替えて貰ってある分もありますね」 「あります。でも、これは少額ですから、いつでもいいんです。ご心配になるような額ではありません」 「序での時、それも計算しておいて戴きましょう」 「そうしないと気がおすみにならないなら、いつでも請求書を提出いたしますわ。急に几帳面におなりになりましたのね」  つかさは、おかしそうに笑った。 「それからと」  山代はちょっと考える風にしていたが、 「僕はゆうべ考えたんですが、来年の春までに、三年間の空白を一応埋めてしまって、それから心機一転して仕事を始めようと思うんです。仕事といっても、まだ何をするか、全く見当は付いていませんが、貴女や佐沼先生にも相談に乗って戴いて決めようと思うんです。やる仕事が決まらないと気持は落着きませんが、いますぐに決めることは無理ですからね」 「お仕事のことは、まだ先きでいいじゃありませんか。あんまり一度にいろいろなことをお考えになると、折角よくなった頭がまた疲れてしまいますわ」 「そうです。それは判ってます。一応三年間の空白を埋めてしまった上で、その上で考えるべきことですからね」 「ずいぶんいままではのんきに構えていらしって、こんどは急にせっかちにおなりになりましたのね」 「そういう傾向があります。しかし、伊豆の旅行から帰って来たら急に何か追われているような気持になって来たんです。早くちゃんとしないといけない。例のセザンヌの絵の始末もありますからね」  実際に山代は正常になったこの何日間か、ひとりで居ると、いつも何ものかに追われているような気持になっていた。 「セザンヌの絵の始末のことは、これは一応切り離して考えませんと。——大変なお金の要ることでそれを考えていたら、わたくしだって、ノイローゼになってしまいますわ」  つかさは多少憂わしげな顔で言った。 「それはそうと、今日もしお差支えなかったら、街へ出て、どこかで夕食差し上げたいんですが、どうでしょう」  山代が言うと、 「まあ、嬉しい」  つかさはいかにも嬉しそうな顔をして、 「わたくしも、山代さんがすっかりお元気になったんですから、お祝いにお食事差し上げようかと考えていたところです。ですから、今日はわたくしにご馳走させて下さいませんか。——請求書に入れない分で」  つかさは笑いながら言った。 「じゃ、それは改めてご馳走になることにしましょう。今日は僕にご馳走させて下さい。そして食事しながら、明日からのことの打合せをしたいんです。何が好きですか。何かうまいものを食べたいですね」  山代はうまいものを食べたくなっていた。うまいものを進んで食べたいということも、この何日かの新しい現象だった。 「とにかく、街へ出て、何かうまいものを腹へ詰め込まないことには」  すると、 「いまのおっしゃり方は前と同じですわ。前にも、いつもそんな風におっしゃいました。おいしいものって、山代さんは一体、何を召し上がりたいのかしら」  つかさはちょっと考えるようにした。 「そうですね、天ぷらかな」 「あら」  つかさは驚いたように眼を大きく見張ると、 「ほんとに変っていませんわ。以前も、わたくし、ご馳走になる時はいつも天ぷらでした」 「そうですか。これは驚いた。食べものに関することは変らんですかな」  山代は苦笑して言った。  山代はそれからすぐ外出の仕度に取りかかった。二人はアパートを出ると、都心へ出るためにバスに乗った。バスの中で、山代は、 「天ぷらよりビフテキにしますか」  と、隣りのつかさに言った。そうした山代の声が周囲に聞えるのを憚《はばか》ったのか、 「どちらでも」  つかさは前を向いたまま、低い声で返事をした。  二人はバスで渋谷に出、それから地下鉄で銀座へ出た。山代は何年かぶりで、街をぶらぶら散歩する楽しい気持になっていた。夜気は寒くもなく暑くもなかった。二人は人混みの中を歩いた。 「ビフテキになさいます?」 「そうですな」  山代が大きな声で言うと、 「ご返事小さな声でおっしゃって」  つかさは言った。 「ビフテキ」  山代は低い声で言った。  山代の連れて行かれたのは、日劇附近にある地下のレストランだった。七、八つ散らばっている卓を覆う白い卓布が、山代の眼に眩しかった。  山代とつかさは隅の方の空いている卓に就いた。ボーイがやって来て、椅子を背後から押してくれた。 「ビールを飲んでみていいでしょうか」  山代はつかさに言った。以前好きだったビールというものを久しぶりで口にしてみたかった。 「さあ」  つかさは返事をためらった。 「わたくし、存じませんわ。そんなもの上がっていいかどうか」 「構わんでしょう。別に目下のところどこが悪いというのでもないんだから」  それから山代は、 「佐沼先生に叱られますかな」  と言った。 「では、少しだけ。——佐沼先生には内緒にしておいて上げます」  つかさは言った。  山代はボーイにビールを注文し、それからスープと、ビフテキを頼んだ。山代は久しぶりで食事らしい食事をする気持だった。こうした食事の雰囲気は山代には三年ぶりのものであった。東京へ出てからの三年間に、幾らもこうしたレストランに出入りしたに違いなかったが、それらはすっぽり跡形もなく抜けていた。  ビールが運ばれて来ると、山代はコップを口に運んだが、直ぐそれを卓の上に置いた。 「どうですか」  不安そうに、つかさは訊いた。 「いや、まずくもうまくもないです。しかし、少し慣れたら、またうまくなるでしょう」  山代は言った。ビールを久しぶりで口にするということにある期待をかけていたので、何となくうっちゃりを食わされたような気持だった。実際にうまくもまずくもなく、ただ苦い冷たい液体でしかなかった。 「おやめになったら」  つかさはまた言った。 「僕はこれだけでいい。あとは貴女が飲んで下さい」  山代はたいしてうまくもないビールを口に運んだ。 「では、わたくしが戴きましょう」  つかさは自分のコップの半分程を飲みほすと、すぐ自分でそれにビールを満たした。つかさはスープが運ばれて来るまでに、自分のコップに二回ビールを満たした。 「むりに飲まなくてもいいですよ」  山代が言うと、 「何となく物騒ですから」  つかさはそんなことを言って笑った。つかさは早くも顔を赤くしていた。 「これから食事をする時は、以前に僕が行ったことのあるレストランヘ連れて行って貰いましょう。それも勉強ですから」  山代が言うと、 「ここもそうです。何回かいらしったと思います。わたくしとは一度だけですけど」  つかさは言った。山代ははっとして、改めて部屋の内部を見廻すようにした。  山代は、この高級レストランの内部には全く記憶はなかった。ここに何回か来たことがあると言われても、それを、どうしても信じることはできなかった。 「ボーイや店の人たちも、僕を知ってるでしょうか」  山代は訊いた。 「さあ」  つかさはちょっと間を置いてから、 「それはどうでしょう。それほど繁くいらしったとは思いませんから、お顔ぐらい憶えているかも知れませんが、どこの誰ということまでは、知らないんじゃないでしょうか」  そう言った。そこヘボーイが鉄板の上に大きな肉片を運んで来て、それを小さいサイド・テーブルの上で二つの皿に移し始めた。  やがて、山代はフォークとナイフを取り上げて、肉片を小さく切って口に運んだ。食べたいと思っていたものだけに、口の中で蕩《とろ》けるようなうまさだった。 「いかがです!」 「うまいですね」 「本当においしそうに召し上がっていらっしゃる」  つかさも嬉しそうに言った。  山代はビフテキを平らげると、珈琲を飲み、それから煙草をボーイに注文した。 「煙草お喫みになりますの?」  つかさは訊いた。 「喫んでみようかと思います」 「およしなさいませよ」 「脂《あぶら》っこいものを食べたあと、珈琲と煙草が特にうまかったことを思い出したんです。極く自然に珈琲を飲みたくなり、極く自然に煙草を喫みたくなったんです」 「知りませんよ、わたくし」 「大丈夫でしょう。以前やっていたことは、やはりやってみたいですね。こういう気持になることは、いいことじゃないですか」 「それはいいことか知りませんけど、煙草はどうでしょう」 「ひと口だけ吸ってやめます」 「何も、そんなことまでしてお喫みになることありませんわ。折角おやめになりましたのに」  しかし、山代の煙草に対する欲求は強かった。煙草を喫みたいという欲求ではなく、煙草を喫んでいた以前の自分へ戻りたいという欲求であった。以前にやっていたことなら、いまの自分は何でもできるのだ。そういった証明を自分で自分に行ってみたい気持だった。こうした気持は、つかさには判って貰えないかも知れないと、山代は思った。 「ビール召し上がったり、煙草をお喫みになったり、どんどん不良におなりになる!」  つかさは言った。いかにも歎かわしそうな口調だったので、それが山代にはおかしかった。 「大丈夫ですよ。ひと口吸ってみるだけですから」 「煙草ばかりでなく、山代さんたら、何でも悪いこと、みんなおやりになりそうですもの」  つかさは真顔で言った。  山代は運ばれた珈琲を飲んだ。珈琲は退院してから多摩川のゴルフ場わきの喫茶店で飲んだことがあったが、それ以来であった。この前の時は苦いだけで何の味もなかったが、こんどはなるほど珈琲というものはこのような味だったかということを思い出した。別にうまいとも思わなかったが、まずいとも思わなかった。飲み始めたらまた以前のように、毎日のように飲まずにはいられなくなるのではないかという気がした。  珈琲を半分程飲んでから、山代はやはりボーイに依って手渡されていたピースの箱を開けた。つかさはそうした山代の手許を見守りながら、 「だんだんわたくしの手に負えなくなりますわ」  と言った。冗談とも真面目とも取れる顔だった。山代はピースの一本を口に銜え、それにマッチで火を点けた。山代はひと口吸って、煙を口から吐き出すと、すぐ、 「この方は駄目ですよ。まずいだけだ」  と言った。そして山代はすぐそれを灰皿に棄てた。つかさが手を伸ばして、煙草の火を灰皿になすりつけるようにして消した。そして、 「その煙草お預りしておきます」  と言った。 「持っていても喫みませんよ」 「お喫みにならないのなら、お持ちになっている必要ないじゃありませんか」 「手厳しいんですね」  山代がピースの箱をつかさの方へ差し出しながら言うと、 「このくらいにしておかないと」  つかさは少し山代を睨《にら》むようにして言った。 「そろそろ出ましょうか」  つかさが言ったので、山代は入口のレジスターのところへ行って、何枚かの紙幣を取り出した。まとまった金額を払うのは、山代には久しぶりのことだった。  紙幣を出し、釣銭を受け取ることで、山代は自分が生活していることを感じた。ただそれだけのことが堪らなく嬉しかった。何か充実している思いだった。  その店を出ると、二人はさっき通った道を引き返し、日劇の前を通り銀座の方へ歩いて行った。 「きれいですね」  山代は心から銀座のネオンサインを美しいと思った。どこか自分の知らない異国の街でも歩いているような気持だった。銀座の表通りは相変らず人の流れが続いていて、二人はその中にはいって歩いた。 「お疲れになりません?」 「大丈夫。もう病人ではありませんよ」  山代は言った。しかし、山代はこの時、いまここを三年間の過去を失った男が歩いている、そんな思いも持って歩いていた。  山代の前にも背後にも人の流れは続いていた。若いアベックが多かった。どこへ行くのか、いかなる気持で歩いているのか知らないが、若い男女たちは時々明るい店の飾窓を覗き込んだり、連れと談笑したりしながら、同じ歩調で流れの中の一分子として歩いていた。そうした男女の姿は、どれもこれも例外なく屈託なく楽しそうであった。  ここに三年間の過去を失った男がいる! 山代はまた思った。自分だけが、自分一人だけが違っているのである。すっぽりと過去の一部が脱落しているのだ。 「山代さんって、歩くのがとてもお早いんですのね」  つかさが追いついて来て言った。 「そうですか」  山代は歩調をゆるめた。自分では気付かなかったが、知らないうちに早く歩いていたかも知れなかった。 「尤も、以前からとても早くお歩きになっていました。また前にお戻りになりましたのね。この間までは反対にひどくゆっくり歩いてらっしゃいました」 「ゆっくりでしたか」 「ええ、とても。——わたくしの方が早いくらい」  つかさは言った。山代は自分が早くこの銀座通りを通り抜けたい気持になっているのを感じた。何となくまだこの繁華地区の持つ雰囲気にはなじめない気持だった。  そうした山代に気付いたのか、 「余り遅くならないうち、そろそろアパートヘ帰りましょうか。お送りしますわ」  つかさは言った。二人は新橋まで歩いて、駅前からタクシーに乗った。  タクシーに乗ると、山代は間もなく銀座を歩いている時自分を襲っていた気持から脱け出している自分を発見した。自分一人が違っているといった気持からいつか逃れ出していた。 「やはり静かなところがいいですわね」  つかさが言った時、山代はつかさの方へ顔を向けた。自分の思っていることをすぐ感じとってしまうつかさという女性が、山代には堪らなく不思議に思われた。一体、この若い女性は自分の何であるというのであろうか。つかさは顔をまっ直ぐに前方に向けていた。そして何を考えているのか、その顔は自分ひとりの思いの中にはいっている顔だった。  渋谷の繁華地区へはいろうとして、大きくカーブを切った時、くるまは烈しく揺れた。その拍子に山代はつかさの体が自分の方にぶつかって来るのを感じた。 「危いわ」  つかさは言って身を起したが、山代はその時、突然自分を襲った甘美な陶酔に戸惑っていた。山代は自分もまた身を引いて、つかさの方へ眼を当てた。そこには一人の異性が居た。山代は無気味なものでも見るようにその異性に眼を当て続けていた。  山代はつかさという若い女性を、いままでとは全く違った眼で見守っていた。つかさはいったん崩した姿勢を再びもとに戻すと、あとは前と同じように前方へ顔を向けていた。つかさの内部には何事も起っていないようであった。 「この時刻になると、運転もずっとらくになるでしょう。昼間もくるまの数がこのくらいだと本当にいいんですけど」  つかさの口からはそんな言葉が洩れた。山代にとも、運転手にともつかぬ言い方だった。山代はそんなつかさの言葉を遠くに聞いていた。それに対して運転手が何か答えていたが、この方は山代の耳は全く受け付けなかった。  山代は自分の体がまだ快い陶酔に痺《しび》れているのを感じていた。つかさの体が自分に凭れかかったというだけのことで、山代の体は一瞬前までとはまるで違ったものになったのであった。  山代はつかさという不思議なものを見詰めていた。そこから眼を離すことはできなかった。眼を離すことができないというより、いま自分が保っている姿勢を少しでも変えることが怖かった。指一本動かしても、眼一つ動かしても、山代は自分という人間に責任を持つことのできない気持だった。自分という生きものがどのようなことになるか、全く見当が付かなかった。  山代は身を固くして、息を詰めていた。ひどく息苦しかった。何か大きな声を出して喚《わめ》き出すか、手を振り廻すか、そうしたことに依って、辛うじて平衡が保たれている現状を破壊したかった。  くるまの両側を街の燈火は飛んでいた。ひとしきり燈火が飛ぶと、やがてくるまは暗いところへはいった。こんどはひどく暗かった。闇の層が厚く張り廻らされ、その深い闇の中を、くるまはそこに吸い込まれるように走っている。 「この辺まで来ると、空気が違って来ますわね」  つかさは言った。なるほど半分開かれている窓から夜気がくるまの内部へ流れ込んでいた。その夜気の冷たさを感じたことが、ふいに山代を正気に返した。山代は初めて体を大きく動かして、大きく吐息した。 「ここはどこですか」  山代はかさかさした声で言った。自分の声でないような気がした。 「いま、三軒茶屋を過ぎたところですのよ。もうあと十分程」  つかさは言った。山代はネクタイに手をかけて、それをゆるめると、 「そこらを少し歩きませんか」  と言った。つかさと一緒に小さい四角な箱の中に閉じ込められている状態から、一刻も早く逃れ出したかった。つかさの言った十分という時間が、山代には堪え難いほど長いものに思われた。 「では、アパートの附近を少し歩きましょうか」  つかさは言った。山代はそれからなおも息苦しい時間を五分程持たなければならなかった。  くるまはゆるやかな坂を降りて、丘の裾で停まった。そこから多摩川の岸までは平坦な土地になっている。二人は多摩川の堤に直角にぶつかる細い道をゆっくり歩いて行った。道の両側は畑になっていて、田舎の夜道でも歩いている感じだった。山代は久しぶりで星の鏤《ちりば》められた夜空を仰いだ。  くるまを降りてから、山代は心の平静な状態を取り戻した。台風が襲って来、忽ちにして遠く去って行った気持だった。何かひと仕事したあとのようなほっとした気持だった。しかし、台風に襲われたあとと前では、山代にはかなり大きい違いがあった。山代はいま自分の横に並んで歩いているつかさを、はっきりと異性として意識せざるを得なかった。それは自分が相手の手に触れても、肩に触れても、そうした行為が容易ならぬ意味を持って来る厄介な存在であった。 「こうした夜の散歩など何年もしたことありませんわ。楽しいわ、こうしていると」  つかさは言った。山代ははっとした。つかさの口から出る言葉の一つ一つが、いまの山代には自分と性を異にする人間の口から出る意味を持った言葉として感じられた。 「寒くありませんか」  山代もまた優しく言った。男性が女性に与える労りの言葉であった。 「いいえ、少しも。堤のところまで歩いてみましょうか」  二人は堤に向って歩いて行った。堤の上の道は昼間はひっきりなしにくるまが走っていて、義理にも静かとは言えなかったが、夜も今頃の時刻になると、くるまはひどく間遠になっていた。一つのヘッドライトの光が通り過ぎてしまうと、遠くから次のヘッドライトの光が現われて来るといった状態だった。  二人は堤の上の道に出て、そこから川の面《おもて》を眺めた。職業野球団や大学の野球部の練習場になっている砂洲の向うに、細い流れの帯が横たわっている。雨のあとは川幅は広くなるが、天気が続くと、目立って流れは痩せて、どこを流れているか見付けるのに骨が折れるほど、貧弱なものになってしまう。  堤の上に立った時、山代を、さっきくるまの中の彼を襲った台風とは別の台風が襲った。山代はふいにつかさに愛の言葉を囁きたくなった。それは、そうせずにはいられぬような烈しい欲求であった。そうした気持の起り方は、この場合もまた衝動的なものだった。くるまの中の欲求が多分に肉体的なものであったとすれば、こんどのそれは多分に精神的なものであった。  山代は堪らなく自分の口から愛の言葉を出し、それをつかさにぶつけ、それでつかさを包んでしまいたかった。 「やはり、ここに立っていると冷えますわ。戻りましょう。まだ病気上がりですから」  つかさは言った。さっき山代がつかさに言った場合とは反対に、こんどはそれはひとりの女性がひとりの男性に与えた労りの言葉であった。 「じゃ、戻りますか」  素直に言ってから、山代は、 「僕は」  と言いかけて、ちょっとためらったが、いきなり、 「貴女が好きですよ」  と、ふいにそんな言葉を口走った。あまりにも突然、何の飾りもなく口から出たので、それは愛の言葉としての何ものかに欠けているようであった。従って、つかさはそれを愛の言葉として受け取らなかったかも知れない。 「わたくしも山代さんが好きです」  つかさは言った。言ってから、 「あら、星が飛びましたわ。ごらんになりませんでした? とても光の強い星が飛びましたわ」  つかさは空を見上げながら言った。山代もまた空を見上げた。 「秋の終りから冬の初めにかけて、星が飛びますのね」 「ほう」 「もうずいぶん長く星の飛ぶのを見ませんでした。何年ぶりかしら」  つかさは言った。山代は自分の耳が受け取った�わたくしも山代さんが好きです�という言葉が、果してつかさに依って囁かれたものであるかどうか疑わしい気持であった。本当にそうした言葉を、自分の耳も聞いたのであろうか、あるいはつかさに依ってそんな言葉は囁かれず、全く自分の錯覚であったのか。  山代はもう一度話をもとに戻そうと思った。自分が言いかけたことだけは事実なのである。言いかけた以上、もっと立ち入って言うべきなのだ。言って、一向に差支えないだろう。  自分は愛の告白をしかけたのだ。しかも、ひどく不完全な形に於て、それを為したのだ。それならば、それはもっと完全な形に於て為されなければならぬ。 「僕は——」  山代が言いかけると、 「寒くありません?」  つかさは言った。 「寒いものですか。僕は——」 「でも、寒そうにしていらっしゃる。寒そうに見えますわ。ポケットに手を入れていらっしゃるせいかしら」  山代は手を両のポケットから抜いた。実際に寒くはなかったし、それに寒さなど感じている場合ではなかった。 「僕は——」  その時、向うから人がやって来た。山代は愛の告白の続きを、少し先きに延ばさなければならなかった。  向うからやって来たのは四、五人の男女の一団で、その中の一人は自転車をひいていた。急病人がでて、医者を呼びに行った帰りとでもいったようなそんな会話を取り交していた。そうした一団と擦れ違ってしまうまで、山代とつかさは黙って肩を並べて歩いて行った。山代はつかさに対する愛の告白の言葉を、口まで出しかかったまま、それを抑えていた。  そうしている時、山代はこれと全く同じような時間を、自分はいつか過去に於て持ったことがあるのではないかという気持に襲われた。  やはり星を鏤めた夜空のひろがっている夜である。そしていまと同じように、何か多少心配事を内に蔵しているような会話を取り交している一団と擦れ違った筈である。自分は愛の言葉を連れに囁きかけて、それを中止し、それらの向うからやって来た一団と完全に擦れ違ってしまうのを待っていた。確かに自分はそうした時間を、過去に於て持ったような気がする。  こう思った時、山代は突然心が凍りつくような思いに打たれた。自分は三年の過去を失っているのだ。その中に何が詰まっているか知らない。いまは記憶を失っている恋愛事件もあるいは匿されているかも知れないではないか。八束陽子との事件ばかりとは言えない。何があるか判ったものではない。  山代の心は水でも浴びたように冷静になった。うっかりしたことを口走ったら取り返しのつかないことになりかねない。自分はほかの人間とは違うのだ。自分でも判らない三年の過去を自分は持っているのだ。  アパートの燈火はすぐそこに見えていた。山代は憑きものがおちたような気持で、 「遠くまで送って戴いてすみませんでした。まだバスがあるでしょうか」  と、いつもの口調を取り戻して言った。 「バスはまだ二つか三つあると思います。確か十時まである筈です」  つかさは言ってから、少しも口調を変えないで、 「さっきおっしゃったこと本当でしょうか」  と言った。山代ははっとした。そして急にはそれに対する言葉は思い当らなかった。さっき自分が言った言葉を、つかさはちゃんと聞いていたのであろうか。 「本当です。しかし、——」  山代はひどく臆病になった心で言った。 「僕は三年間に何をやっているか判りません。それがはっきりするまで、さっきの言葉は聞かなかったことにして下さい。僕はうっかり言うべからざることを言ってしまったような気がする」 「でも、聞いてしまったんですもの」  ぴしゃりと、とどめを刺すようなつかさの言い方だった。山代は急に自分を取り巻いている周囲の闇が深くなったような気がした。  つかさの�でも、聞いてしまったんですもの�という言葉に対して、山代が返答に窮していると、つかさは、 「では、ここで失礼いたします。バスで帰ります」  と言った。二人の間に話題になろうとしていることを、つかさはさっと捨ててしまった感じだった。 「そうですか。じゃ、停留所のところまで送りましょう」  山代は言った。つかさは辞退しなかった。二人はバスの停留所の方へ引き返して行ったが、二人とも一度捨てた話題を取り上げることはなかった。  山代はつかさが自分の曖昧な言葉に対してすっかり気分を壊してしまっているのではないかと、そのことが不安に思われた。  大きな車体に二、三人の乗客を乗せたバスが、遠くからヘッドライトの光を見せて近付いて来た時、 「では、また明日」  と、つかさは言った。 「何時頃来てくれます」  山代が訊くと、 「何時でも。お仕事ですもの」  つかさは言った。 「じゃ三時頃来て下さい」 「承知いたしました。三時に出勤いたします」  そう笑いながら言って、つかさはバスに乗り込んだ。  一人になると、山代は今夜は自分にとって容易ならぬ夜だったと思った。そして自分が口から出した求愛の言葉を、つかさがちゃんと聞いてしまったという一つの事実を、山代は改めて思い返してみた。確かにそれは容易ならぬことに違いなかった。  アパートの自分の部屋へ戻ると、暫くの間、山代は窓を開けて、そこから夜空を眺めていた。そして自分とつかさの間に生じた一つの新しい関係について考えた。山代は改めて自分の心を確かめるように、自分はつかさを愛しているし、つかさの体も心も欲しいのだと思った。きのうまで、つかさに対してこうした感情を持たなかった自分が不思議に思われた。くるまの中で、つかさの体が凭れかかって来た瞬間、自分が男性を取り返したのだと思うほかはなかった。  それから山代は洗顔してベッドヘはいったが、ベッドヘはいってからも、つかさのことだけを考えていた。そのことが山代の頭から片時も離れなかった。山代は自分の心がはっきりとつかさという女性を慕っていることを知った。しかし、その反面、こうしたことが自分の過去といかなる関係を持つだろうかと思うと、山代はやはり無気味で不安な思いに駆られないわけには行かなかった。  な ぎ さ  山代はふと眼覚めた。眠りに落ち込んでからどのくらいの時間が経っているか、さっぱり判らなかった。窓の外は暗く、くるまの走る音も遠くに聞えているので、眠ってから何ほども経っていない頃かと思われた。十一時頃眠った筈なので、十二時頃か、あるいは一時頃かも知れない。  山代はベッドに横たわったまま闇と顔を突き合せていたが、少し胸許が苦しくなっているのを感じた。軽い吐気があった。珈琲を飲んだり、煙草を喫んだりしたので、忽ちにしてその酬《むく》いがやって来たのかも知れなかった。  しかし、烈しい嘔吐感ではなく、極く軽い吐気であった。このまま静かにベッドに仰向けに横たわっていれば、吐気は次第におさまってしまうかも知れぬと思われた。  山代は仰向いている姿勢を横向けにしたり、またもとの仰向きの姿勢に返したりした。もう少し強い吐気なら、べッドから降りて吐いてしまうのが一番いいと思われたが、そうするほどのこともなかった。胃から心臓へかけて何とも言えず気持は悪かったが、反対に頭の方は冴えていた。水でもかぶったような、ある冷涼感をもった冴え方であった。  山代は自分の思いを、気持の悪いということから、何かほかのことに転化させようと思った。  ——つかさと暗い道を歩いたな。  そう思った時、山代はそれと一緒に全く異った情景を思い描いた。思い描いたというより、その情景はどこからともなく突然やって来て、山代の頭のどこかへぴたりと位置を占めてしまったと言った方がよかった。  足許では渚《なぎさ》の音がしていた。ひたひたと水の寄せる音が絶えず聞えている。山代は八束陽子と歩いていた。二人の周囲を暗い夜が取り巻いている。  ——僕の気持は。  山代が言いかけると、  ——そんなこと口に出しておっしゃるものではありませんわ。あら、向うから人が来ましたわ。  陽子は言った。なるほど何人かの男女が話しながらこちらに近付いて来つつあるのが判った。山代は言いかけたことをいっきに喋って仕舞いたかったし、そうしなければならぬと思っていたが、それを向うからやって来る一団と擦れ違うまで取っておかねばならなかった。  向うも、こちらに人がいることに気付いたのか、ぴたりと話し声はやんで、水際の潮の音だけがあたりの闇を占領した。山代は数人の夜釣りの漁師と思われる一団と擦れ違うまで、陽子の先きに立って歩いて行った。星がいっぱい夜空に鏤められてあり、遮るものがないので、それは山代の行手いっぱいに拡っている感じだった。山代はその星の鏤められた漆黒の絨毯へ向って、自分の体をその中に填め込みでもするように、その方へ歩いていた。  漁師らしい一団と擦れ違うと、山代は足を停めて陽子を待った。陽子はすぐ追いついて来て、山代と肩を並べて歩き出した。 「いさり火が出ていますわ」  陽子の言葉で、山代はちょっと足を停め、海の方へ顔を向けたが、山代の眼には暗い海面が拡っているだけで、どこにもそれらしいものは認められなかった。 「あら、波でかくれてしまったのかしら。見ていらしったら、いまに見えて来ます」  山代は自分のすぐ横で、同じように足を停めて海の方へ顔を向けている陽子を、息苦しく意識していた。  そのあと二人は何も喋らないでいた。山代は自分が歩き出したら相手も歩き出すことを知っていた。しかし、山代は足を踏み出す瞬間をうっかり見送ってしまったような不手際な気持で、そのままの姿勢を保っていた。  極く短い時間だったかも知れぬ。しかし、ひどく重い時間だった。山代は息苦しくて、どこかへ逃れ出さなければならぬと思った。必死な力を出していま自分を取り巻いているものを打ち破らなければならぬ。 「あら、見えました、灯が」  陽子は言った。なるほど灯が見えている。真暗い海面の一番遠い果に、眼にとまるかとまらぬくらいの小さい灯が二つ三つ置かれてある。  陽子の言葉で、二人を取り巻いている重い時間の流れが、小さい割れ目を持った感じだった。その小さい割れ目は見る見るうちに大きなものになって行きそうであった。  山代は相手の方に向き直ると、彫刻家が自分の前に置かれてある自分の作品をいじるような態度で陽子の肩に両手を当て、その手で陽子の体の向きを変えた。山代の頭を、瞬間のことだが、火花のようにいろいろな思いが走った。  ——お前はいま大変なことをしようとしている。それを承知の上だろうな。お前は長い間、自分に禁じて来ていたことを、いま為そうとしている。お前は何のために、そんなことをしようとするのか。これから先きお前には苦しみだけが来るだろう。それを承知の上だろうな。  山代は陽子の顔の上に自分の顔をかぶせて行った。唇をおした。捺印《なついん》といった感じだった。いかにも愛情交換を誓った契約書に捺印した感じだった。山代は何回も唇を重ねたが、触れるものは冷たかった。山代はいつか夜の海岸で拾った石が、そのしんまで冷え込んでいるような冷たさを持っていたことを思い出していた。陽子の唇はそんな冷たさだった。  山代が相手を自分の腕の中から自由にした時、相手の口から低い笑い声が洩れた。そしてそのあとに言葉が続いた。 「終りでしょうか。始まりでしょうか」  いま発生した一つの事件を、二人の関係の始まりと見做すべきか、終りと見做すべきか、陽子はそういう意味で言ったのであった。 「終りなんて!」  山代は言った。いきなり口をついて出て来た言葉だった。すると、陽子は、 「始まりだとおっしゃるんでしょうか。そういうものでしょうか」  そう考え深げな言い方をしてから、 「本当は恋愛には始まりも終りもありませんのね。いつでも始まりで、同時に終りだと思いますわ。わたしには、そういうものしか考えられません」 「そんな!」  山代は烈しく反対したいものを感じていた。いま二人は一枚の契約書に捺印したばかりではないか。いま二人が為したことは、何の意味も意義もないことだと言うのであろうか。 「人間というものを、もっと信じなければいけないでしょう」  山代が言うと、 「いいえ、人間を信じないとは申しません。恋愛というものがそんなによくは信じられないだけなんです。でも、始まりも終りもなくていいと思いますわ。始まりであって、それが同時に終りであっても、少しも構わないと思いますわ。——わたし、今夜のことは忘れません」  今夜のことは忘れないという最後の言葉を、山代は自分への労りの言葉としてしか聞けなかった。山代は自分がようやく両腕の中に捉えたものが、いまするすると抜け出して行こうとしているのを感じていた。 「なるほど恋愛というものは、始まりも終りもないものかも知れません。厳密に言えば、始まりも終りもない、始まりが同時に終りであるような、そんなものかも知れません。しかし、人間はそうしたものであることに堪えきれなくなって、もっと別の形のものに置き替えようとするんではないですか。僕は貴女に何も自分の気持など言わなくてもよかったんです。しかし、言わずにはいられなくなって、言ってしまったんです。僕はいま僕たちがしたことに、何の意味もないとは思えません」  山代は言った。こういう議論はひどく苦手だったので、相手を説得する力のないことが、山代は自分でもよく判った。 「わたしたち、いまお互いがお互いに愛情を持っているということを確かめ合ったんじゃありません? わたし、それでいいと思います」 「お互いが、これからお互いに相手を愛して行こうという誓いだったとは考えられませんか」 「誓いなんて!」  陽子は言って、 「誓いのことを言うのなら、わたし、夫と誓いましたのよ。永久に変らないことを。でも、いまは変ってしまった」  陽子は最後の切札を出すような、そんな言い方をした。  山代の回想はここでぷっつりと、フィルムが切れるように切れていた。  山代はそれまで自分が浸っていた過去の小さい断片の回想が、そこでぷっつりと切れて、どうしてもその先きへ続かないことを知った時、ふとわれに返った。  依然として吐気はあって、胸許が苦しかった。山代はああ、思い出したと思った。そして横向きにしている体を少しも動かさないで、そのままにしていた。そのままの姿勢を保っていたら、まだその先きを思い出して来るかも知れないという気持だった。  自分は八束陽子と夜の海沿いの道を歩いていた。その夜の暗さも、ひっそりとした潮の音も、はっきりと思い出すことができる。そう思った時、山代は思わず横たえている体を縮めるようにした。陽子の唇の冷たさがその時の冷たさで思い出されて来たからである。あれから自分はどうしたのであろうか。あの暗い海沿いの道を歩いて、どこへ行ったのであろうか。  山代は何とかしてその先きを思い出そうとしたが、記憶はそこで断ち切られていた。どうしてもその先きを思い出すことはできなかった。しかし、思い出すことができないと言えば、思い出すことのできないのは、その先きの部分ばかりではなかった。その前の部分も同じことだった。  回想は突然、陽子と自分の二人が海沿いの道を歩いていて、自分が愛の告白をしようとして、向うからやって来る何人かの人たちのために、それを少し先きに延ばすところから始まっている。その前の部分は、そのあとの部分と全く同じように、何も見えない霧の中に消えてしまっているのである。一体、自分と陽子の二人は、どこで会って、どういう成行きに従って、あの海沿いの道を歩くことになったのであろうか。  それにしても、あの海岸はどこなのであろうか。陽子の居た別荘のある伊豆の西海岸の漁村だと推定するのが、何となく自然のように思われるが、それもあくまで推測であるに過ぎない。それからまた、いつの年のいつのことであろうか。何となく晩春か、初夏のような気がするが、それもはっきりしたものではない。やはり、これも自分が陽子の居た別荘を訪ねた、その前後のことと推測するのが一番自然のようであるが、正確にそうだと断定する材料はない。  山代は吐気が次第におさまり、頭だけがいやに冷たく冴えて来ているのを感じていた。頭の一部が冷たい冬の月光にでもさらされているような、そんなひんやりとした冴えた感じだった。山代はその冴えた頭の中で、ふいに自分に戻って来た記憶の一部を、それを忘れないためにもう一度思い返そうとした。夢から覚めた時、夢の中のことを忘れないため、それを復習するように、夜の海岸に於て起った八束陽子との事件を、山代はまた初めから新しく思い返し始めた。  山代は繰り返し繰り返し、取り戻した記憶の断片を弄り廻していたが、そのうちに、確かにその夜の海岸を舞台にした小さい劇の中に登場して来る人物は自分に違いないが、妙にその自分という人物に実感がないことが感じられ、それが不思議に思われた。過去に於て、自分が持ったある夜のひとときの記憶を思い返しているというより、自分には関係のない劇でも見ているような、そんな気持だった。その劇に登場してくる人物は自分に似ているが、自分とはどこか違っていた。山代は自分に似てはいるが、厳密に言えば自分ではない、他の一人の人間に依って演じられている恋愛劇を見物しているといった恰好であった。  劇の中の山代は、八束陽子に対する烈しい恋情を持っており、しかもそれを相手に告げずにはいられないといった恋愛感情の昂まった思い詰めた時間に生きていた。現在の寝台に横たわっている山代には、それがよく理解された。しかし、理解されるといった形で理解されるだけで、その時の思い詰めた感情は、現在の山代の心には伝わって来なかった。自分と陽子の間に取り交された会話も、確かにそうした会話が取り交されたことは事実であったが、その会話に伴ういかなる感情も、生きた血の鼓動としては受け取ることはできなかった。  その恋愛劇の中に確かに自分は居たが、しかし、その自分という人間の持っている感情は、現在の山代には伝わって来ないのである。従って山代は、いま思い返してみる八束陽子なる女性に、何の心の昂ぶりも、血の騒ぎも感じなかった。  ただ気になるのは、その恋愛劇がいかなる結末を持ったかというそのことだけであった。劇の中の二人の演技者は、あれからいかなる演技をし、いかなる筋の運び方をしたのであろうか。  山代はいつか全く吐気というものを感じなくなっていた。過去の失われた記憶の一部を取り戻すために胸苦しく、あのように不快な嘔吐感を持たなければならなかったのであろうか。山代は寝台から起き上がった。そして机の上の時計を取ってみると、二時を少し廻っている。深夜である。  山代は自分に返った記憶の一部を、確りと自分のものとして所有するために、机のひき出しからノートを取り出して、それに暗い海岸での恋愛劇をメモ風に書き記した。  山代は再び寝台にはいったが、睡気というものは全くなかった。山代はそれから暁方《あけがた》まで眼覚めていたが、暁方の白い光線が部屋にはいって来た時、退院する時高崎から貰った睡眠薬のことを思い出し、それを取り出して服《の》んだ。  山代は少しも眠くないことが無気味であった。何とかして少しでも眠ろうと思った。平常の夜ならともかく、記憶の一部が回復したあとであるだけに、眠れないということが無気味であった。そんなわけで、山代は睡眠薬のイソミタールを服んだのであるが、一向に睡気はやって来なかった。窓の外が次第に明るくなるのを見守りながら、ひどく頭の冴え返ってしまっているのを意識しながら、ベッドの上に身を横たえていた。もう吐気も胸苦しさもなかった。  遠くの方から一番電車の音が聞え出した時、山代はベッドから降りて、窓際に立ってカーテンを開けた。そこから見える家々はまだ重く戸を降ろしており、堤の上の道にも、また堤に直角にぶつかっている道にも、人ひとり、くるま一台通っていなかった。そしてそこから見える風景全体がまだ眠りから覚めきっていない感じで、はっきりしない物の色彩や輪郭は、暁方独特の一種の腥《なまぐさ》さを持っていた。  山代は窓を少し開けて、異常に冴え返った頭を、暁方の冷気にさらしながら、窓外の景色を見入っていた。  ——俺はこうした朝、あの女の家から帰ったのだ。  山代はふいにそんなことを思った。あの女というのは八束陽子ではなかった。  ——俺はあの時堪らなく自分が厭だった。とうとうまた身動きできない立場に自分を追い込んでしまった。そう思うと堪らない気持だった。俺はそんな気持で早朝の道を歩いていた。跫音《あしおと》がするので振り返ると、女が小走りに駆けて来た。俺は女が自分のところへやって来ると思って、足を停めて待っていた。しかし、俺が振り返ると同時に、女も足を停めて立ち停まり、そこで右手を軽く上げて手を振った。  ここで山代は、いま自分がまるで口に出すようにして、頭の中で物語っているものが何であるかに気付いた。山代は俺はいま失われていた過去の一部を思い出しているのだと思った。ああ、俺は思い出している。一つの箱の中から一本のテープを手繰り出すように、それが切れないように、ゆるく少しずつ手繰り寄せているのである。  山代はそうしたことを頭の一部で考えながら、失われていた過去の一部の中へ、再び自分を入れていた。  ——俺はあの時、そうだ、俺はこの女を愛してやろうと思った。自分を追いかけて来て、途中まで来て手を振った女が、堪らなく哀れにいとしく思えたのだ。俺があの女を愛したとすれば、つまり俺の体の中にあの女に対する愛情というものが飛び込んで来た瞬間があったとしたら、それはこの時だったのだ。女が立ち停まって、軽く手を振った時だったに違いない。  山代はまた、ここで思った。あの女は八束陽子ではない。  山代は思った。八束陽子でないとすると誰だろう。しかし、それが誰であるかは判らなかった。山代は思った。あの女が誰であるか、そんなことを詮索《せんさく》している時ではない。俺はいま失われた過去の一部を取り返しつつあるのだ。一本のテープを引き出すように、それは引き出されつつあるのだ。もっともっと引き出さなければならない。  山代は再び、早朝の誰も通っていない道を一人で女の家から帰った朝に、その時間の中に自分を填め込もうとした。  ——俺は煙草を取り出して火を点けた。そして背後を振り返ってみた。女が家の方へ歩いて行く姿が見えた。それから——。  山代はここでわれに返った。記憶はここでまた断ち切れていた。  それから俺はどうしたのだ。俺はあの早朝の冷たい空気の中を歩いて行った。電車の駅の方へでも歩いて行ったのに違いない。俺はあれからどうしたのか。電車へ乗ったのか。あるいはその近くには電車の停留所なんてものはなくて、どこまでも歩いて行ったのか。  山代は依然として窓のところに立っていた。頭は冴えていた。山代は窓を閉めると、寝台の方へ戻ろうとした。そしてスリッパの音を立てながら二、三歩歩いた時、いきなり、  ——しまった!  と、大きな声を口から出した。本当にしまったと思った。  ——ああ、俺はとんでもないことをしてしまった。あの絵を、あのセザンヌの絵を売り付けてしまった。  こんどは自分の頭の中へ何ものかが飛び込んで来るような記憶の取り戻し方だった。つい一瞬前の記憶の回復の仕方は、一個の箱の中から白い紙テープでも引張り出して来るような、そんな回復の仕方で、過去の一部が少しずつ端からめくられて行くような感じだったが、こんど彼の頭へ蘇って来たものは、舞台の幕がばさりと切って落されたようなそんな瞬間的なものであった。  ——山代は小切手帳を取り出して、それにペンを走らせようとしている一人の老人の手許を見守っていた。そして山代は思ったのであった。いまこいつは小切手にサインしようとしている。サインし終ると、その一枚の紙片をちぎって、こちらに手渡すだろう。そうすればすべては終るのだ。  ——山代は老人の手許を見守っていた。すると老人はペンを握った手をとめて、わしはあんたを信用している。こうしたことは信用するか、しないか、そのいずれしかない。いいかな、少しはあんたを信用する、そう言った。山代は厭な老人だと思った。山代は相手の老人の眼を見返して、強いて不機嫌な表情をとっていた。信用するもしないもご随意にといった態度をとったつもりだった。老人は再びペンを動かし始めた。山代はほっとして、もう大丈夫だと思った。  ——老人はやがて一枚の小切手を山代の方へ差し出した。山代はそれを受け取ると、無造作に二つに折って、内ポケットに入れた。そして、これで万事は片付いたと思った。女中が紅茶を持って来た。山代は早くこの部屋を引き上げたいと思っていたので、紅茶を運んで来た女中をいまいましく思った。いい絵にはいい絵だね、なんと言っても。そんなことを老人は壁にかけられてあるセザンヌの絵を見て言った。いまや自分の所有物になったセザンヌの絵を、それが自分の出した金額に相当するものだということを自分に思い込ませようとしていた。  ——なんて諦めの悪い老人だろうと、山代は思った。すると諦めの悪い老人はまた言った。名画と言えることは言えるんだろうね、これは。それに対して山代は、勿論と言った。名画というよりは名作かな、そんなことを老人はまた言った。そんなことはどっちでも同じことなのだ。どうとでも好きなように思うがいい。はっきり言えば偽作なのだ。山代はそうしたことを太々しく思いながら、しかし、口では、名画でもあり、名作でもありますよ、と言った。  ——山代は席を立とうとした。まあ、いいじゃないか、二、三人親戚の者を呼んで、この絵を見ながら食事をしようと思っている。付き合ってくれないか、そう老人は言った。山代は他に約束があるからと言って、それを断った。そしてその部屋を出た。部屋を一歩出た時、これで自分もとうとう悪事を働いてしまったと思った。もし露顕するようなことがあれば、俺は詐欺師なのだ。  ここで山代はわれに返った。記憶は山代がその老人の部屋から一歩外へ足を踏み出したところで切れていた。  ——しまった!  山代はこんどは口には出さなかったが、心の中でそう叫んだ。山代は寝台のところへ戻ると、そこに腰を降ろして、依然として異常に冴え返っている頭で、  ——やはり自分はとんでもない悪事を働いていた!  と思った。セザンヌの偽作を売り付けているに違いないとは思っていたが、しかし、あくまでそう思うだけで、確証というものはなかった。しかし、いまやもうどうすることもできないのだ。それにしても自分の前に坐っていた老人は誰だろう。その老人については何の記憶もなかった。  その老人がセザンヌの絵を最初に買いとり、それからそれは転々として二、三人の人の手に渡り、そしてこの間つかさと一緒に訪ねて行った現在の所蔵者の手にはいったのであろう。  山代はこの頃になって、初めて烈しい睡魔に襲われ始めた。山代は寝台に横たわると、すぐ深い眠りに落ちた。  山代は正午近い時刻に眼覚めた。体の節々が烈しい運動でもしたあとのように痛かった。山代は眼覚めるとすぐ今朝方のことを思った。記憶を回復した三つの過去の断片がいきなり山代の頭に閃いた。  山代は思いがけず自分が取り返した自分の過去の欠片を、もう一度復習するようにして思い返してみた。どれも今朝方思い出したものと少しも違っていないように思われた。何ものも失われていないと思う。とにかく、たとえ一部でも記憶を回復したことは嬉しかったが、それにしても昨夜から今朝方にかけて、悪夢の連続のような一夜だったと思った。  吐気を感じたのは、記憶を回復するための何か特殊な生理的現象であったかと思われる。いま考えればイソミタールを服んだこともよかった。それは睡眠の方には利かないで、二つの記憶を回復するために何らかの働き方をしたものに違いない。  しかし、いずれにしても、山代は自分が取り返した過去の断片が、余り自分にとって有難くないものであることを思わざるを得なかった。いまやはっきりと八束陽子に対して自分が求愛したことは、動かすべからざる事実となったわけで、それはどの方面へかに進展して行かなければならぬ性質のものであった。山代は陽子と海沿いの道を歩いたあと、二人の関係は、それが終りとはならず、そこから出発して行ったと想像する以外仕方がなかった。陽子は�終りでしょうか、始まりでしょうか�と言ったが、それは始まりであるに違いなかった。  それからもう一つの見知らぬ女の出て来る記憶の欠片も、救いのない妙なものであった。この方も明らかに女と情事関係があるものと思わなければならなかったし、事件があれだけで終ろうとは思われなかった。  残りの一つの記憶からは、自分がセザンヌの偽作を一人の老人に売り付けた事実が判明している。それは明らかに詐欺行為であり、そこには弁解の余地は残されていなかった。  山代はまた、昨夜つかさと自分との間に生れた小さい出来事を思い返した。この方は失われていた過去の一部ではなく、現実の生ま生ましさを持った出来事であり、これからどのように展開し、どのような結末をとるか、全く見当の付かぬものであった。  こうした過去と現在の幾つかの事件は、昨夜から今朝へかけて、悪夢の連続のように起ったのである。謂《い》ってみれば、いま山代という人間を取り巻いて、二つの恋愛行為と一つの詐欺行為が 過去の時間の中を進行中であり、もう一つのつかさとの恋愛行為が現在の時間の中に於て出発しようとしているわけであった。  山代は眼覚めたが、寝台から起き上がる気にならぬほど疲れていた。解決しなければならぬ事件が山積しているような感じで、どれから処理すべきか迷う気持であった。  山代は寝台の上で二時間程横たわっていた。ゆうべ、つかさは今日訪ねて来ると言っていたのでそろそろ姿を見せてもいい頃だと思われたが、まだ現われなかった。  山代はつかさの来るのを待っている自分を感じていた。こうしたつかさを待つ気持は、これまでも何回か経験していたが、山代は自分のそうした気持を、今朝ははっきりとつかさに対する思慕の情として受け取っていた。  山代はつかさが来たら、ゆうべ取り戻した三つの過去の欠片のことを、ありのままつかさに話してしまう以外仕方ないと思った。過去の二つの恋愛事件がどのように発展して行くか見当は付かなかったが、八束陽子との場合は、彼女への恋情が現在の自分の心の中で死んでいることが、いまの山代にとってせめてもの救いであった。  もう一つの名前を思い出さぬ女性との場合は、相手に対する気持がいまの山代に実感を以て感じられるだけに、ちょっと遣り切れぬ気持があった。その女性の名前を思い出し、その女性との交渉を思い出したら、その女性に対する気持も今の山代の心の中に生きて来そうな気がする。そうなったら一体どういうことになるのであるか。しかし、山代はこうしたことの全部をつかさに話してしまおうと思った。  山代は遅い朝食を摂ると、すぐ病院の佐沼に電話を掛けた。 「珍しいですね。電話を戴くなんて!」  佐沼は言った。 「ゆうべから今朝方へかけて、三つほど前のことを思い出したんです」  山代が言うと、 「ほう、思い出した?」  佐沼の意気込む声が、受話器の中で弾けるように聞えて来た。そしてすぐ、 「どんなこと?」 「一つはある女性と海岸を散歩していた時のことです」 「どこの」 「それは判りません」 「いつのこと?」 「それもはっきりしないんです」 「どのくらいの時間?」 「そうですね、三分か四分ぐらいでしょうか」 「突然思い出したの?」 「香村さんと夕食を食べに行って、帰って来てすぐ眠ったんですが、夜中に吐気がして眼を覚ましました。そしたらふいに——」 「ほう」 「そのあと頭が冴えて眠れないので、高崎先生から戴いてあったイソミタールを服みました。眠るつもりで服んだんですが、却って頭も眼も冴えてしまって、それで窓際に立って戸外を見ていましたら、ふいにまた一つのことを思い出しました」  山代は言った。 「どんなこと?」  佐沼は訊いた。 「こんども女の人が出て来ます。名前は判りませんが」  山代が答えると、 「よし、内容はあとでゆっくり聞きましょう。もう一つは?」 「その直後です。これはやはり記憶にない一人の老人に絵を売って小切手を書いて貰っているところです」 「どのくらいの時間のこと?」 「そうですね。これも二、三分のことでしょうか」 「なるほど。——それだけ?」 「そうです」 「大収穫ですね、一晩に三つも思い出したら。近く、もっと大幅に記憶が戻るかも知れません。イソミタールが利いたら、もう一回イソミタールを服んでみますか、今夜にも」 「はあ」  山代は言ったが、まあ、ちょっと休ませて下さいと言いたい気持だった。三つの事件だけでも収拾がつかなくなっているところへ、この上幾つかの記憶が回復して来たら、一体自分はどのようなことになるか、その見当が付かないことが不安だった。 「いずれにしても、今夜にでも伺いましょう。それは、よかった! よかった!」  佐沼は自分のことのように、�よかった!�を連発して、受話器を置いた。  三時頃、つかさはやって来た。  山代は、その時、机に向って頬杖《ほおづえ》をついていたが、そうした山代が普通でなく映ったのか、つかさは不安そうな表情で、 「大丈夫?」  と、低い声で訊いた。 「どうかなさったんですか」 「いや」 「でも、いつもと違ってらっしゃる。ゆうべ、とても心配しましたの。昂奮していらしったから」  そう言ってから、 「わたくしの方も昂奮していましたが」  と、付け加えた。 「ゆうべは確かに昂奮していましたが、貴女に話したことは、昂奮の上で言ったことじゃないんです」  山代が言うと、 「判っておりますわ」  つかさは多少含羞んで、視線を山代から逸らすと、 「ビール上がったり、煙草お喫みになったりして何でもありませんでした?」 「少し変ったことがありました。それで、さっき佐沼先生にざっと報告しておきましたが」 「何でしょうか」  つかさは眉を曇らせて言った。 「記憶を三つほど取り戻しました。夜半から暁方にかけて」 「まあ」  つかさの表情は見る見るうちに明るいものになった。  つかさが急に明るい表情を取ったことで、山代は多少心の痛みを感じた。山代は佐沼には回復した記憶の持っている意味まで伝える気持はなかったが、つかさには何もかも知らせるつもりだった。  山代は先きに、セザンヌの偽作を売り付けた事件から始めようとした。 「一つは例の偽作なんですがね」 「やっぱり」  つかさは顔から明るさを消さないで言った。 「誰か見当が付かないんですが、実業家らしいある老人に小切手を書かせたんです。その時の気持は、はっきり覚えています。強引に押し切ろうとしているんです。全くやりきれません」  それから山代は、取り返した自分の過去の欠片を、詳細につかさに報告した。そして、 「何か思い当るものはありませんか」  山代はつかさの顔を見守って言った。 「さあ」  つかさは考えていたが、 「肥った人でしょうか」 「寧ろ痩せています」 「じゃ、判りませんわ。尤も、わたくしに判らせたりはしませんわね、その頃の山代さんは」 「そうでしょうね」  山代は過去の自分を突き放して眺めでもしているような、そんな気持で言った。恐らく、つかさの言うように、使用人の誰にも感付かせぬように、自分は慎重に事を運んでいるに違いなかった。 「とにかく、相当なものです。完全な悪党です」  山代が言うと、 「でも、がっかりなさることはありませんわ。セザンヌの偽作を売ったということは、もう既定の事実として考えていたんですから」 「それはそうですが」 「ただそれが確実になったということと、それを売り付けた相手が老人だということがはっきりしただけのことですわ」  それからつかさは山代を慰めるように、 「そのお年寄りのことで神経をお痛めになることは要りませんわ。その老人の方だって、また転売したんですもの。それより問題は現在の所蔵者から買い戻すことですが、それはそれでもう話がついております」  つかさからそう言われると、山代はふいに心が軽くなった思いだった。偽作問題に対しては一応打つべき手は打ってある筈であった。現在の所蔵者から果して買い戻せるかどうかは判らなかったが、そのことはまた別の問題に属した。 「それから、まだ二つありますのね」  つかさは、早くその方を訊きたいといった風に、山代を促した。 「もう一つは、ある女と海岸を散歩している記憶が戻ったんです」  気のせいか、山代にはつかさの眼がちかりと光ったように思われた。  山代は続けて言った。 「例の別荘で会った女性です。先きに断っておきますが、さっきの老人の場合と違って、この方は妙に実感がないんです。自分の言ったことやしたことは全部覚えていますが、それがどうしても自分自身だとは思えないんです」  すると、つかさは、 「構いませんのよ。何をおっしゃっても。——みんな現在の山代さんとは違う山代さんのなさったことなんですから。——一体、その女の方とどんなお話をなさいましたの」 「それが大変なんです」  山代は苦笑して言った。 「どんな大変なことでも、みんなおっしゃって下さい」 「自分の気持を打ち明けているんです」  山代が言うと、 「まあ」  ちょっと眼を見張って、 「厭な方!!」  と、つかさは眉を顰めて言った。 「それ、ごらんなさい」 「いいえ、別に何とも思いません。そして——?」  つかさはまた先きを促した。 「じゃ、初めから全部話します。言っておいた方がいいと思うんです」  山代は八束陽子と海縁りの道を散歩した何分かのことを、ありのままつかさに物語った。全部話すつもりだったが、唇を合せたことだけは、さすがに口から出せず、 「その時、僕は手を握ったと思うんです」  と、そんな言い方をした。つかさは、山代が喋っている間黙って聞いていたが、聞き終ると、 「まだ何か、お話しになっていないことがありそうな気がします」  と言った。 「みんな話しました」  山代が言うと、 「そうでしょうか」  疑わしげな表情で言ったが、すぐその表情を改めると、いかにも気を取り直したといった面持ちで、 「セザンヌの偽作の問題より、この方が大変ですわね。わたくしたち、明日から忙しくなりますわ。その方見付け出して、いまの山代さんはその頃の山代さんとは別の人間だということを知らせて上げないといけませんわね」  それから、 「でも、わたくし幾らかがっかりしました。ゆうべの山代さんは、何か相手を替えて、以前なさったことを復習しているみたいですもの」 「そんなことはありませんよ」  山代は言ったが、復習と言えば、復習したと言えるかも知れなかった。もともと八束陽子と海沿いの道を歩いた記憶を取り戻すきっかけとなっているものは、つかさと一緒に歩いたゆうべの事件であった。 「それから、もう一つは?」  つかさは訊いた。 「これも、女の人に関係した記憶です」  山代は、自分のことながらうんざりした気持で言った。 「どうぞ」  どうぞ、構わないから言ってくれ、というつかさの顔だった。 「この方は、今朝方、この窓に立って外を眺めた、その外の眺めから引き出されたことなんですがね」  そう説明してから、山代は残っているもう一つの過去の欠片について話した。その中にはいっている自分の気持だけを抜きにして、一応初めから終りまで全部説明すると、直ぐつかさは訊いて来た。 「どんな気持でしょう、その時の山代さんは」 「そうですね」  言い渋っていると、 「その時の山代さんは、その方が好きだったんでしょうか」  つかさはそう訊き直した。 「そうだと思います」 「思いますって、御自分のことなんでしょう」 「それはそうですが」 「構いませんのよ、何をおっしゃっても。だって、山代さん御自身、相手の方が誰かお判りになっていないんですもの」  まさしくそれに違いなかった。 「海沿いの道を歩いているもう一つの場合と違って、この方には、実感があります」  山代は言った。 「どんな実感?」 「その女性が手を振っているのを見て、この人は気持の優しい気立てのいい女の人だといったようなことを感じたんですが、そうした実感です。その時感じたそうしたことが、現在の自分の気持の中でも、別に不自然でなく感じられ、しかも納得される感じなんです。はっきり言うと、その時好きだと思ったんですが、好きだと思った気持が、恐らくその時と同じに、いまも思い出されて来るんです」 「では、その方が好きなんじゃありませんか」 「さあ」 「さあって、その時好きだと思った気持が、その時と同じにいまも思い出されるというんでしたら、やはり好きなんじゃありませんか」 「そういうことになりますかね」 「なると思います」  つかさは断定的な言い方をした。 「しかし、相手はどこの誰か判らない」 「お気の毒さまですわね」  つかさは片頬だけに笑いを浮かべたが、すぐそれを消すと、 「いま、その方にお会いになったら、どうなんでしょう」  こんどは真剣な表情だった。山代は今朝方取り返した記憶の中に登場して来た一人の女性の顔を改めて思い浮かべようとした。  山代の眼の中には一人の女性の姿が浮かんでいた。かなりの距離があるので、相手がいかなる顔立ちをしているか判らないが、暁方の冷たい空気の中に立っている女は、ほっそりした清潔な感じの体を持っていた。右手を軽く上げたところも濡れた感じはなく乾いている。  山代の心の中で、その女性を好きだと思ったその時の感情は生きていたが、しかし、いま彼が眼に浮かべているその女性とは、必ずしもそれは結び付いていなかった。  好きだという思いは、それだけ単独で生きてはいたが、どことなく浮き上がっている感じで、そうした感情を起す実体とは結び付いていなかった。 「いまその人に会っても、好きだという思いを相手に持つかどうか、全然自信はありませんね。記憶の中の感情だけが実感をもって思い出されるんで、相手の顔や性格については全く知識を持っていないんですから」  山代は言ったが、その言葉にはいささかの嘘もなかった。 「困りましたわね」  つかさはここで初めて笑ってみせた。 「それにしても、その方も見付け出さないといけませんわね。お会いになったらどうなるか、実験しなければなりません」 「冗談じゃありませんよ」  山代は少しむっとした表情で言った。つかさにからかわれている気持だった。しかし、つかさは冗談の口調では言っているものの、気持が全く別のところにあることは、その顔にはっきり現われていた。つかさは平生より寧ろ気難しい顔をしていた。 「でも、実験してみる以外仕方ありませんもの。——忙しいわ」  こんどは幾らか投げ遣りな口調だった。 「実験したくても、相手がいない」  山代は投げ付けるように言った。 「ですから、見付けなければなりません」 「見付ける人が多いですな。セザンヌの偽作を買った老人も見付けなければならないし、いまの女の人も見付けねばならぬ」  山代は投げ出したような口調で言うと、 「やめましょう、こんな話。——疲れてしまいましたよ」  実際に疲れを感じていた。昨夜からの疲れが、つかさと話をしているうちにふいに襲って来たようだった。そうした山代に気付いたのか、 「いけませんでした、わたくし」  そうつかさは、気を取り直すように言った。 「わたくし、つい以前の山代さんと現在の山代さんが違った方で、違った世界に生きているということをちゃんと承知しておりながら、女の人が出て来ると、すぐ気持が尖《とが》ってしまいますのね。でも、ほんとにいろいろな方が出て来るんですもの」  つかさは笑った。こんどの笑いは素直な本当の笑いだった。 「全くいろいろな人物が現われて来るものですね。われながらうんざりしますよ」  山代は、これこそ実感を籠めて言った。全然知らぬ人物が次々に自分の前に現われて来て、過去の自分といろいろな交渉を持ったことを語り始めている感じである。 「お疲れでしたら、お寝みになりましたら」  つかさは言った。 「いや、それほどでもありません。しかし、貴女に一つ注文しておきたいんです。これは貴女に対してばかりでなく、自分に対しても言うことですが、はっきりと過去の自分と現在の自分とを切り離して考えていないと、これからやって行けないと思うんです」  山代は真面目な口調で言った。この際、つかさにも、自分自身にも、はっきりと言い合めておこうといった気持だった。そうしないとあらゆることが混乱し、錯綜し、収拾つかなくなりそうである。過去の時間と現在の時間が平行して流れ始める。過去の時間といっても、それは一つではない。幾つも平行して流れる場合も考えられる。しかも、厄介なことは、それらが全部繋ぎ合わさって、現在の山代大五という一人の人間に統一されていることである。しかし、一応、過去の時間と現在の時間を、過去の山代と現在の山代を、全く違ったものと考えない限り、これから先き自分は生きて行けないだろうと思う。 「勿論ですわ。わたくし、よく判っている筈ですが、つい間違ってしまいます。でも、これからはそうした間違いは犯さないようにしましょう。山代さんも、そのことを充分注意なさらないと——。わたくしでも間違いかねないくらいですから、ご本人の山代さんはもっと間違いやすいと思いますわ」 「大丈夫です。僕は案外過去の自分を突き放して眺めています。どんなことを過去の僕がしていようと、僕は平気ですよ。平気だと思わないと、やって行けませんからね」  山代は話しながら、陽が翳《かげ》って行くように、自分の気持がひんやりと暗いものになって行くのを感じた。 「わたくしには、その代り、何でも匿《かく》さずおっしゃって下さい」  つかさは言った。 「いままでも何もかも喋って来ましたが、これからもそうするでしょう。そうしないと、これからの僕の仕事を手伝って貰えませんからね。その代り、どんなことがあっても驚かないで下さい。過去三年の間に、僕はとんでもないことをやっていそうな気がする」 「平気ですわ、何をなさっても。——それを一つ一つ整理して行きましょう。二人で協力したらどんなことでも整理できると思います」  山代はつかさの顔を見守っていた。自分にとって不思議な立場に立っている女性を、山代はある感動をもって眺めていた。一体、この若い女性は自分の何であろうか。  その日、つかさは一時間程で帰って行った。帰って行く時、 「このところ、いろいろな新しいことが押し寄せて参りましたわ。今日はわたくしの出勤も遅くなって何も仕事はできませんでしたが、あしたから活動を開始いたします」  そんなことを、つかさは言った。活動を開始するといっても、いかなる事をいかにしてやるか、山代には判っていなかったが、つかさはつかさで何か考えているらしかった。  つかさが帰ってから三十分程すると、佐沼と高崎の二人が部屋へ姿を見せた。佐沼、高崎の二人が一緒にアパートを訪ねて来たことは初めてのことであった。 「思い出したそうじゃありませんか」  部屋へ足を踏み入れるなり佐沼は言った。 「ええ、電話で申し上げた程度ですが」  山代が言うと、 「よかった。よかった。もう大丈夫ですよ。記憶の島が一晩に三つもでき上がったということは、やがて近いうちに、完全に全部の記憶を回復する報せではないかと思いますね」  佐沼は言った。高崎は窓際に立って、山代と佐沼の方へ眼を向けていたが、 「ここ一週間か十日のうちに、記憶は回復されるんじゃないですかね。早ければこの二、三日でしょう。半月程の間に回復しないとなると、ちょっとまた期待を引込めなければならなくなりますが、山代さんの場合は多分大丈夫ですよ」  そう言った。 「高崎君はこれから当分この部屋に泊り込みで、山代さんのところから離れないでいたいくらいに考えているようですよ」  佐沼が半ばからかうように言うと、 「まさか」  高崎は笑って言った。 「いや、本当だ。そのくらいの意気込みだったよ。さっき、山代さんのことを電話で報せた時は」 「そうでしたかね」  高崎は少し照れた表情をとった。そうした佐沼と高崎の二人のいやに浮き浮きと弾んでいる会話を聞いていると、何か自分とは全く異った世界に二人が住んでいるような気がした。  山代は近く失われている過去の全部が自分に戻って来るかも知れないと言われると、何かちょっと待ってくれと言いたい気持になった。それに対する準備が自分にはまだできていない。一応準備ができ上がるまで記憶の回復は待って貰いたい。そんな気持だった。こうした気持はついぞこれまで山代の予想したことのないものであった。  山代はひどく厄介なものが自分にやって来るような思いで、佐沼と高崎とは全く異った自分一人の世界にはいっていた。 「本当に記憶を回復するでしょうかね」  山代は改めて佐沼の方へ顔を向けた。 「回復すると思います。ゆうべ三回にわたって記憶の一部を取り戻したということは、現に記憶を回復しつつあるということでしょう。少くとも記憶を回復するような、何かの動きが脳の中で行われつつあるということです。記憶を回復するということは、どういうことか、まだよく判っていませんが、たとえばこのように考えてもいいでしょう。詰まり、何か大きな重いものが、上から記憶を司っている脳細胞を押え付けている。それさえ取り除けば記憶は正常にかえる。しかし、なかなかそれを取り除くことはできない。ところがゆうべその重いものが、極く僅かだが、三カ所において欠けてなくなった。どうしてそのようなことになったかは判らないが、とにかく、欠けてなくなった。そのようなことがあったくらいだから、重いもの全部がすっぽりとなくなってしまうことも充分考えることができる。丁度活動を開始した火山みたいなものですよ。三回微震があった。この調子では充分大爆発も考えることができる——」  佐沼は言った。 「重いものが上から押え付けているんですか」  山代は不機嫌な顔で言った。 「いや、それはあくまでたとえですよ。あるいはまたこう考えてもいいでしょう。物を記憶するということは、それを司る細胞がある並び方をすることである。人間は沢山記憶しなければならないので、細胞は一度並んでもすぐばらばらに壊れてしまう。しかし、一度並び方を覚えると、必要に応じて、いつでもその並び方をする。それが思い出すということである。記憶を失ってしまうということは、詰まり細胞が曾て並んだその並び方を忘れてしまって、どうしてもそのように並ぶことができないことである。だから以前のことを思い出すことができない」  山代は黙っていた。すると、佐沼は続けた。 「山代さんのその細胞は、過去三年間を区切って、その間に並んだ並び方を忘れてしまったんです。しかし、どういうわけか、ゆうべ突然、細胞は三つの並び方を思い出して、突然そのように並んだのです」 「麻雀《マージヤン》のパイみたいなものですな」  山代は不機嫌な顔のままで言った。そして、 「やはり一列に並ぶんですか」 「そんなことは判らない。無数に並ばなければならないから、大変複雑な並び方でしょうね。とにかく山代さんの脳細胞がゆうべ三つの並び方を思い出したことだけは事実です。この分で行くと、あるいは全部の並び方を思い出さないものでもない」 「なるほど」  山代は言って、何ととんきょうな細胞だろうと思った。しかし、佐沼の言うように、もし彼等が三年間に並んだその並び方の全部をふいに思い出したら、さぞ大変な混乱だろうと思った。  山代は麻雀パイのようなものが、互いに体をぶつけ合いながら混乱して、それぞれがある並び方に並ぶために、仲間を求め合って、押し合いへし合いしているさまを眼に浮かべた。自分の頭の中でそのようなことが行われるとしたら、全くやりきれないことだと思った。  そうした混乱がやりきれないばかりでなく、そうした混乱の果に、無数の麻雀のパイたちが、整然と己が並び方で並んだとしたら、それこそ大変である。三年間に起った出来事が、三年間に出会った人間共が、それぞれに自己を主張して立ち上がって来たら、その時は一体自分はどうしたらいいのか。山代は、あるいは回復しかかっているかも知れない自分の頭を、この時ほど無気味に思ったことはなかった。 「とにかく、ゆうべ記憶を回復した時の模様と、その回復した内容をできるだけ詳しく話して戴きましょう。それをノートします」  高崎は言った。山代は言われるままにできるだけ詳しく喋った。しかし、八束陽子との会話の内容や、二人だけしか知らない出来事については一切触れなかった。その点ではつかさに話した場合よりもっと触れない部分が多かった。  山代は幾ら相手が医者であっても、個人の秘密に関する部分は守らなければならぬと思った。自分ばかりでなく、八束陽子に対しても、またもう一人の女性に対しても、秘密にすべきところは秘密にしておいてやらねばならぬという気持だった。 「今夜、もう一度イソミタールを服んでみますか」  話を聞き終ってから佐沼は言った。 「やってみましょう。また何か出るかも知れない」  出るとか出ないとか、そんな高崎の言い方が、山代にはひっかかった。まるで幽霊でも出るのを待っているような言い方だと思った。 「出ないでしょう、もう」  山代が言うと、 「いや、出ますよ。きっと出ますよ」  佐沼は確信のある口調で言った。すると、高崎が、 「今夜、私がここに詰めていてみましょう。その方がいいでしょう」  そんなことを言った。ますます幽霊だと、山代は情ない気持がした。 「今夜は堪忍《かんにん》して下さい。ひどく疲れています」  山代が言うと、 「疲れている! そうですか」  高崎はその疲れているということをノートするつもりなのか、手帳を開いて、それに鉛筆を走らせた。そしてそれを終えてから、 「疲れているかも知れませんね。今夜はやめて二、三日してからにしましょうか」  高崎は同意を求めるように佐沼の方に言った。  真  物  翌日、山代は一通の手紙を受け取った。アパートの山代のところに最初に配達された手紙であった。かなり達者なペン字で表書きが書かれ、差出人の名前は認められてなかった。一見して、それは明らかに女文字であった。  山代はすぐ封を切ってみた。  ——御退院なさいましたこと、病院へ電話しまして承知いたしました。お悦び申し上げます。わたくしは貴方様から絵を売って戴いたことがあるもので、過去に於て、何回かお目にかかったことがございます。実は少々お願いしたいことがありまして、近くお目にかかりたく存じております。と申しましても、決して御迷惑をおかけするような申し出ではございません。少しく事情がございまして、住所氏名も記しませんが、何もかも御拝眉の上御諒承戴けるかと存じます。もし、わたくしの申し出をお聞き届け下さいますようなら、次に記します時日のいつでも結構でございます故、銀座表通りのW喫茶店へお越し戴けませんでしょうか。当方より参上の上お願い申し上ぐべきですが、少し事情がありまして、お訪ねしますことを差し控えます。重ねてぶしつけなお願いいたしますこと、深くお詫び申し上げます。  文面は以上のようなもので、W喫茶店で会う日時が、そのうちどれを選んでもいいように四つ書き記されてあった。そのうちの最初のものは、今日の午前十一時となっている。あとは二、三日ずつおいた日が選ばれ、時刻はいつも十一時と記されてあった。  山代は二回文面に眼を通した。名前も名乗っていないし、用向きもはっきりしていないが、しかし、一生懸命になって鄭重《ていちよう》に書いているような文章から推して、この手紙にそれほど深い魂胆が秘められていようとも思われなかった。  山代は初め、午後につかさが訪ねて来ることになっていたので、彼女にこの手紙を見せ、これに対する措置を相談するつもりだったが、ふいにつかさには相談なしに、指定された場所へ行ってみようかという気持になった。そして自分で出掛けて行くのなら早い方がいいと思った。  山代は時計を見て、いまからでもくるまを使えば十一時までに銀座のW喫茶店へ出向いて行くことができると思うと、すぐそうしようと思った。気になる仕事は、早く片付けてしまう方がさっぱりするだろうという気持だった。  山代はつかさが来た場合、部屋にはいって待っていて貰うように管理人に頼んでおいて、すぐアパートを出た。自分一人で都心まで外出するのは初めてであった。  山代は多摩川の堤の上に出て、空車を拾うと、それに乗り込んだ。そして、どんな人物か判らないが、まず会ってみることだと自分に言った。つかさに無断で自分一人で出掛けて行くことに対する言い訳のような気持だった。  山代は銀座のW喫茶店の方へ歩いて行ったが、その時ふと、自分はどうしてこの喫茶店の在《あ》り場所を知っているのであろうかという疑念に捉えられた。W喫茶店という名は一応全国に知られた名前であって、大阪時代に於ても、山代は何回となくこの喫茶店の名前を耳にしている筈であった。そしていつもこの店が�銀座のW喫茶店�というような呼び方で呼ばれており、そのためにそれが銀座の表通りにあるぐらいのことは知っていたが、しかし、よく考えてみると、自分はこの店へはいった記憶は持っていなかった。  山代はふいに足を停めると、どうして自分はこの店を知っていたのであろうかと思った。山代の立ち停まっているところは、その彼が行こうとしている喫茶店の前であり、W喫茶店という文字の認められた鉄の板が、入口の大理石の壁面に填め込まれてあった。  ——自分はいまここに来ようとしてここに来たのである。そして確かに、いま、店の前に立ち停まっている。  ——しかし、自分はいままでにこの店がここにあるということは知っていない筈であり、ましてこの店の内部へはいって行った記憶もない筈である。  ——しかし、誰にも訊かずに、何のためらいもなくここへやって来たのは事実である。  山代は、ぎょっとしたように、影も形もない無気味なものを見詰めている思いだった。しかし、すぐその問題はあと廻しにして、この店の内部で自分を待っている人物に会おうと思った。  山代は店の内部へはいって行った。広い店内には三十ぐらいの卓が散らばっていた。山代が漠然と店内のあちこちに視線を投げ、自分を待っていそうな人物を物色しようとした時、ふいに山代の立っているところから五つ六つの卓を隔てて、一人の女性が立ち上がるのが見えた。  その女性は立ち上がると、ちらっと山代の方へ視線を投げるようにしたが、その時、山代は、あ、あの女だと思った。一昨夜取り戻したばかりの記憶の欠片の中に居た女性に似ている。早朝の冷んやりした空気の中に立って、どこかへ去って行く自分の方へ手を上げた女性であるように思われた。山代はその女の方へ歩いて行った。女は自分の卓を離れて山代の方へ近寄って来ようとしたらしかったが、山代がその女の方へ行く気配を示したので、女は再び自分の席に坐った。山代はそこへ行くと、 「山代ですが、貴女でしょうか」  と、知っているとも、知らないとも言えるその女に、そんな最初の言葉をかけた。 「恐れ入りました。わざわざお出で下さいまして」  女は言った。山代は女と向い合った椅子に腰を降ろして、改めて女に眼を注いだが、近くから見ると、何の見覚えもない顔だった。卓を幾つか隔てて見た時、�あの女だ�と思ったが、そうしたあの女だと思った気持は忽ちにして山代の心から消えてしまった。 「お体はもうすっかり宜しいのでございましょうか」  女は言った。 「退院はしましたが、さあ、どんなものでしょうか」  山代は曖昧に答えた。 「わたくし、いつぞや病院でお目にかかったことがございます。病室の方へ伺って、すぐお暇いたしました」 「ああ、あの時の方ですか。思い出しました」  山代は言った。そんなことがあったなと思った。 「それで病院にお電話して、ご退院を知ったのでございます。以前の御記憶を失くされましたとか」  女が言うと、 「ごらんの通り、まだ三年程のことを失ったままですよ。貴女と私とは何か関係があったのでしょうが、この通り、私は貴女について何も知っていません。全く初対面の方に会っている感じです」  山代はあけすけに言った。あけすけに言うほかはなかった。 「ほんとに大変でございましたわ。でも、ご退院できるようにおなりになって、ほんとに結構だと存じます。わたくしのことを思い出して下さらなくても、そんなことはたいしたことではないと思います。実は今日お目にかかりたくて、ご足労願いましたのは、お願いが一つございます。変なことを申し上げるようでございますが、もしかしたら、わたくしが以前に差し上げたお手紙が何通か、お手許にあるのではないかと思いまして」 「手紙ですか」 「はい。その手紙を、できましたらお返し願えないかと」  女は言った。この時、山代は改めて女に眼を注いだ。年齢は三十歳を一つ二つ出ているかも知れない。そうした年齢の持つ落着きを、女は身に着けていた。いかにも良家の若夫人といった恰好で、服装もちゃんとしたものを、少し硬い感じで纏っている。 「お名前は」 「七浦と申します」  女は面を伏せたままで言った。 「実はこの間、アパートから持って来た手紙を全部一応整理しましたが、貴女から戴いたと思われるような手紙はなかったと思います」  山代は言った。 「そうでしょうか」  女は急にその整った顔に不安なものを浮かべて言った。 「ありませんでしたらよろしいんですけど、もしありましたら、お返し戴きたいと思いまして」  女はまた言った。 「結構です。ありました場合は、すぐお返ししましょう。一体、——」  一体、その手紙はどういう手紙なのかと訊こうとしたが、山代はそれをすんでのところで思いとどまった。さっき、この女性を見掛けた時、自分はあの女だと思った筈である。実際にこの女性が、自分が記憶を取り戻した小さい過去の欠片の中に登場して来る女性と同一人物だとしたら、自分とこの女性との間には何かそう簡単でない関係がありそうである。自分はこの女と愛情関係か、あるいはそれに類する関係を持っていたかも知れないのである。  山代はもう一度自分の前に俯いて坐っている女性に眼を当てた。どうみても良家の若夫人といった感じである。性格が控え目で、おとなしいことは、ここへ坐ってからいままでの極く短い時間でも、はっきりと判っている。  女はいま悩みと苦しみを持っている。そうしたことが、少し眉を顰めて緊張している顔の表情によく現われている。  やがて、女は顔を上げて山代を見ると、 「以前お目にかかった時に較べますと、すっかりお変りになりました」  と、いかにもそのことを考えていたといった風の言い方をした。硬い顔の線が、この時だけ、極く微《かす》かに動いた。 「絵を買って下さったんですね」  山代はそういう言い方をした。過去の二人の関係は、いまとなってみれば相手にとって迷惑なのかも知れなかったし、山代の方としても、それはそれで影も形もなく消えてしまったこととしておく方が無難かも知れなかった。いかなる関係があったにせよ、実際に、いまの自分の知らない、自分とは関係のないことなのである。 「デュフィのデッサンを戴きました。他にも二、三点ありますけど」  女は言った。そして、 「お手紙のこと、お破りになったかお棄てになっていたかも知れませんわね」 「そうです。仕事の関係のものは、どうも、その度に整理していたようです」  山代はまた、前と同じ言い方をした。 「それでしたら宜しゅうございます。何もお騒がせしなくてもよかったんですが、気になりましたので」  そう言ってから、それを弁解するように、 「家の者に内緒で、わたくし、お金を動かしましたので」  と言った。 「なるほど。——とにかく、貴女からの手紙らしいものが見付かりましたら、私も読まないで、そのままお返しします。私は何の意味もない書類一枚でも、以前のものに触れるのは厭なんです」 「そうお願いできましたら」  愁眉《しゆうび》を開いたように、女はほっとした表情をとった。  山代は自分と女の関係は知っておかなければならぬと思った。これからの自分の新しい出発のために、たとえそれがいかなる性質のものであれ、一応知っておくべきであると考えていた。しかし、それを相手の女の口から知ることは避けたかった。  七浦という女性が、現在どこに住み、いかなる境遇にあるか、当人の口から聞くことが一番手っ取り早かったが、山代はその誘惑に耐えていた。たとえ廻り道でも、自分でそれを調べようと思った。  女は話題の接穂《つぎほ》がなくて困っているらしく、顔を俯けて、膝の上に置いた自分の手を見詰めていたが、やがて、 「お忙しい中を、本当に申し訳ありませんでした」  と言った。そこには、これで用件を打ち切りたいといったものが感じとられた。 「では、これで失礼しましょう」  山代は言って、椅子を背後にずらした。女も立ち上がった。  女は勘定を自分でするつもりらしく、卓を離れると、勘定場の方へまっ直ぐに歩いて行った。山代はそうした女に視線を当てていた。ハンドバッグの口を開いて、それを覗き込むようにしている女の横顔を少し隔たったところから見守りながら、山代はやはりあの女ではないかと思った。  そう思った時だけ、山代は女に特殊な感情を持った。取り返した記憶の欠片の中で、山代が自分を送って右手を軽く上げていた女に感じたと同じ気持だった。卓を隔てて向い合っている時は何も感じなかったが、少し距離をおいて遠くからその姿を眺めていると、山代は相手に妙に他人ならぬようなものを感じた。  山代はそうした女に近付いて行った。勘定をすませた女は、山代に対して最後の挨拶をするために、店の入口に立っていた。  山代は女の前に立った時、つい一瞬前自分の心を横切った女への気持が、いまは掻き消すように消えてしまって、まるで違った女の前に自分が立っているのを知った。 「では、どうぞ、くれぐれもお大切になさって下さいまし」  女は言った。山代はそれに対して、黙って頭を下げ、それから女へ背を向けて歩き出した。  どうして自分はこの喫茶店を知っていたのであろうか。この店へはいる前に襲った疑念が、再び山代の心を捉えていた。記憶を取り戻すといったような、はっきりした取り戻し方でなく、また記憶の欠片というようなはっきりと形を持ったものでなく、もっと不分明なものが、もっと不分明な形で、徐々に山代の頭の中の空白を埋めつつあるような気持だった。  銀座の喫茶店へ山代の足を運ばせたものは、やはり山代が一度失い、そして再び取り戻した何ものかであるに違いなかった。  銀座からアパートヘ帰るまで、地下鉄とバスに乗ったが、その間ずっと、山代は何ものかに追われているような気ぜわしい気持になっていた。いままで眠っていたあらゆるものが、急に眼覚めて、活動を開始しようとしているかのような慌しい気持だった。  そのくせ、よく考えてみると、三年間という大きな陥没地帯の中で、極めて小さな石ころが三つ四つ拾い出されただけの話であった。しかし、山代は次々にこれから石ころが拾い出されて来そうな気がした。佐沼や高崎が言ったように、陥没地帯全部がもくもくと盛り上がって来ないものでもない。  山代は期待と不安の交錯した一種名状し難い気持の中に落ち込んでいた。バスの中では、山代は自分の周囲の誰をも見なかった。体を少し横向きにして、窓外の風景にぼんやりと眼を当てていた。  ——これは、一体、悦ぶべきことか、悲しむべきことか。  山代はいま自分という人間が置かれている特殊な状況を正確に判断しようとした。しかし、自分を納得させるほどの答は得られなかった。誰にも相談できぬ自分だけの問題であった。  過去からすっぽり脱け出して、新しい人間として生きようとしたやさき、過去が再び恐ろしい力で山代を引掴み、過去の中へ引きずり込もうとしている。折角断ち切った過去へ、再び山代を連れ戻そうとしている。過去を失った人間が生きにくいことは、山代はこの半年間いやというほど痛感している。しかし、やっとそれに慣れ、その過去を埋めて生きようと決心したばかりの時、再び過去が小さな欠片となって、山代のところへ少しずつ舞い戻ろうとしている。  バスを降りて、アパートの方へ歩いて行くと、アパートの正面の入口のところに立っているつかさの姿が眼にはいって来た。 「どこへ行ってらっしゃいましたの?」  山代が近付いて行くと、つかさが訊いた。 「銀座へ行ってみました。一人で出歩けるかどうか験《ため》してみたんです」  山代は言った。 「どうでした?」 「もう平気です、地下鉄にもバスにも乗りました」 「どこも間違えませんでした?」 「信用ないんですね」  山代は笑った。幼い子の最初の外出でも見守っているようなつかさの言葉が、山代には暖かく感じられていた。 「今日はどこかへ、過去の欠片を探しに行ったらどうでしょう。あんまりいいお天気ですので」 「そうしますか」 「一度街へいらしったから疲れますかしら」 「大丈夫ですよ」  山代は言って、つかさの顔を見守るようにした。秋の明るい陽光の中で見るせいもあったが、つかさの顔は眩《まぶ》しいほど明るく美しかった。 「田園調布の村木さんのお宅へ行ってみましょうか。そして本格的にセザンヌの偽作が村木さんの手にはいるまでの経過を調べておくことも必要だと思います。山代さんが最初にお売りになった老人が誰であるか、案外簡単に判るんじゃありませんかしら」  つかさは言った。 「そうですね」  山代は浮かない顔で返事をした。三年間の空白を次々に埋めて行くとなると、そうしたことも必要だったが、セザンヌの偽作の問題は、それを三年間で買い戻すということで話は決まっている筈だった。改めて犯罪の臭いのする偽作のある場所へ近付いて行くことは、山代にとって有難いことではなかった。 「簡単に判ることから調べて参りましょう。山代さんが取り戻された記憶の中の老人が誰であるか、どうせ調べなければならぬことですから。——それとも伊豆の別荘の持主である後川という家の方から、先きに手をつけましょうか」  つかさは訊いた。 「老人の方からやりましょう」  即座に山代は答えた。後川という名を持ち出されると、急に山代は自分の気持がたじたじとなるのを覚えた。手術患者が手術を少しでも先きに延ばしておきたい気持に似ていた。八束陽子の問題より、まだセザンヌの偽作の問題の方がよかった。そうした山代の気持を見抜いているのか、 「お厭なことでも、これからはどしどし事務的に片付けて行きませんと。——三年間の失くなっている過去を埋めるんですから」 「承知していますよ」 「もしお厭だったら、山代さんに代って、わたくしがやってもいいんです。でも、なるべくなら山代さんご自身でなさった方がいいと思います。ご自分の過去なんですから」  こう言うところは、つかさはいかにも確り者の感じだった。山代自身も、すべてを事務的に片っ端から片付けて行く気持になっていたが、やはりいざとなると、多少たじろぐものがあった。 「お厭でも我慢なさって……そして早く過去を埋めてしまって、新しく出発なさらないと」 「じや、村木家へ行きましょう。一応電話を掛けないと」 「今朝、もう掛けてあります」  つかさは言った。山代はいったん自分の部屋へ帰り、それからすぐつかさの待っているところへ戻って行った。 「お待ちどおさま」  山代が言うと、つかさは山代と並んで歩き出しながら、 「今朝、お電話しましたら、村木さんも是非会いたいと言っておりました。あれを、アメリカの美術批評家に見せたんですって。それについて何か話があるんだそうです」  つかさは言った。  それから三十分程して、二人は田園調布の、山茶花の生垣の廻っている村木家の前に立っていた。山代は二度目の村木家訪問であったが、つかさは三度目であった。つかさは山代と一緒に村木と会ったあとで、セザンヌの偽作を買い戻す契約書を持って、もう一度村木家を訪ねていた。 「山代さんが記憶を失ったことは、わたくし、この前村木さんにお話しました。お話しないと、よく判って貰えないと思いましたので」  つかさは言った。 「構いません」  山代は言った。 「そしたら、とても同情なさっていました。村木さんって、いい人だと思います」 「恐らくいい人でしょうね。偽作を売り付けられるくらいですから」  山代はそんな言い方をした。また気持が少し気難しくなっていた。  二人は玄関から、この前通された広い応接間に通された。応接間にはいると、すぐ山代は問題のセザンヌの偽作が右手の壁にかけられてあるのを見た。つかさもすぐそれに気付いて、ちらっと山代の方へめくばせすると、あとはその暗く沈んだ色調の南仏風景に眼を当てていた。  村木がはいって来た。この前と同じように和服姿で葉巻を銜えていた。 「やあ」  大きな声で言うと、椅子に坐るか坐らないかに、 「いや、驚きましたよ。——真物でしたよ、これ」  そう言って、壁の絵の方を顎でしゃくった。 「つい二、三日前のことですが、アメリカ人の美術批評家で、セザンヌ研究家という人物が来ましてね、どうしても見せろというんです。それで、仕方ないので、写しだといって見せたんです。そう言う以外仕方ありませんからな。真物だと言って、偽作を見せたら、こちらの見識を疑われますからね」 「————」 「そうしたら、貴方、真物でした。こんな写しはないというんです。真物も真物、パリで所蔵していた人の名前まで出て来ました。カンバスの裏に書いてあるんですよ」 「ほんとですか」  山代は言った。 「ほんとですよ。こんなことを嘘言っても始まらん。——そんなことで、こちらから連絡しようと思っているところへ、今日、この方から電話があった」  村木は視線を山代からつかさの方へ移し、すぐまた山代へ戻すと、 「一体、これはどういうことですかな」  と、多少非難を籠めた口調で言った。 「勿論、契約書に売る売らないは、その時になって、私の考えで決まるという一条がついているので、貴方に他意あろうとは思いませんがね」  村木は言った。 「驚きましたね、真物ですか、これ」  山代は改めて壁にかかっているセザンヌの絵に眼を当てた。 「そんな筈はないと思うんですがね」  すると、村木はむっとした顔で、 「そんな筈はないと言っても、真物だから仕方がない。大体、これは信用できる画商から買ったんです。初めからめったなことはないと思っていたんです。それなのに、あなた方が飛び込んで来て——」 「いや、私たちも何も悪気で——」 「しかし、結果から見ると、私の方は大変迷惑を蒙ったことになる。偽作でも何でもないものを、偽作だと言われ、その上買い戻される契約までさせられた。一体どういうわけで、これを偽作だと決め込んだんですか。そりゃ、悪気でないかも知れん。しかしですな、偽作でもなんでもない他人の所有物を偽作だと言って、それを買い取る契約をするということは、考えように依っては甚だ穏当《おんとう》ではない」 「いかにも」  山代は息を呑んで、 「全くおっしゃる通りです。これがもし真物であるとすると、私の取った態度は——」 「真物であるとすると、と言っても、これは真物ですがな」 「いや」 「いやも糞もない。真物は真物ですよ」 「いや、——いや、ではない。これは真物でしょう、恐らく」 「真物ですとも。当然なことですが、これを買い取って貰う約束は破棄して貰わぬと困る」 「勿論です。全くご迷惑をおかけしました。それにしても、不思議ですね」  山代はしどろもどろになっていた。このようなことがあってもいいものであろうかと思った。これが真物であるとすると、自分が若い画家から買ったあの偽作はどこへ行ったのであろうか。 「何か、貴方は考え違いしてますよ。何でも記憶を失ったとかいうお話でしたが、そのくらいですから、何か思い違いしておられるんではないですか」 「思い違いはしていないつもりですが」 「いや、思い違いですな。はっきり、それに違いありませんよ」 「それにしても、奇妙ですね」  山代は自分の取り返した記憶が、どうしても間違っているとは考えられなかった。確かにあの時、自分は若い画家からセザンヌの偽作を買おうとしていたのだ。そして、もう一つの記憶の欠片では、自分はその偽作を一人の老人に売り付けていたのだ。  山代は壁のセザンヌの絵にもう一度眼を当てた。確かにこの絵である。少くとも同じ絵柄であることだけは間違いない。 「山代さん」  初めてつかさが口を開いた。 「山代さんの思い違いかも知れませんし、もしそうでなかったら、偽作の方は他にあることになりますわ」  と言った。つかさもひどく真剣な顔をしている。  山代は、つかさが自分の思い違いであるかも知れないと言ったことで、つかさまでが自分を信用していないのかと思った。正常の人間である場合、回顧の内容に不信の気持を持つ者はいない筈であるが、問題は自分が記憶喪失者であるということである。その記憶喪失者がたまたま取り戻した断片的な記憶の内容であるので、あるいは間違っているかも知れないという考えが生れるのである。  しかし、記憶の内容に不信の念を抱いたら、詰まりそれが信用できぬものかも知れないということになったら、もう自分という人間は人間として成立する基盤を失ってしまうことになる。破滅する以外、どこへも行きようはないではないか。  折角記憶を回復しても、その内容が幻覚かも知れないということになったら、もう自分は人間として生きて行くことはできない。壊れた機械の人間なのだ。狂人と変るところはないだろう。 「貴女は本当に僕の思い違いだと思いますか」  山代は真剣な表情でつかさに訊いた。 「いいえ、そうとは思いませんけど、真物を見て、それを偽作だと思い込んでいたかも知れないと思います」 「そんなばかな。真物を持って来て、これは偽作だと言って売り付ける者があるでしょうか」 「でも、それしか考えられませんわ。山代さんは本当にそれを偽作として受け取っていた。そしてその記憶が回復して来た。——そういう場合だってあるでしょう。現在の、詰まり記憶喪失後の山代さんが思い違いしたというのでなく、記憶喪失前の、詰まり健康だった頃の山代さんが思い違いなさったのではないか、そういう意味で申し上げましたの」  つかさは説明した。 「何だか、大変難しい問題ですな。私にはよく、あなた方のおっしゃっていることが判らん」  村木が横から口を出した。それに対して山代は、 「要するに、私はある画家から、このセザンヌの絵と全く同じと思われる絵を、偽作と承知の上で買った記憶をこの間回復したんです。回復した記憶の内容に間違いはないと思います。もし間違いがあるとすれば、健康な時の私が、真物を偽作と思い違いした、そのところにあると思うんです」  と言った。 「なるほど」  村木は判ったような、判らぬような顔をした。 「真物を偽作と間違えるようなこともあるもんですか」 「必ずしもないとはいえないでしょう。誰かが真物を自分が描いた偽作だと売り込みにくれば」 「そんな酔狂な人間はいないでしょう。いたら狂人ですな。その狂人から偽作と思って買った物を、貴方は真物として売った——」 「そういうことになります」  悪びれないで、山代は言った。 「なるほど、そのように解釈すれば、貴方がこれを偽作だと思い込んだことも、またこれが偽作でなくて真物であることも、一応納得は行きますね」  村木は言った。すると、つかさが、 「でも、わたくしは山代さんにセザンヌの偽作を売り込みに来た絵描きさんを知っていますが、その人が狂人だとは思えません。やはりその人が山代さんのところへ持って来たものは間違いなく偽作だったと思いますわ。だから、その時の偽作と、いまここの壁にかかっている真物とは、別個のものだと思います。偽作はどこかほかの人の手にはいってるんじゃありません?」  そう自分の考えを述べた。 「なるほど、そうすると、もう一つどこかにこれに似た偽作がある! これは驚いた」  村木はさも驚いたように言ったが、すぐ、 「その山代さんに絵を売り付けに来た画家というのを調べれば、簡単に判るんじゃありませんか」 「そうなんです。でも、その絵描きさんは失踪《しつそう》して、現在日本にはおりません。外国へ行ったことは判ってますが、いまは生きているか死んでいるか、判りません」  つかさが言うと、 「なるほど、厄介なことになってますね。こいつは驚いた。近頃これほど奇妙な事件はめったにありませんな」  めったにないことが、村木には到って満足そうであった。 「とにかく、村木さんの手にはいるまでのこの絵の経路を調べて行くのが、いまのところ一番簡単な調べ方だと思います」  つかさは村木に言った。 「それは判りますよ。私はこれを大阪の南泉堂、ご存じでしょう。大阪では一、二の画商です。その南泉堂から買いました。南泉堂は確か、東京の三松という絵のブローカーから買ったと聞いています。その三松がどこから手に入れたかは知りませんが、それは訊いたらすぐ判りますよ。三松に電話を掛けたら、いますぐでも判ります。電話を掛けてみましょうか」  村木は言った。つかさはどうするかというように、山代の方を見た。 「お判りになるのなら、調べていただけませんか」  山代は言った。すると、村木は立ち上がって、ベルを押し、 「それにしても奇妙な事件ですな」  それから急に不安になったのか、壁の絵に眼を当て、 「これは真物ですよ。これが真物だと言うことだけは間違いない。アメリカのセザンヌ研究の第一人者が太鼓判を捺してくれたんですからな」  そう言っているところへ書生がやって来た。 「三松という絵のブローカーを調べてそこへ電話してくれ。三松という人物は、誰か画商に訊いたら判る筈だ」  村木は命じた。  女中の手に依って二度目の茶が運ばれて来た。お茶を飲んでいる間、三人はそれぞれの考えの中に落ち込んでいるように押し黙っていた。書生が再び部屋へはいって来ると、 「三松さんがお出になりました」  と言った。 「電話番号が判ったんだね」  村木が言うと、 「判りました。電話口に出ておいでになっております」  書生は答えた。 「よし」  村木はすぐ椅子から立ち上がって、応接室を出て行った。電話機は廊下にでも置かれてあるのか、時々村木の話している声が聞えて来たが、話の内容までは判らなかった。  村木の電話は長く、再び彼が応接室に姿を現わすまでに十分程の時間がかかった。村木は部屋にはいって来るなり、 「三松という人ですが、その人が、大阪の画商に売ったことはやはり間違いありませんでした。三松さんの前の持主は郷倉《ごうくら》生命の郷倉さんだそうです」 「郷倉さん!?」  山代は郷倉生命という保険会社の名は聞き知っていたが、そこの経営者らしい郷倉という人物については全く知らなかった。 「ご存じでしょう?」 「はあ、しかし、名前を知っているぐらいです」  山代は答えた。 「三松という人の話では、郷倉さんが最初の所蔵者だということです。それをどこから手に入れたか判りませんが」  村木は言った。 「郷倉さんというのは老人ですか」 「そうですね。私も、一、二回しか会ってませんが、いずれにしても、もう七十歳は越えているでしょう」 「ほう」  山代は呻くように言った。自分が売り付けた相手はやはりその老人であるかも知れぬと思った。 「貴方が郷倉さんを知らぬというのでは困りますね」 「知っていて、思い出さないのかも知れませんが」 「じゃ、郷倉さんに、私から電話してみましょうか。私の名前を言ったら、多分電話口へ出てくれるんじゃないかと思います。訊いてみますよ、私が」  村木はひどくこの問題に熱心になっていた。自分が所蔵している絵に関する問題なので熱心になって一向に不思議はなかったが、山代としては何が匿されているかも知れないものを、そう簡単に荒っぽく取り扱われては堪らないという気持があった。 「さあ」  つかさも山代と同じ気持らしく、山代の気持を確かめるように、山代の方へ顔を向けた。  山代は幾らか無気味な気持はあったが、 「どうぞ。——郷倉さんに電話を掛けて戴きましょう」  と言った。 「じゃ、掛けてみましょう」  村木はまた椅子から立ち上がったが、 「貴方の名前は出さん方がいいでしょうな」  と、一応聞いておくといった言い方をした。 「構いません」  山代は言った。ここまで来れば名前を伏せておいても始まらんと思った。 「そうですかね。——まあ、その時次第にしましょう。任せて下さい」  そんなことを村木は言った。多少記憶喪失者である山代の立場に立っているようなところが感じられ、そうしたところは村木という人物の人のいいところかも知れなかった。村木が部屋を出て行くと、 「郷倉さんという人が、山代さんの会った老人なんでしょうか」  つかさは、そのことが歓迎すべきことか、歓迎すべからざることか判らぬといった曖昧な表情で言った。 「僕は多分そうじゃないかと思う」 「そうでしょうか」 「そうでないと、また事は面倒になる」  山代は言った。あとは二人は黙っていた。山代としては、郷倉という人物が、自分が取り返した記憶の中に登場して来る老人と同一人物であることを望んでいた。そのために自分がいかに悪辣《あくらつ》なぺてん師であることが判明しても、自分が折角取り返した記憶に不信の念を持つよりずっとそれは望ましいことだった。  書生が部屋に顔を出して、 「恐れ入りますが、お電話のところまで」  と、山代の方に言った。山代はすぐ書生に導かれて応接室を出た。廊下の隅に電話が取りつけられてあり、そこで村木は受話器を取り上げていて、 「郷倉さんがいま出て来ますよ」  と、山代に言った。村木は郷倉と自分との会話を山代に聞かせておこうというつもりらしかった。  やがて郷倉が出たらしく、村木は鄭重な言葉で久闊《きゆうかつ》を叙してから、  ——他でもありませんが、セザンヌの八号の風景を現在私が持っていますが、聞くところに依りますと、最初の所蔵者は郷倉さんだということですが、本当でしょうか。  ——いや、一応あの絵の戸籍調べをしておこうと思いましてね。  ——いや、それは光栄です。なるほど貴方がお持ちになっていたものですか。そうですか、それは光栄です。  ——え? 最初どこから手に入れられました? ほう、山代さんという画商ですか。なるほど。そうですか。ほう、怪しい。なるほど。いや、承知しております。  山代の耳に村木のそんな言葉が断片的にはいって来た。  ——いや、それはどうも御親切に。  ——承知しました。まさか、そんなことはないでしょう。  ——運否天賦《うんぷてんぷ》ですからね、こればかりは。  それから村木は大声を上げて笑い、笑いを打ち切ると、  ——では、いずれ、お目にかかりまして。  そう言って受話器を置いた。そして少し離れて立っている山代に、 「やはり、郷倉さんは貴方から買ったようですな。よく知っている口振りでした。まあ、向うへ行ってお話しましょう」  と言った。村木は先きに立って応接室にはいると、つかさの方に、 「山代さんの言う老人というのは、やはり郷倉さんのことですな」  と言った。村木と山代はそれぞれ自分の椅子に腰を降ろした。 「郷倉さんは山代さんから買ったが、危いと思ってすぐ離したんだそうです。しかし、危いという理由は単なる勘で、決め手はないんだと言っていました。大勢の画商にも見せたが、誰にも判らん。しかし、どうも不安なので離した。もし偽作でなくて、真物なら大変な価格だと言うんです。セザンヌの作品の中でもいわくつきの大ものらしい。離してよかったかも知れないし、大変な損をしたかも知れない。こんな風に郷倉さんは言ってました」  それから村木は、さっき山代が電話の横で聞いたと同じ笑い声を出して、 「こういうことは全く運否天賦ですからな。郷倉さんは運がなかったと言うほかはない。郷倉さんのところへ転り込んだ運がそこに落着けなくて、私のところへ転り込んで来た。運というものは致し方ないものですよ。一度手許に転り込んでおきながら、郷倉さんはそれを自分のものにできなかった。郷倉さんとしては堪らない気持でしょう。まあ、それも致し方ない。そういうのが運というものですからな。運は私のところへ来たがった。どうしても私のところへ来て落着きたかった!」  ここで、村木は、山代もつかさも呆気《あつけ》にとられるほど大きな声を出して笑った。少し顔を仰向けて体を揺すぶるようにして笑った。いかにも愉快で堪らぬといった笑い方だった。  そして、ふいに気付いた風に、 「それはそうでしょう。貴方が偽作だと言った時、普通ならこの作品は私のところから転り出る筈ですよ。ところが依然として、私の手許にあって、それが偽作でなく真物であるということが証明されるまで、少しも周章てず騒がず静かに落着いていた。いや、何にしても、これは大変なことですよ」  村木は言うと、また急に笑い出した。村木の言い方を真似ると、笑っているのは村木でなく、村木の持っている運が、彼を笑わせているのかも知れなかった。  山代もつかさも手の施しようがないといった恰好で、村木の笑うのを見ていた。山代は村木の傍若無人《ぼうじやくぶじん》に凱歌《がいか》でも奏しているような笑い声を聞きながら、それでは一体、自分が偽作だと思い込んでいた事実は、どういうことになるであろうか、と考えていた。  自分が郷倉老人にセザンヌの作品を売り込んだことは、いまや間違いのない事実である。ただそれを売り込む時、自分はそれを偽作だと決めてかかっていたが、それが偽作でないとなると、どこかに間違いがなければならない。  自分が偽作だと思い込んだことに間違いがあるか、でなければ、その時郷倉老人に売り込んだ作品と、いまこの応接室の壁にかかっている作品とは別個のものであるということになる。しかし、二、三人の手を渡っている間に、真物が偽作に掏《す》り替えられるということはあるが、反対に偽作が真物に掏り替えられるということはちょっと考えられぬことである。  以上の二つの場合以外に想定できることは、アメリカのセザンヌ研究家なる人物の鑑定が間違っていることである。自分が郷倉老人に売った作品も偽作であり、部屋の壁にかかっている作品も偽作なのである。それを研究家が、迂闊《うかつ》にも真物だと誤った鑑定を下してしまったのである。しかし、そのアメリカのセザンヌ研究家の鑑定の誤りということは、事件を一番簡単に解決するが、しかし、カンバスの裏に前の所蔵者のサインが発見されたりしていて、そう簡単に断定してしまうことはできないようである。  山代は村木家を辞そうと思った。自分の好運を手放しで悦んでいる村木といくら話していても問題はいっこうに解決しそうもなかった。 「貴方の思い違いですよ。貴方は自分が偽作を売ったという犯罪妄想に取り憑かれているんです。貴方は偽作を売ったんでも何でもない。真物を売ったんです。とにかく、貴方の心配はこれで失くなった!」  結論を下すように村木は言った。 「有難うございます」  山代は一応礼を言って立ち上がった。つかさも立ち上がった。 「よく眠れますか」  玄関まで送り出しながら、村木は言った。 「よく眠ります」 「じゃ、大丈夫だ。眠りさえすれば癒りますよ。貴方の病気は。——考えてみればばかなことですよ。真物を売って、偽物を売ったという妄想に取り憑かれるんですからね」 「全く」  山代は言って、つかさと並んで村木家を出た。  満  月  つかさは山代に惹かれている自分を、本当のところはよく判っていなかった。自分で自分の心の問題を理解できないということは変な話であったが、山代のどういうところに惹かれているのかと、自問してみると、それにはすぐ答えられなかった。  山代とは、彼が入院するような事件を引き起す前からの知り合いであった。一年間彼のもとで働いている。その頃、つかさは自分の雇主に対して、少しも特別な感情は懐いていなかった。  一度山代に遊びに来ないかと言われて、彼のアパートヘ出掛けて行ったことはあるが、それも折角遊びに来いと言ってくれたのに、顔を出さなくては悪いような気持で出掛けて行ったまでのことであった。いささかの特殊な感情も持っていなかった。その日は日曜か祭日で画廊の休みの日だったので、つかさは正午近い時刻に家を出て、一時頃彼の部屋の扉を叩《たた》いた。するとすぐ内側から扉は開いたが、出て来たのは山代ではなく、自分より少し年長と思われる若い女だった。相手は御用聞きでも来たと思って扉を開けたらしく、つかさの顔を見ると、ひどく周章てて、 「ああら、大変……」  そう言って、すぐ奥へ引っ込んだ。その�ああら、大変……�という言葉は、思わず口から出てしまったといった感じで、そんなところにその若い女の性格がまる出しに出されていて、さして不快ではなかったが、しかし、つかさは来るべからざるところへ自分がやって来たような気持がした。  暫くすると、セーター姿の山代が顔を出して、 「上がんなさい」  と言ったが、つかさはその時は上がる気持をすっかり失っていた。何か咄嗟に仕事の用事を作って、そのことに対する指示を山代から受けて、そのまま山代のアパートを辞した。  山代のアパートを訪ねて行ったのはあとにも先きにも、これ一度だけであった。山代の生活には、自分などの知らない面があるとは思っていたが、直接にそれに触れたのはこれが最初であった。  このことがあってから、つかさは山代を違った眼で見るようになった。そうすると、店へ掛かって来る山代への女からの電話も、それぞれ違った意味を持って感じられた。山代は二、三人の女性と特殊な関係を持っているようであった。そうした山代がつかさにはやはり不潔に感じられ、こうした店は長く勤めているべきところではないという気がしていた。  そうした気持で勤めているうちにこんどの事件が起ってしまったのである。山代が店へ姿を見せなくなり、店が閉められたままになっていても、つかさはさしてそのことを不審にも思わなかった。店のことを心配する気持は持ち合わせていなかったのである。  つかさは店の顧客であった平松商事の平松左吉郎から電話を貰い、それで山代が病院に入院していることを知り、そこへ訪ねて行ったのであったが、その時つかさは、まるで違った山代を病室のベッドの上に発見したのであった。  つかさが三カ月振りで見た山代は、それまでとは、まるで違った山代大五であった。つかさは初め自分をすら何人か判らない山代を信じられぬ気持であったが、何回か病院に通っているうちに、三年間の過去も、その間に関係を持った人間も、事件も、何もかも失ってしまった山代に特別な関心を持つようになった。  山代が失っているものの何分の一かは、少くともつかさ自身が持っているものであった。山代の知らないことでも、つかさは知っていることがあった。山代の失っているものの中に、つかさがすっぽりとはいり込んでも、その全部を埋めることはできなかったが、しかし、その何分の一かは埋めることができる筈であった。  つかさは病室で山代の姿を見守りながら、三年間の過去を失った一人の人間に、却って他の人間の持たぬ清潔なものを感じた。それは何も知らぬ神のような、あるいは幼児のような清潔さではなくて、汚濁に汚れた人間が突然その汚濁の中から脱け出した清潔さであった。  つかさは山代大五の唇や手に、時にまじまじと視線を当てていることがあった。その唇や手は恐らく何人かの女体を知っているものに違いなかった。が、しかし、現在それはそうした汚濁の記憶を何も持っていなかった。神や幼児の清らかさではなく、汚れを知った人間の持つきれいさであった。人間というものは自分を高めることによって、それまでの汚れた世界から脱け出し、自分自身を清めることができるかも知れなかったが、それは特殊な宗教家の例にしか見出せないものであった。普通の人間の望んで求め得られぬことであった。しかし、山代大五の場合、偶然に彼はそうした立場に立っていた。それは山代の肉体ばかりでなく、心もまた同じであった。山代は過去に於て、偽作を売るぺてん師であったかも知れない。恐らくそうであったに違いない。しかし、現在の山代はぺてん師ではなかった。そうした人を偽るような気持は、その痕跡すらとどめていなかった。  つかさはそうした山代大五に、いつとはなしに惹かれている自分を感じた。山代の健康が回復して行くに従って、つかさの山代への惹かれ方は更に一層強いものになって行った。つかさは山代という人間に対して夢を持っていた。山代という特殊な人間を自分の力で生かして行くことを思うと、身内から込み上げて来る勇気のようなものを感じた。それはつかさの初めて味わう女としての陶酔であった。  つかさは、自分が山代の生きる力になることに生き甲斐を感じた。山代の過去の欠けた部分に自分がはいり込んで、その何分の一かを埋め、そして埋まらない残りの部分を、自分と山代との協力で埋めようと思った。  そういうことを考えると、気の遠くなるような思いだった。山代は一人で生きて行くことはできないのだ。過去の欠けた部分を埋めない限り、一歩も先きに踏み出すことはできない。その欠けた部分を、山代に協力して、自分が埋めてやるのだ。足のない人に義足が必要なように、山代には人造の過去が必要なのだ。その人造の過去には、ぺてん師の山代も、あるいは幾人かの女と関係を持つ山代も登場して来るかも知れない。しかし、そんなことは少しも意に介する必要はないのだ。義足に血が通っていないように、その人工的な過去には山代の心は通っていないのである。  山代が生きて行くためには、その人工的な過去は絶対に必要であるが、しかし、それは山代とは無関係なのだ。義足が山代の肉体の一部ではなく、単なる一個の物体でしかないように、山代の人工的な過去もまた山代の生涯の中の過ぎ去った部分ではなく、単なる一個の物体であるに過ぎないのである。  山代はその人工的な過去を背負って、新しく第二の人生を生きようとする。自分はそうした山代に寄り添って生きて行く。山代が生きて行くために、どうしても必要な一本の杖なのである。  つかさは病院からアパートヘ移ったあとの山代と話している時、自分が山代の心の一部になっているのを感ずる。山代の心の中にすっぽりとはいり込んで、山代の心の動き方と全く同じ心の動き方をしている自分を感ずる。  つかさは山代から愛情を打ち明けられようとした時、このようなことがどうして改めて宣言されなければならぬのかと思った。それは確かに戸惑いと言えるものであった。つかさは、それまで自分の心がすっぽりと山代の心の中にはいり込んでいるのを感じていたので、いまさら好きだとか嫌いだとかいったことが山代の口から語られることに、確かにある戸惑いを感じたのであった。自分は山代の心と同じではないか。同じ心を二つに分けて、一方が一方を好きだとか嫌いだとか言っても始まらないではないかといった気持だった。  しかし、そうしたつかさであったが、やはり山代の人工的な過去に登場する女たちに嫉妬しないわけではなかった。完全に人工的な過去に登場する女たちであったなら、つかさはそうした女性に嫉妬の感情を持つことはなかったが、厄介なことに山代は人工的な過去に人工的でない部分を入れ始めようとしていた。記憶を回復した部分は、たとえそれがどんな小さい部分でも、そこには山代の心があった。そうした場合、つかさはやはりそうした女たちに不快な感情を持たないわけには行かなかった。  つかさは、山代の回復した記憶の中に出て来る女たちに嫉妬の感情を持った。百日紅のある庭に出て来る女性にも堪らなく不快な感情を持ったし、早朝の冷たい空気の中で山代を送っていたという女性にも心穏やかでないものを感じた。山代は何もかも、そうした記憶の中の女たちについて語ったと言っているが、しかし、自分に語っていない部分もあるのではないかと、つかさは思った。  山代が部分的な記憶を取り返し始めた時から、つかさは急に不安なものを感じ始めた。山代が記憶を回復することを悦ぶ気持があると同時に、それに不安を覚える気持もあった。不安なのは、山代の記憶の中に登場して来る女性たちばかりではなかった。恰も、それと呼応するように、いま山代が保存している女性からの何通かの手紙や葉書の差出人にも不安な気持を持った。彼女らはいま単なる手紙の差出人であるに過ぎないが、いつでも記憶の中の人物と呼応し合って、立ち上がって来そうであった。いつ生きた人間として現在の山代の生活の中に現われて来ないとも限らなかった。  つかさは、山代への手紙や葉書の差出人に、これまでいささかも嫉妬の感情を持たなかったが、しかし、いまやいつでも嫉妬の対象になり得る可能性を、彼女らは持っていた。現在は死んだトランプのカードであったが、情勢に依っては、いつでもそれらは生きたカードになることができた。  そうした手紙や葉書の差出人の中で、一番つかさの気になるのは、満月の夜、観月の場所で、山代と会うことを約束している女性であった。その満月の夜というのは、もうすぐそこに迫っていた。満月の夜といっても九月の満月であるか、十月の満月であるか判らなかったが、もし九月の満月の夜をさしているとすれば、それは数日先きに迫っていた。山代がその約束を果そうと思えば、まだ果すことはできる筈であった。  つかさは、どうしていままで、自分はこの満月の夜に山代と会う約束をした手紙を重大に考えなかったかと思った。つかさは、何となく自分にとって一番強く不安に感じられるこの女性に、自分は会ってみるべきではないかと思った。山代の代りに、自分が会ってみたら、山代との関係もはっきりするし、何か含みを持った手紙の文面の意味も明らかになるに違いなかった。つかさは山代には内密に、自分だけ手紙に認められてある観月の場所へ出向いてみようと思った。そうしないより、そうすることの方がいいに決まっていた。  つかさはその葉書に細かい字でぎっしり書かれた文面を、いまでも記憶していた。  ——来年の観月の日を今から楽しみにしております。来年のことを言うと鬼に笑われますが、六時きっかりにホテルの裏の海岸で。——と言っても私はまだそこを知りませんが、貴方が一番美しい観月の場所だとおっしゃったのですからきっと素晴らしい場所だろうと思います。その折事務的なことは一切完了いたしたく存じます。当方のことはどうぞ御放念下さいますよう。来年お目にかかるまでは、御無音に過ぎると存じます。万々御自愛の上、お仕事の御繁栄の程祈願いたしております。  差出人は榊原芳重となっていた。男名前とも女名前とも受け取れるが、書体も文章も明らかに女のそれである。男の手紙を女が代筆することもあるが、この場合は明らかにそれとは異っている。やはりこの手紙の筆者は女だと見なければならぬ。  それから問題の観月の場所がどこであるかということであるが、この葉書の文面が問題になった時、山代は伊豆の西海岸のSという漁村であるに違いないと言った。そのSという漁村には洒落た洋風のホテルもあるし、新聞記者時代の山代がいつも日本で一番いい観月の場所だと人にも語り、自分もそう思っていたところだということであった。  つかさはそのSという漁村に、自分一人で出掛けてみようと思った。もし観月の夜というのが、九月であったとしたら、そこで自分は榊原芳重なる女性に会うことができる筈であった。そうすれば、その女性が山代といかなる関係を持っているかも、事務的なことを一切完了したいという、その事務的なるものの正体も判明するわけであった。  つかさは、山代と一緒に村木を訪ねてから三、四日して、山代に電話で二、三日留守になることを告げて、伊豆のS村に赴くために東京を発った。  湘南電車に乗ってから、つかさは山代にひと言も告げないで、勝手に山代の代理でS村に出掛けて行くことに多少うしろめたいものを感じたが、しかし、山代と一緒に行くより自分一人で行く方がいいと思った。山代はやはりその場に姿を現わさない方が安全に思われた。  S村という漁村は、この前山代と一緒に行った三津から数里離れていた。交通公社で調べて貰うと、三津からも自動車道路がついているので、くるまでも行けるし、沼津から直接船でS村へ向かうこともできるということだった。どちらが便利かよく判らないので、つかさは沼津へ着いてから、それから先きのコースを決めようと思った。  つかさは沼津へ着くと、駅前の土産《みやげ》物屋に立ち寄って、そこの中年の内儀さんに、S村へ行く道を訊いた。 「船の方が簡単ですが、もう今日は船はないかも知れません。バスなら三津で乗り替えですが、三津からS村へのバスは一回か二回で、今日まだあるかどうか、それは知りません」  内儀さんは言った。 「タクシーは行きますか」  つかさは訊いた。 「そりゃあ、行くでしょう。一時間か一時間半ぐらいのところですから」 「それなら、タクシーにしますわ」  沼津へ着く頃から、つかさは気持が疲れていた。電車に乗っている間は、何となく推理小説の謎でも解くようなどこかに期待に似たものがないでもなかったが、沼津に降りていよいよS村に近くなったと思うと、そうした気持は消えて、何となく自分の役割の持つ鬱陶《うつとう》しさが頭を擡げて来た。他人の秘密の中へ、土足で踏み込んで行くような、ある気後れが感じられた。船で行くならまだしも、バスで長い間揺られて行くのは厭だった。途中で乗り替えることも、考えると面倒臭かった。  結局つかさはタクシーに乗った。中年の人のよさそうな運転手だったので、無駄話でもして時間を潰して行くのもいいと思った。くるまは前に山代と一緒に走った同じ海岸の道を、こんどは逆に走った。以前は三津から沼津へ出たが、こんどは沼津から三津へ向った。  海は荒れていた。かなり沖合まで白い波頭が海面を埋めている。漁船も出ているが、危っかしく思われる程、波に大きく揺れ動いていた。 「何時に着くでしょう」 「五時になります」  運転手は言った。 「構いません。危くないようにゆっくりやって下さい」  つかさは言った。 「確か明日満月でしたわね」 「そうなりますかな」 「この辺ではお月見は十月ですか」 「いや、九月です」  九月と言われて、つかさはほっとした。 「十月にはしませんの」 「しませんな」  それから、 「月を観に行くんですか」 「そういうわけではないけど」  いずれにしても、つかさは一晩ゆっくりと海辺のホテルで寝ようと思う。ひとり旅というものは、つかさにとっては初めてのことだった。  くるまは三津部落を過ぎると、そこから山間部へはいった。初めてここから海岸線を離れたわけだが、細い道で、しかも路面がひどく荒れているので、車体は絶えず大きく揺れていた。  運転手が言ったように、S村まで一時間三十分かかった。S村はかなり大きな入江を抱えた漁村で、旅館も夏の海水浴の客のためのものが多かった。夏場だけ洒落た海水浴旅館となり、他の時期は商人宿になるといった風のものが大部分を占めていた。  つかさは一番大きくて、ホテルと呼ばれている旅館へはいった。部屋は二階の海に面していて、そこからは二つの半島に抱かれた巾着型の海が見渡せた。ここから見る海も、海面全体が体を烈しくぶつけ合っている小さい波に覆われていた。海は、つかさが部屋に坐ってから、見る見るうちに、暮れて行った。風はあったが、気候は東京より少し暖かい感じだった。  つかさは旅館の横手の海岸がどんなところか、一度眼に入れておこうと思ったが、日がすっかり暮れてしまったので、そのことは諦めなければならなかった。  つかさは、夕食を運んで来た若い女中に、 「あすはお月見ですね」  と訊いてみた。 「そうです。でも、この旅館では別にお月見はやりません」  それから女中は、 「東京は十月なんですってね」  と言った。 「そうね。東京は大抵十月ですけど」 「毎年、あすのお月見には一組か二組、東京からお月見の客がありますが、今年はどうでしょうか」 「東京から? ずいぶんのんきな人もあるものね。わざわざ来るんですか」 「そうだと思います」  女中は言った。つかさはその夜早く床に就いたが、波の音が耳について、なかなか眠りにはいれなかった。  翌日は、つかさは九時まで眠った。階下へ降りて洗面すると、朝食が運ばれて来るまで、旅館の横手に拡っている浜へ出てみた。風も静まり、波も昨日と同じ海とは思われぬほど穏やかだった。 「これでは、今夜のお月見は素晴らしいですわ」  朝食の知らせに来た女中は言った。 「ほんと、二人でお月見しましょうね」  つかさは海に視線を投げながら言った。本当に今夜はこの若い女中を相手に、月光に輝いている海を眺めようと思った。  つかさは午刻近くなってから、宿の女中と岬《みさき》の突端にある神社へ出掛けることにした。岬といっても、入江を取り囲んでいる小さい二つの半島の一つで、宿の座敷からも、そこにある神社の樹木の茂みを望むことができた。勿論神社の建物などは見えないが、こんもりとした森が小さく見えた。そして、その森のすぐ横手は巾着型の入江の口になっているところで、そこだけに白い波の立っているのが見えた。  つかさが岬の突端の森へ行くことができるかと訊くと、 「ご一緒に参りましょうか。わたしもいつにも行きませんから行ってみましょう」  女中は言った。女中の名はかねさんと言った。 「歩いてどのくらいかかるかしら」 「歩いたら大変です。近いようでもぐるりと廻らなければならないので、とても歩けません。夏場だとバスが出ていますが、いまはありません。船で行きます」 「船が出ているんですか」 「いいえ、この旅館の船です。板前さんに言ったら、悦んで漕いでくれます。船で行けば、十五分ぐらいでしょうか。もしかしたら、そんなにもかからないかも知れません」  そう言うと、かねさんはすぐ立って階下へ降りて行ったが、間もなく姿を見せると、 「ご都合のいい時、いつでも、どうぞ」  と言った。 「じゃ、すぐ行きましょうか」  つかさは大急ぎで、船に乗る支度をした。濡れてもいいように、着替えに持って来たワンピースを身に纏った。  船は旅館の横手の浜の、玩具《おもちや》のように小さい船着場から出た。板前さんというから、つかさは何となく中年の料理人を想像していたが、やって来たのは二十歳ぐらいの、まだ少年と言っても通りそうな若者だった。とっくり首のセーターを身に着けているところは、どう見ても学生といった恰好だった。  かねさんが三人の下駄を抱えてやって来ると、 「早く乗れよ、出すぞ」  板前の若者は荒っぽい口調で言った。 「あわて者ね、重さんたら。——ちゃんと気を付けて漕ぐのよ」  かねさんも敗《ま》けてはいなかった。  船は入江へ滑り出して行った。昨日と違って風がないので、海面は静かだった。旅館の立っている切岸が見る見るうちに遠く小さくなって行った。海上から見ると、部落の家々はいまにもこぼれ落ちそうに切岸に固まって並んでいた。旅館の横手の浜だけが白く見えた。 「重さん、今夜も船出してよ。お月見するんだから」  かねさんが言った。 「気の利いたこと言うなよ」  若者は答えた。それまで、つかさは自分が何のためにこんなところへ来たかを忘れていた。  つかさは、自分がこんな伊豆の西海岸の小さい部落までやって来た当の目的が、いつか自分から遠く離れて仕舞っていることを感じた。つかさはもう山代の代理として一人の謎の女性と会おうとは思わなかったし、そんなことが実際に起って来ようとも思われなかった。そんなことより、この海上でも月を見ることは楽しいことに違いなかったし、どうせ月を見るなら、山代と一緒に見るべきであったと思った。山代がいまこの船に一緒に乗っていたら、どんなに楽しいことであろうか。  大体、こんなところへ山代に会うために、一人の女性が現われて来ようなどと考えたことがどうかしていたと思う。それはいまにして考えてみれば、現実離れした一つの空想でしかなかった。そうしたことが実際に葉書には書かれてあったが、書かれてあったからと言って、それをそのまま真に受けたことには問題があると思う。根も葉もないいたずらであったか知れないではないか。  船は岬の突端部へ近付いた。重さんが岩礁の散らばっているところへ船を着けようと苦心している。 「うまくつけて下さいよ。——あら、ここでは陸へ上がれないじゃないの」  かねさんが言うと、 「贅沢言いなさんな。少し濡れるのを我慢すれば上がれるじゃないか。そして自分で降りて、お客さんのために橋をかけな」  重さんはそんなことを言っている。しかし、重さんも二人の女のために、足を濡らさないで上がれるところを探しているらしく、船の舳《へさき》を岩の間に入れたり、すぐそこから出したりしている。何回かそんなことをやった挙句に、船はどうにか一つの足場になりそうな岩の横に胴体をつけた。  そして重さんはズボンをまくり上げて、水際に降り立つと、船が流れ出さないように船べりに手をかけた。 「なかなか親切ね」  かねさんが言いながら、先きに船から降りた。続いてつかさが、かねさんの手を借りて岸辺に降り立った。  神社の森の樹木は、傍に来てみると、ひどく大きかった。いずれも鬱蒼《うつそう》とした大木であった。殆ど全部が杉である。つかさはかねさんと歩きにくい石の原を歩いて、神社の方へ向った。つかさは、その時、木立の間から境内に一人の女性が居るのを見た。初め、漁師の内儀さんでも居るのかと思ったが、すぐその考えを改めた。都会風のきちんとした身なりの和服の女性であった。社殿の横手の石の上に腰を降ろして、こちらに横顔を見せている。遠くからでは年齢の程は判らないが、この辺の女性でないことだけは確かである。  つかさはかねさんと、神社の横手から境内へはいって行った。鬱蒼とした杉木立に包まれて小さい社殿があり、境内は誰か掃除でもするのか、思いのほかきれいに掃き清められてあった。  社殿の横の石の上に腰を降ろしていた女は、つかさたちの姿を認めたかと思うと、いきなり立ち上がって、賽銭《さいせん》箱の置かれてあるところへ行くと、そこで壁に掲げられてある絵馬を見上げていた。つかさはそんな女にちらっと視線を投げたまま、社殿の前の石段を降りて行った。 「この村の人ではないでしょう」  つかさが言うと、 「南海楼のお客さんです。二、三日前から来ています」  そうかねさんは言った。 「よく知ってますね」 「うちから五、六軒離れたところにある旅館ですし、競争相手ですもの、向うへ何人お客さんが泊っているか、それはどんなお客さんか、すぐ判ってしまいます」 「そんなものですか。ひとりで来ているんでしょうか」  これにはさすがのかねさんも弱ったらしく、 「さあ」  と言って、ちょっと考えていたが、 「多分ひとりでしょう。今朝、街を歩いていた時もひとりでした。きれいな人ですから目立ちます」  そう言った。つかさは相手の顔を見ていなかったので、きれいかどうかは判らなかった。 「きれいな人ですか」 「ええ、とても」 「幾つぐらい?」 「三十二、三ぐらいでしょうか。東京の人はみんな若く見えるので、よく判りませんが」  そんな話をしているうちに、つかさはもしかしたら、いまの女性は山代へあの謎のような葉書を寄越した人物ではなかろうかという思いに捉われた。何の根拠もなかったが、ふいにそんな考えが頭を擡げて来たのであった。しかし、つかさはすぐその気持を向うへ追い払った。たまたま会った女性を、すぐ山代と結び付けて考える考え方は、自分ながら滑稽《こつけい》に思われた。  鳥居のところまで来ると、二人はそこから引き返した。引き返す時、 「あそこにくるまがあります。あれできっと来なさったんですわ」  かねさんは言った。なるほど一丁程離れたところに、くるまが一台停まっていた。二人は社殿のところへ引き返したが、その時はさっきの女の姿は見当らなかった。 「このお宮のうしろが高くなっていて、見晴らしがとてもいいんです。上がってみますか」  かねさんは言ったが、 「やめておきましょう」  つかさは言った。そこへ行ったら、さっきの女と顔を合せそうな気がした。つかさには何となくその女を避ける気持が働いていた。  神社の境内を抜けて、歩きにくい浜の石の原へ出た時、つかさは板前の重さんが、向うでさっきの女と二人で立ち話をしているのを見た。重さんは銜え煙草をしていて、何がおかしいのか、二人にも聞えるような笑い声を立てていた。  つかさは足を停めていた。女を避けたいという気持が、この場合も働いていた。女が重さんのところから離れて、磯づたいに向うへ去って行ったので、つかさは重さんの方へ足を運んだ。 「何がおかしかったの。変な笑い方をして」  重さんのところへ行くと、かねさんは言った。 「笑ってなんか、いるもんか」 「あら、ちゃんと聞えていたわ。きれいな女の人だと見ると、すぐ話しかけるんだから」 「向うから話しかけたんだ」 「どうだか、判ったもんじゃないわ」  つかさはおやと思った。かねさんの言葉には、微かだが、嫉妬のようなものが感じられた。 「一体、何を話していたの?」 「何も話すもんか。この辺の海にはどんな魚がいるかと訊いたんで、教えてやっただけだよ」  それから、 「どうぞ」  と、重さんはつかさに船に乗り移ることを促した。  かねさんが女と重さんが取り交した会話に関心を持ったように、つかさも又関心を持っていた。一体女は何を話したのであろうかと思った。 「東京の人でしょう、あの方」  つかさは重さんに、そんな風に言葉をかけた。 「そうです」 「南海楼のお客さん?」 「そうです」  重さんは余分なことは言わなかった。つかさは女との会話の内容を、重さんから引き出すことは諦めた。船が岩礁の間を離れると、 「かねさん、今日、東京の人の予約あるか」  と、重さんはかねさんの方に言った。 「あら、どうして?」 「そんなことを訊いたからさ、いまの南海楼のお客さんが」 「ないでしょう。多分、ないと思うわ」  かねさんは答えた。 「どうして、そんなこと訊いたのかしら」  つかさが言うと、 「ただ、訊いてみただけですよ。今夜月見だから」 「お月見のことなんか言ったの?」 「月見の客があるかって訊かれたんです」 「そう」  つかさは、もしかしたらあの女ではないかと思った。いったん夢想のように思えたことが、つかさの心の中に再び現実の問題として根を張ろうとしていた。  つかさは宿に戻ると、夕方までの時間を部屋に閉じ籠って過した。やはり岬の神社で会った女のことが気にかかった。あの女は山代と会う約束を果すために、二、三日前からこの村へ来ているのではないか。そう思うと、頻《しき》りにそのように思われて来た。  夕暮は早くやって来た。地上は慌しく暗くなったが、海面だけに夕明りがいつまでも漂っていた。月は部落の背後の山の端《は》から出るということだったが、月が顔を出すまでは、夜の闇が重く海辺の部落を押し包んでいた。  つかさは夕食をすますと、一人で浜へ出てみた。薄暗い中で波の音だけが静かに聞えていた。  山の端が仄《ほの》白く明るくなって来たのは七時頃であったろうか。つかさは浜を散歩して、すっかり体全体が冷え込んだので、そろそろ宿へ引き上げようかと思っていた時であった。浜は照明でも当てられたように、急に明るくなり、海面も同時にその黒々とした肌に艶を持ち始めた。  月はゆっくりと着実に上がって来た。つかさはいつにも山から上がって来る月を見たことはなかったので、幼時にでも立ち戻ったような気持で、月の出を見守っていた。月がすっかり姿を現わした時、かねさんがやって来た。 「寒くありません?」 「少し冷え込みました。夜はもう秋の終りね」 「お部屋にお戻りになりましたら? 重さんがお月見のご馳走を作ってくれましたので、お部屋の縁側に飾ってあります」 「そう。それはどうも」  そう言いながら、つかさは月光に青く照されている浜辺全体を見廻した。どこにも人影はなかった。犬一匹出ていなかった。 「じゃ、帰りましょうか」  つかさはかねさんと並んで、宿の方へ白い砂を踏んで行った。 「昼より少し風が出ています」 「そうね、波が高くなっているわ」  海面は幾らか波立っており、それが月光を反射して、光の分子でも一面に振り撒かれてあるような感じである。 「あら、重さんが来ました」  かねさんは言った。なるほど向うから重さんが近付いて来た。 「珍しいわね、夜の浜へ出るなんて」  そのかねさんの言葉は受け付けないで、 「なるほど、今夜の月はきれいですね」  重さんは二人の前へ来て立ち停まると、月を仰ぐようにして言った。 「浜でお月見しているのは三人だけね。お客さんとわたしと重さんと」  かねさんが幾らか華やいだ声で言うと、 「もう一人居るよ。南海楼の女のお客さんが向うを歩いている」  重さんは言った。  つかさは重さんの言葉ではっとした。 「どこに居ます?」 「いま、そこを歩いていました。波打際の方へ行ったんじゃないですか」  重さんは言った。つかさは月光に照し出されている浜全体を見廻した。いつか浜は真昼のような明るさになっている。どんな小さな物でも匿すことのできない明るさである。 「ほら、あそこに居る」  重さんの指さす方へ視線を向けると、なるほど向うに小さい人影が見えている。さっき見渡した時には何も見えなかったのに、いまは確かに一人の人間の姿がくっきりと浮かび上がっている。その小さい人影はゆっくりとこちらに近寄って来つつあった。つかさは何とも言えぬ悪寒に襲われた。その女の出現の仕方も何となく無気味に思われたし、その近付いて来る来方も、何か思わせぶりで不快だった。 「早くお部屋へ帰りましょう」  かねさんは言ったが、つかさは自分の方へ歩いて来る小さい人影を見守って、その場に立っていた。 「先きに帰っていて下さい」  つかさは言った。つかさは女に会ってみようと思った。山代と会う約束をした女に違いないと思われた。その女が出現した以上、自分は相手に会わなければならぬと思った。そのために自分は東京からやって来たのではないか。つかさはそこに立っていた。果し合いでもする相手を迎え討つような気持だった。  そんなつかさに異常なものを感じたらしく、 「風邪をおひきになりますわ」  かねさんは言った。 「先きに帰っていて下さい。わたくし、向うから来る方とちょっとお話したいんです」  つかさは言ってから、 「すぐ帰りますから、先きに帰っていて下さい」  そうやや命令的に言った。 「じや、そういたします」  かねさんは言って、重さんを促すと、二人で宿の方へ歩き出した。つかさはその場に立ち停まったまま、何となく月を仰ぐようにしていた。そんな態度を装いながらつかさは女に何と言って声をかけるべきか、その最初の言葉を考えていた。  女が五、六間先きまでやって来た時、つかさはそこにじっとしていることに耐えられなくなって、自分の方から足を踏み出した。女は月光で顔の色が白く見えた。重さんが美人だと言ったが、なるほど整った顔をしている。 「いいお月さまですわね」  つかさは、思いがけず、相手のそういう声を耳にした。何となく機先を制せられたような気持だった。 「ほんとにきれいですわ」  つかさは言った。  つかさはこうして二人が顔をつき合せて、他に誰もいない夜の海辺に立っている以上、遅かれ早かれ、自分の口から出さなければならぬ言葉を、いま口にしようと思った。つかさはいまや相手が山代とここで会う約束をした女であることを、いささかも疑っていなかった。山代にあの奇妙な葉書を書いて寄越した女は、いま自分の前に立って居るのであった。 「あの、大変失礼なことをお訊ねいたしますが、もしかしましたら、山代さんをご存じの方ではございませんでしょうか」  つかさは言った。すると女は、月の方へ向けていた顔をゆっくりとつかさの方へ移して、 「やはり、そうでございましたのね」  と言った。幾らか虚を衝かれた風ではあったが、さして動じた様子は見せなかった。 「お言葉のように、わたくし、山代さんを存じ上げております」  それから、 「貴女様は山代さんとどういうご関係でございましょう」  と、逆に訊き返して来た。 「わたくし、山代さんのお使いで参りました。山代さんの代理で、もしかしたらここでお目にかかれるのではないかと思いまして」  つかさは言った。別にいい加減なことを言っているわけではなかった。まさにその通りであった。 「代理の!? そうでございますか」  相手は初めから一貫している物静かな口調で、 「山代さんがすっかり過去のことをお忘れになってしまったということは存じております。そういうことを、病院の方から伺いました。ですから、ここではお目にかかれることはないだろうと思って参りました。過去のことをお忘れになったら、もちろんわたくしのこともお忘れになっていると思います。でも、来てみました。他のことは全部忘れても、あるいはわたくしのことだけは、それだけは特別に覚えていて下さらないとも限らないと思いました」  女はここで言葉を切ってから、 「貴女が、山代さんの代理でここにお見えになったということはどういうことでしょうか。山代さんが覚えていて、貴女をお使いにお立てになったのでしょうか。それとも、わたくしが差し上げた葉書でも残っているとか、お約束のメモのようなものでもあるとかして、それでお使いに来て下さったのでしょうか」 「お葉書が残っておりました」  つかさは言った。 「そう、そうですか」  感慨深そうな表情をして、 「そうではないかと、たったいま、わたくしも考えましたの。変なものでございますわね。何もかもなくなっても、お約束だけがありますなんて」  女は言ったが、言ったあとで、すぐ笑ったのではないかと、つかさは思った。確かに女の笑い声のようなものをつかさは耳にしたように思った。つかさは女の顔を見たが、女は寧ろ無表情と言えるような静かな面輪を見せていた。 「世の中のこと、何もかも記憶しているから在るので、その記憶を失ったら、何も在りませんのね。在るということは、それがここに在るというようなものでなく、それを憶えているというだけのことですわね。わたくし、山代さんのお蔭でほんとにいろいろなことを勉強いたしました。——これでわたくしの方も記憶喪失症にかかって、忘れてしまったら、それこそ本当に初めから何もなかったことになりますわ。面白いものだと思いますわ。人間はお互いに悦んだり、悲しんだり、恨んだり、いろいろなことしていますが、そのもとになっているものは記憶だけですのね。お互いに憶えているというだけのことですのね。ずいぶん面白いと思いますわ、ほんとに」  女はその表情と同じように、余り抑揚のない平板な口調で喋っていたが、つかさは次第にその口調の中に、一種投げ遣りなものを感じていた。女が長い言葉を切ったので、つかさはこんどは自分の方が喋る番だと思った。 「山代さんとは、一体、どういうご関係だったのでしょう」  つかさが言うと、 「あら」  というように、女は初めて表情を変えた。つかさはこの女は、いままで自分の居ることを忘れて、独語でもするように自分自身に喋っていたのではなかったかと思った。それほどつかさが言葉をかけたことで、女の表情は異ったものになった。 「わたくしと山代さんの関係? ただいま申しましたように、山代さんが憶えておられる間は、確かに関係といったようなものはあったと思います。しかし、いまはもう何もありませんわ。山代さんが憶えていらっしゃらない以上、何もありません」  女は急に硬くなった表情で言った。 「いまはなくても、以前は何か関係をお持ちだったでしょう。それ、どういうご関係でしたでしょう。お差支えなかったら話して戴きたいんですけど」  つかさは言った。 「でも——」  承知しそうもない女の顔だった。 「わたくし、山代さんの代理でお目にかかりに参りましたので、一応お訊きしたいんです」 「でも——」  女は考えていたが、 「山代さんご自身でいらしっても、山代さんが何も憶えていらっしゃらないことを知りましたら、わたくし、何も申し上げないことだろうと思います。失くなってしまった過去を、もう一度作ることなんか、人間の力ではできないことですもの」  女は冷たく言った。  つかさは体がすっかり氷のようになっているのを感じていた。つかさは女と山代との関係をたとえ少しでも知りたいと思ったが、女は再び能面のような動きのない表情に立ち戻ってしまい、もはやそこからは何物も引き出すことはできないように思われた。  ——わたくし、何も申し上げないことだろうと思います。  女が口から出したその言葉の、梃《てこ》でも動きそうもない強さだけがいつまでもつかさの耳に残っていた。 「宜しゅうございます。それでは、もう何もお伺いしないことにいたしましょう。貴女と山代さんとの関係は、おっしゃる通り、みんな失くなってしまったことに違いありません。もう山代さんとは、お顔もお名前もお互いに知らない以前の状態に戻ったことになりますわね。それだけのことを、ここではっきりしておきましょう。わたくしも山代さんの代理でここまで出向いて参りましたので、一応はっきりすることは、はっきりしておきたいと存じます。それがわたくしのお役目ですから」  つかさは自分でもそれと判る執拗さで、念を押す言い方をした。相手に絶縁状でも書かせるような、そんな気持だった。たとえ、山代が記憶を回復するようなことがあっても、将来あと腐れのないようにしておかなければならなかった。 「承知いたしました」  女は言った。 「もしお差支えなければお名前を」  つかさが言うと、 「差支えがございますの」  女は弱々しく笑いながら言って、この瞬間だけ、また表情を動かした。小憎らしい感じだった。  つかさはいつか仇敵と向い立っている気持になっていた。山代を挾んで、山代の失くなってしまった過去の一部を掴んでいる人間と、山代の現在を掴んでいる人間との間には何の通ずるものもなかった。あるものは、どこに根差しているかも判らぬ、甚だ正体の判らぬ敵意だけであった。  女が山代宛てに認めた謎のような葉書の文面は何一つはっきりさせることはできなかったが、それは諦める以外仕方なかった。 「寒くなりましたわ」  女は言った。そろそろ二人の会見を、これで打ち切りたいといった気持が、その言葉には籠められてあった。 「では、これで失礼いたしましょう」  つかさは言った。 「どうぞ、お大切になさいますよう」 「有難うございます。そう山代さんに申し伝えます」  つかさは女から離れた。浜の白砂は月光で青くなっている。インキでもこぼしたように、その青い砂の上にくっきりと影が捺されている。つかさが歩くと、その影も動いた。  翌朝、つかさはかねさんに勧められて、船で沼津へ行くことにした。波も静かなので、船酔いの心配もあるまいと思われた。  船は九時に、宿から一丁程のところにある波止場から出るということだったので、八時を廻った時刻に、つかさは慌しく朝食を摂った。 「重さんったら、ゆうべお話しになった南海楼のお客さんが道を歩いているところを写真に撮ったんですよ」  と、かねさんは言った。かねさんの話に依ると、板前の重さんは写真道楽で、時々沼津の新聞社の主催する写真コンクールなどへ出品して入賞したりしているということだった。そのくらいだから、カメラもいいのを二台か三台持っていた。 「板前などやめて、カメラマンになったら、立派にやって行けると思うんですが、あの人、年齢《とし》の割に何でも慎重でしょう。だからだめなんです」  かねさんはそんなことを言った。 「その写真、よく撮っていますか」  つかさが訊くと、 「とてもよく撮っていました。バスの停留所の前に立っているところです」 「じゃ、それ、見せて戴きたいわ」  すると、 「貰って来て上げましょうか」  かねさんは言って、立って行った。  暫くすると、かねさんは掌《てのひら》ほどの大きさに断ち切った写真を一枚持って来て、 「これ、差上げるそうです」  と言った。 「それは有難う」  つかさはその写真に眼を当てた。なるほどゆうべ月光の中で向い合って立っていた人物が、バスの発着時刻表を少し仰ぐようにして見ている。カメラはそれを横から撮していた。  つかさがそれを見た瞬間別人ではないかと思ったほど、その女性は明るく映っていた。良家の夫人といった感じで、何となくただそうして立っている姿にも、穏やかな品のよさが現われていた。ゆうべは月光のせいか、いやに生白く冷たく見えたが、写真からはそうしたものは感じられなかった。  つかさは写真をスーツ・ケースの中へ入れた。東京へ帰ったら、さっそくこれを山代に見せてみようと思った。これに対して、山代がどのような反応を示すか、それを知りたかった。女の名前を調べようと思えば、かねさんか重さんに頼んで調べることもできたが、つかさはそれを口に出さなかった。  ——差支えがございます。  女の言葉は、いまもつかさの耳に残っていた。宿帳に認めた名前が本名かどうか当てにならなかったし、どうしても、それが必要ならあとから手紙でかねさんに頼めばいいと思った。  横  顔  伊豆から帰った翌日、つかさはすぐ山代のアパートを訪ねた。珍しく山代は留守だった。部屋に鍵がかかっていて、内部へははいれなかったので、つかさはそのまま引き返すほかはなかった。  その日の夕刻、つかさはもう一度アパートヘ出掛けて行った。こんどは山代は机に向っていた。 「午前中にお訪ねしましたのよ。どこへ行っていらしったんです」  つかさが訊くと、 「きのうから、帳簿に載っている絵の取引先きを訪ねています。きのう二人、今日二人、都合四人会いました。四人とも僕の記憶にはないが、みんなちゃんとした人物で、こっちが何もかもぶちまけると、非常に同情してくれて、なんでも喋ってくれました」  山代は言った。そして洋服箪笥の扉を開けて、そこにかかっている上着のポケットから四枚の名刺を取り出すと、それをつかさに示した。どれもつかさの知らない人物で、つかさが山代のところへ来る前に交渉を持っていた相手らしかった。 「何か特別のことが判りました?」  つかさが訊くと、 「特別なことは判らないが、しかし、いろいろなことが判ります。みんな自分に関係したことですが、僕には初めてのことばかりです。死んだ友達のやったことでも調べているみたいで、変な気持ですが、興味はありますね。画廊を持った一年は、全く素人画商だったらしい。——金には相当苦労していますね」  それから、山代は、 「絵の取引先きは全部で五十人程です。毎日二、三人ずつ会えば一カ月足らずで、全部会えます。仕事の面ではかなり詳しく空白が埋まりますよ。貴女が店へ来てから以降は、貴女に同行して貰う方がいいが、それ以前の取引先きは自分で調べてみようと思うんです」  と言った。山代はいつもより健康そうに見えた。自分の過去を埋めるという仕事が、いまのところ、山代にはさほど厭そうではなかった。 「わたくしの方も仕事をして参りました。伊豆のS村へ行って来ました。そして満月の夜に、例の葉書の差出人と会って来ました」  つかさが言うと、山代はつかさにもそれと判るような不快な顔をしたが、 「——で?」  と、先きを促すように言った。 「ごめんなさい。無断で行きましたけど、山代さんが出掛けない方が安全だと思いましたの」  それには答えないで、 「——で?」  と、山代はその結果を聞く方を急いだ。 「女の方でした。やはりあの葉書の差出人で、山代さんに会うためにやって来ていました。三十二、三ぐらいの方で、山代さんが入院していたことも、どんな病気にかかっているかも知っていました」  つかさは言った。 「ほう」  山代は不機嫌な顔のまま言った。 「僕のことを知っていて、どうして出て来たんです?」 「もしかしたり、約束だけを覚えていらっしゃるかも知れないと思っていたようです」  つかさは言って、それから伊豆のS村における二日間の出来事を、ひととおり詳しく説明した。 「宿帳に書いた名前は一応調べて来るべきでしたね」  山代は多少非難を籠めて言った。つかさが自分に無断で伊豆へ出掛けて行ったことに対する不快さが、まだ彼を不機嫌にしているようだった。  つかさはそうした山代を見るとやはり物悲しい気持に襲われないわけにはいかなかった。山代の心の中へはいり込んで、山代の欠けた過去を埋める仕事を、山代と一緒にすることに生き甲斐を感じようとしていたが、どうやらそれはひとり相撲ではないかという気がした。山代と一心同体になることを、つかさは夢みていたが、そうしたことを、いま山代から冷たく拒否された思いだった。  しかし、つかさは気を取り直すと、自分が持って来た旅館の板前の重さんが撮した写真を、山代の方に差し出した。 「この方です」  山代はそれに眼を当てていたが、やがていきなり、 「このひとは知っている」  と、叫んだ。 「知ってます?」  つかさも思わず声を高くした。 「知っている。確かに知ってる!」  山代はなおもまじまじと写真を見守っていたが、 「いますぐには思い出せないが、この人は確かに知っている。そう親しくはしていないが、しかし、知っている人ですよ」  そう言った。そして窓際に行って、戸外の光線に写真を当てていたが、 「誰かな、この人は。確かに知っているんだがな」  そんなことを言って、右手の拳《こぶし》で自分の頭を叩くようにした。  つかさは黙っていた。山代が記憶を回復することを望んでいるような、また逆にそれを望んでいないような複雑な気持だった。山代がこの女性のことを思い出したら、一体どのようなことになるのか、つかさにはそのことは判断できなかった。  山代は写真を右手に握ったまま、部屋を歩き出した。山代は一つのことを思い出すために、全く自分を忘れている感じだった。山代はつかさの存在も忘れたように、部屋の内部を歩き回っていた。  つかさは、まるで動物園の檻の中の熊のように、部屋の中をのそのそ歩き廻っている山代の姿を見守っていた。つかさは自分の存在が全く山代から無視されているのを感じていた。無視されているというよりすっかり忘れ去られているのである。  そのうちに、山代は部屋を歩き廻るのをやめて扉のところへ行ったかと思うと、いきなり扉を開けて外へ出て行った。忘れていた用事をふいに思い出して、外へ飛び出して行くような、そんな慌しさがあった。  つかさはそんな山代に、声も掛けなければ、そうした行動を留めもしなかった。山代が写真の主の顔が誰であるか思い出そうとして、必死にその仕事に没入していることが判っていたので、それを妨げる気はなかった。それにつかさに声をかけさせないようなものを、その時の山代の姿は持っていた。つかさはそのままにしておく以外仕方なかった。  つかさは部屋の中にひとり残されると、窓際の机のところへ行って、そこに積み重ねられている三、四冊の総合雑誌を取り上げた。そして山代はこんなものを読み始めているのかと思った。どれも何日か前に新聞の広告で見た今月の雑誌であった。  つかさは机のひき出しを開けてみた。半月程前には何もはいっていなかったが、いまはごそごそした物がいっぱい詰まっていた。マッチ、煙草、洗濯屋の請求書、胃腸薬、ビタミン剤、万年筆、鉛筆、名刺、鍵、ノート、そんなものがつかさの眼にはいって来た。明らかに一人の人間の生活は始まろうとしていた。  つかさはノートの一冊を取り上げて見た。頁をめくると、すぐそれが日記らしいことが判ったので、つかさはそれを閉じた。そしてその日記帳に重ねて置かれてあった他のノートを取り上げてみた。この方は失った三年間の過去の記録であった。  つかさはいつ山代はこのようなものを作ったのであろうかと思った。一冊のノートの最初の頁には�三十三年一月�と書き込まれてあり、そこから三、四頁は日附だけが書き込まれて全部白いまま残されてある。それから同じように三十三年の二月、三月、四月、五月、六月と、日附以外何も書き込まれていない頁が続いている。  同じ形に作られた空白の多い奇妙な日記帳は三冊あった。二冊目は三十四年、三冊目は三十五年の日記帳であった。二冊目、三冊目の日記帳にはところどころに細かいペン字の書き込みがあった。画廊の帳簿や、残されてある手紙や書類から知り得た事項をここに書き入れてあるのである。  つかさは、この三冊のノートを埋めるのは大変だと思った。大体何年の何月頃のことだということは判っても、正確にそれが何月何日のことであるというところまで追い詰めることは容易なことではない。山代もそのことを予想してか、まん中に横線を入れて、記述を二段構えにしている。  つかさは空白が大部分を占めている三冊のノートを眺めながら切ないものを感じた。一人の人間が必死になって生きようとしているその切なさであった。つかさはこれまで自分が充分山代の心の内部へはいり込み、山代の心と完全に融け合って、一体となって、あらゆる物事を全く山代と同じように感じ、同じように考えることができると思っていたが、やはりそこには、何と言っても、実際に記憶を失った者と、そうでない者との違いがあるようであった。  つかさは山代が記憶を回復することを望んではいたが、しかし、また記憶を回復しないことを望んでいる部分もあった。記憶を失っていればこそ、山代の心の内部に自分の坐る椅子があったが、山代が完全に過去を取り戻した時は、現在自分が持っている席を、そのまま確保できるかどうかは、甚だ疑わしいことであった。現在空白になっている過去の中に、つかさは自分の席を持っていなかった。山代はつかさを特殊な女性として取り扱ったことはなかったし、はっきり言えば一顧だにしてくれなかったのである。  山代はつかさに愛の告白をしたが、それは過去を失った男としての、山代の愛の告白であった。山代が過去を埋め得た時、山代のつかさに対する愛がそのままの状態で持続するかどうかは、甚だ怪しいことであった。それは過去が埋まると同時に跡形もなく消えてしまうものであるかも知れなかった。  しかし、山代の記憶回復への願いは、つかさのようにそんないい加減なものではなかった。記憶を回復すること自体が生きることであった。それ以外に生きる道はなかった。過去がない限り、山代は歩き出すことはできないのである。三冊のノートははっきりと生きようとする山代の切ない意志を現わしていた。それが今更のようにつかさの心を打ったのであった。  つかさは、山代がアパートを出て、恐らく丘の斜面から頂きにかけてできている住宅街のあたりを歩いているであろうと思った。自分が示した写真の主を思い出そうとして歩き廻っているに違いない。  つかさは、しかし、山代の切なさは判ったが、やはり山代がそれを思い出さぬことを望んでいた。満月の月光を浴びて立ったあの女性が、山代の脳裡の中に浮かび上がった場合を想像すると、つかさはふいに恐怖に近い感情に襲われた。山代と彼女とは通り一遍の関係でないことは明らかであった。山代があの女性が誰であるかを思い出すことは、それは山代と彼女との関係が、これまでは死んでいたが、それが生きることであった。どういうものか、つかさは八束陽子という女性より、満月の女性の方が気になった。実際に相手の女性を自分の眼に収めたためかも知れなかった。  つかさは山代の部屋を出ると、階段を降りて、アパートの建物を出た。夕暮が来るにはまだ少し時刻があったが、もう陽は沈みかけているらしく、丘の麓の家々を赤い光線がうっすらと染めている。つかさは住宅街のゆるやかな坂道を上って行った。いつか山代が毎日のように散歩すると言った道であった。つかさは住宅街への入口から、それに続く商店街の方へ曲った。つかさは山代の姿を見付けたかった。山代に一刻も早く会いたかった。山代の持つ切なさを、会って優しく揺すぶってやりたくもあったし、反対に山代が満月の女性が誰であるか思い出してはいないか、一刻も早くそれを確かめたいという不安にも駆られていた。  つかさが小さい商店の並んでいる小繁華街へと足を向けたことは彼女の勘のよさを物語るものであった。つかさは郊外電車の踏み切りを越えると間もなく、向うから漸く人通りの繁くなった道を、俯いてゆっくりと足を運んで来る山代の姿を見出した。アパートの部屋を出て行く時の、何となくせかせかした慌しさと打って変って、いまの山代はいやにゆったりと足を運んでいた。通りを歩いている人の中で、山代の歩き方だけが違っていた。  つかさは山代の姿を見て、いきなり烈しい不安に襲われた。ああ、もう駄目だという気がした。山代は思い出したに違いないと思われた。 「山代さん」  つかさは二人の距離が一間程にせばまった時、自分の方から声を掛けた。 「思い出しましたよ」  山代はいきなり言った。 「あの人は画廊から小さい絵を二、三枚買ってくれた人に違いありません。歩いていて思い出しました。僕はあの人と画廊で何回か会っていますよ」 「何という方?」 「それは判りません」 「葉書には榊原芳重と書いてありました」 「そうでしたね。そういう名前の人かも知れない」 「どうして、満月の夜会う約束をなさったんですか」 「それは判らん」 「それについては思い出しませんの」 「思い出しません。画廊で会ったことのある女性だということだけをぼんやりと思い出しました。画廊の応接セットの置いてあった窓際のことを思い出したのは、こんどが初めてですよ。そこに坐っていた感じを思い出したんです。陽が射して、何とも言えずのどかで明るいんです。確か画廊の窓の方は南でしたね」  山代は言った。 「南側が窓になっていたと思います」  つかさは答えた。山代が満月の女性を全部思い出していないということで、つかさはほっとした思いを持った。 「画廊でどんなお話をなさったのでしょう」 「何を話したかは思い出しません。絵の売買の話でしょうね」  山代が言うと、 「絵の売買をなさったことは判っていて、その時なさったお話の内容は思い出しませんのね」  念を押すようにつかさは訊いた。 「全然思い出しません。陽が当って明るい窓際に、あの女の人は腰掛けていたと思います。その時、どうも僕は何か小さい絵を二、三点売ったような気がする」  その山代の言い方には、別に匿しだてしているようなところは感じられなかった。つかさは山代と並んで、いま来た道を逆に引き返し始めた。 「それ、記憶を回復したことなのでしょうか」  つかさは歩きながら訊いた。記憶を回復したのなら、いかなる絵を何点売ったか、それからその時取り交した会話がいかなるものか、そうしたことを大体思い出すべきであろうと思う。 「さあ」  山代は考えている風であったが、 「記憶を回復したこととは違うと思います。ただ何となくそうしたことがあったような気がする。画廊の南側の窓際と言いましたが、必ずしも正確にそこが画廊だというわけではないんです。絵を売ったと言いましたが、それもただ何となく絵を売っていたというような気がするだけです。しかし、そのことは恐らく間違っていないと思います。場所は画廊で、会っている用件は絵の売買だと思うんです」  山代の言い方は多少不分明なものを持ち始めていた。 「その時の女の方が、さっきの写真の女の方であることだけははっきりしているんでしょうね」 「それは、はっきりしています」  断言するような山代の口調だった。 「僕は写真を見た時、耳の形を見て、どうもこの耳には見覚えがあると思ったんです」 「耳!?」 「ええ、耳です。恰好のいい耳をしていたでしょう」 「耳とは、また変なものに感心なさいましたのね」  つかさは心平らかならざるものを感じながら言った。つかさはあの女性の耳がどんな形をしていたかは覚えていなかった。 「明るいところで、明るい光線に照されていたあの耳に見|惚《と》れていたような気がする」 「厭だわ。眼に見惚れるとか、口許に見惚れるとかいうんでしたらまだしも、耳なんて! 一体耳なんかに見惚れる人があるかしら。ずいぶん変っていると思いますわ。わたくし、いままでにそんなことを聞いたことありません」  つかさは自分の心が尖り始めているのを感じていた。  明るい陽の光に当っている耳に見惚れるなんて、許すべからざる厭なことである。こうなって来ると、そこが画廊であるか、どこであるか判ったものではない。 「耳の恰好だけを思い出しましたのね」 「そういうわけではないが、それがきっかけになっています」 「なんのきっかけ?」 「なんのと言っても、他のことを思い出すきっかけです」 「他のことと言っても、みんな曖昧じゃありませんか。画廊にしても、画廊らしいと言うだけのことでしょう」 「そう」 「じゃ、きっかけとは言えませんわ。きっかけというからには、他のことをはっきり思い出している場合でないと」 「そう」 「耳だけじゃありませんか。耳のことだけを思い出しましたのね」 「そう。——いや」  山代は肯定しかけて、急いで訂正した。 「耳だけだとは言えない」 「耳だけですわよ、それ」 「いや」 「いやと言っても、そうじゃありませんか。厭な方」  つかさは極《きめ》付けるように言って、本当に厭だと思った。すると、 「大体、そんな写真を持って来るからいけない。写真なんて見せられなければ、僕は耳のことなんか思い出しませんよ」  そう言って、山代は笑った。いかにもおかしくて堪らないといったような笑い方だった。つかさは山代の笑い声を久しぶりで耳にした気持だった。それは曾てつかさが何回も耳にしたことのある山代独特の笑い声だった。相手を困惑させておいて、そのことが自分にはおかしくて堪らぬといった時、山代はよく銜えていた煙草を口から放し、人を食ったような笑い声を爆発させたものである。そうした時の山代は、いかにも屈託ない感じで、つかさは好きだった。  つかさは久しぶりで、その山代の笑い声を耳にした。そうだ、いままでこの笑い声を忘れていたが、山代はこうした笑い声を持っていた筈である。つかさはふいにそうした感慨に打たれた。と同時に、山代がいまや完全に発病以前の健康な状態に立ち戻ったことを思わざるを得なかった。 「この耳を思い出しなさいと言わんばかりに、横顔の写真を持って来たんですからね」  そう言われればその通りだった。 「でも、大撮しの写真ではないんですから、耳など見る方がいけませんわ。普通に見たら耳なんて眼に付かない筈ですわ」  つかさもまた笑った。  二人がアパートヘ帰った時は、完全に夜が来ていた。部屋の窓からは上流の鉄橋を渡る電車の灯の動きが小さく美しく見えた。 「食事をしていらっしゃい」  山代が言ったので、つかさはアパートの食事を御馳走になることにした。  階下の食堂で食事を摂ると、 「部屋で珈琲でも飲みましょうか」  山代は言った。 「じゃ、わたくし、おいしくいれますわ」  珈琲は別に飲みたくはなかったが、山代の部屋のキッチンで、珈琲を沸かす作業はつかさには楽しく思われた。珈琲を沸かすことに限らず、そこで食器を弄ることはなべて、つかさには魅力あることであった。どうして山代の部屋の小さな台所が、自分をそのように魅するのか不思議に思われるくらいであった。  山代の部屋で珈琲を飲み終ると、 「さ、それでは」  と、山代はつかさに帰ることを勧めるような言い方をした。 「早くお帰りなさい。遅くまで引き留めてすみませんでした」 「いいえ、今日は別に急ぎません。家に帰っても、なんの用事もありません」  つかさは言った。家へ帰っても自分の部屋に閉じ籠って、雑誌でも読んで床にはいるだけである。 「それにしても」  山代は言った。 「本当に構いませんの、ここにこうしている方がずっと楽しいわ」  そう言って、つかさは山代の方へ眼を向けたが、その時の山代の顔が、つかさには妙に気難しそうに見えた。その気難しい顔の中で口辺の筋肉が歪んだ。 「用事がなくても、家へお帰りなさい。娘さんというものは家へ帰るものだ」  明らかにその言葉には叱責《しつせき》の口調があった。つかさは驚いて、改めて山代の顔を見た。つかさは山代のそうした態度は意外であった。山代にそんな叱責を浴びせられねばならぬなんの理由も思い当らなかった。 「じゃ、帰ります」  つかさは相手の気持が判らぬままに、少し不機嫌に言った。何もそんなに邪慳に追い立てる必要はないではないかと思った。つかさが立ち上がると、山代も立ち上がった。 「何か、わたくしに悪いことありました?」 「いや」 「でも、山代さん、憤っているみたい」  つかさが言うと、 「憤ってはいない。——早く帰りなさい」  山代はむっつりと言った。 「帰れ、帰れとおっしゃらなくても帰りますわ。何だか悲しくなっちゃった」  つかさは本当に悲しくなっていた。  つかさは扉の方へ歩いて行ったが、扉の把手《とつて》に手をかける前に、もう一度山代の方を振り返った。山代は窓を背にして机の横に立っていた。つかさには山代が異様に見えた。まるで憎しみの固塊にでもなったような顔をして、山代はつかさを睨《にら》みつけて立っていた。 「一体、どうなさったの!?」  つかさはもう一度訊かずにはいられなかった。それに対して、山代は黙っていた。怒りで声が出なくなっているような、山代の形相《ぎようそう》だった。つかさは立っていた。が、思いきってつかつかと山代のところへ歩み寄って行った。このままで部屋を出ても、出たあと、自分の悲しみはどこへ消えて行きようもないと思った。  つかさが山代の前へ立つと同時に、つかさは自分の上半身が山代の手で抱きかかえられるのを感じた。突然のことだったので、つかさは逃れようとしたが、ふいに顔は上向きにされた。つかさは何が行われようとしているかを、瞬間知った。つかさは逃れることを諦めると、眼をつむった。ひどく甘美なものが、火花のようにそこら一面に散った。  つかさは自由になった。足許がふらついて二、三歩よろめいた。するとまたつかさは山代の手で羽交締《はがいじ》めになった。つかさは自分の方から山代の肩に手をかけた。大きな壁にでも手をかけているような、そんな不安定な思いが走った。つかさは自分の方から顔を上げた。不安定な思いの中で、つかさはまたあたり一面に火花の散るのを感じた。  つかさはまた自由になった。つかさはこんどは火花の散っている場所から逃れ出ようと思った。しかし、自分が自由になっていると感じたのは誤りで、依然としてつかさは山代の腕の中に擒《とりこ》になっていた。 「帰ります」  つかさは言った。何か言わなければならぬと思ったら、そんな言葉が口から飛び出した。帰りますとは言ったが、帰るということの意味がつかさには判らなかった。  つかさは三度目に山代から抱きしめられた時、本能的にありったけの力を出して、山代の腕の枠から逃れ出ようとした。こんどは必死だった。 「きらい?」  山代の声が聞えた。山代の声とは思われぬようなかさかさした声だった。 「いいえ」  つかさは夢中で言った。嫌いであろう筈はなかった。どうしてこんな判りきったことを訊くのかと思った。しかし、それにしても、山代の腕から逃れ出ねばならなかった。  つかさは、ふいに自分の体が宙に浮かび上り、山代の二つの腕に依って水平に支えられるのを感じた。つかさは腕で山代の胸を押し除《の》けようとした。 「きらい?」 「いいえ」  つかさはなおも逃れようとしたが、その努力は無駄だった。ひどくやすやすと、つかさは自分の体が宙を運ばれて行くのを感じた。  電燈が消されてあるので部屋は暗かった。つかさは寝台から降りると、暗い中で着衣を整えた。寝台が軋《きし》んで、山代が体を動かす気配がしたので、つかさは、 「電燈を点けないで下さい」  と言った。寝台の傍に電燈のスイッチがあるので、山代の手でそれが灯されることを怖れた。 「帰る?」  山代の声がした。 「ええ」  つかさは最後のバスにはまだ充分間に合う筈だと思った。  つかさは寝台の頭の方へ廻ると立ったままで、暗い中で山代の手を求めた。そして両の掌で山代の右手の掌を挾むようにしていた。山代の肉体の一部を自分が預っていることで、何かほのぼのとした仕合せな思いが立ち上がって来る感じだった。その幸福感をつかさは口に出して、山代に伝えたかったが、適当な言葉が浮かんで来なかった。  それで、つかさは反対に山代の方から何か言葉をかけて貰いたいと思った。 「何かおっしゃって」  つかさは低い声で囁くように言った。すると、仰向けに横たわっている山代の口から声が洩れた。 「僕がいま何を考えているか判る?」 「判りません。——おっしゃって」  つかさは言った。 「僕はさっきから、もう過去を断ち切り今日を出発点として、新しく生きて行けそうな気になっている。いままでは過去の線に沿って生きて行くために、過去をどうしても埋めなければならなかった。たとえ人工の過去でも、それが欲しかった。足のないものが義足を必要とするように、僕には人工の過去でも必要だったんだ。しかし、もういまはすっかり事情が変ってしまった。君という杖ができたので、杖に縋って歩いて行くことができる」  ここで山代は言葉を切ってから、 「そうじゃないですか」  と言った。つかさは自分の心がある感動でこまかく震えているのを感じていた。山代の言ったように、自分は本当に山代の杖となることができるだろうか。そうなることを望んでいたし、そうなることができたらどんなに嬉しいことだろう。 「まだバスある?」 「あります」  つかさは帰らなければならぬと思った。しかし、山代の手をいつまでも握っていたかった。 「明日参りますわ」  そう言うと、つかさは山代の手を放して、そこから離れた。ぱっと部屋に電燈が灯されたので、身を翻《ひるがえ》すようにして部屋から出た。  翌日十時に、つかさは山代のアパートを訪ねた。山代と一緒に昼食を摂るつもりで、副食物や果物をどっさり買い込んで行った。  つかさはいつも無心に登る階段を、幾らかいつもと違った気持で登って行った。山代に一刻も早く会いたくもあったし、顔を合わせるのが堪らなく気恥しくもあった。  部屋の扉を開けると、受話器を取っている山代の背後姿が見えた。  ——じゃ、一度お目にかかりましょう。お目にかかった上でお話を伺います。  山代は言って、受話器を置いた。そしてすぐ、 「何か展覧会に絵を貸出していたらしいですよ。よく判らんがどうもそうらしい。何でも、その絵に買手がついているらしく、そんなことで会いたいと言ってかかって来たんです」 「絵って、何の絵でしょう」 「さあ。——よく判らないが、ドランのデッサンとか言っていました。自分の絵のことで根掘り葉掘り訊くのはおかしいので、いい加減にお茶をにごしていたんですが、弱っちゃうな」  山代はいかにも弱ったといった顔をしていた。 「山代さんが入院していたことを知らないんですか」  つかさは訊いた。 「知らないらしいですね。どうも、話の様子では」 「お話しになればよろしいのに」 「こんど訪ねて来ると言っていましたから、その時話します。電話では話しにくい」 「知っている方ですか」 「勿論、知っていた人物でしょうが、現在の僕は忘れています」 「展覧会って変ですわね」 「何か長期に委託でもしておいたんでしょうか」 「山代さんのここに居ること、どうして判ったんでしょう?」 「さあ」  それから山代は、 「これからこんな電話が掛かって来ることが多くなると思いますね。うんざりしますよ」  と言った。山代の顔は憂鬱そうだった。  つかさは山代の部屋へはいると、いきなりこうした会話を山代と取り交したので、ここへ来る途中考えて来たような気恥しい思いは持たないですんだが、そのことにまた物足りない思いもあった。 「さて、今日は何をしますかな」  山代は言った。つかさには、ゆうべの山代とは全く違った山代のように思われた。暗い中で囁いた山代の言葉はもっとずっと親しいものであり、愛情に溢れたものであったが、いまの山代の言葉は事務的であり、特殊な関係が二人の間に結ばれた日の翌日の言葉とは思われなかった。もしかしたら山代はゆうべのことを忘れてしまったのではないか。つかさはふいにそんな不安に襲われた。  つかさは買って来たものを台所の戸棚に収めると、山代の傍に行った。山代は窓際に立って、ぼんやりした表情で戸外を見ていた。まだいまの電話のことが頭から離れないでいるのかも知れなかった。 「ゆうべ、失くなった過去を埋める仕事はもうやめようという気になったが、やっぱり駄目ですよ。こっちが埋めないでおこうとすると、こんどは逆に過去の方から追いかけて来る」  山代は窓外を見たままで言った。それに対して、つかさは返事をしないでいた。すると、山代はいきなりつかさの方へ顔を向けて、 「大阪へでも行って、二人で住みますか」  と言った。この言葉で、つかさは自分の心がみるみるうちに明るいものに膨《ふく》らんで行くのを感じた。山代はちゃんとゆうべのことを憶えているし、二人の間に生れた新しい関係の上に立って、二人が生きて行くことを考えていると思った。 「大阪へ行けば、みんな僕の知っている人ばかりです。幽霊は出て来ない。僕は自分が失った三年間に交渉を持った人物は、男も女も、僕にとってはみんな幽霊だと思うんです。そうでしょう。相手は知っているが、こちらは全然知らないんです。そんな変な奴等とは付合えませんよ。つくづく厭になっちゃった」  山代は言った。 「東京がいけないんですよ。東京に居る限り、僕は幽霊に追い廻される。大阪へ行きますか。大阪へ行って何か仕事を見付ける。大阪なら幽霊に会うことも少いでしょう」  山代は言った。なるほど山代の言う通り、大阪の方が山代にとっては生きいい場所に違いなかった。大阪に居た間のことは山代は殆ど失っていないのである。大阪で経験したすべてのことも、大阪で交渉を持ったすべての人のことも、いまの山代の頭の中にそのままの形で残っているのである。山代が失った三年の過去は一応大阪とは無関係なのだ。  しかし、山代から大阪へ行って一緒に住もうと言われても、つかさは即答できかねる思いだった。大阪の方が山代にとっては住みいいかも知れなかったが、しかし、それはあくまで比較的なことで、大阪にも山代のいわゆる幽霊なるものは、同じような姿を現わして来るかも知れなかった。 「住む住まないは別にして、一度大阪へいらしってみましたら?」  つかさが言うと、 「思い切って引越しますか」  山代は言った。 「そんなに急に決めてしまわなくてもいいでしょう」 「いや、堪らなく東京というところが厭になったんです」  つかさは、この時、山代が急にこんなに東京を厭がり出したのは、何かほかに原因があるのではないかと思った。 「いまのお電話で、急に東京が厭になったんですか」  つかさは訊いてみた。 「そう」  山代は言った。が、すぐ追いかけるように、 「そればかりじゃない。将来どんなことが起らないとも判らぬと思うんです。僕はきのうまではこんなことは気にならなかった。自分の失くした過去を埋めて、その上で生きて行こうと思っていた。しかし、ゆうべ、貴女が帰ってから考えたんです。暁方までずっと考えた」  つかさは、これまで山代がこのように真剣な表情で物を言うのを見たことはなかった。つかさは山代の顔を見守ったまま、次に山代の口から出る言葉を待っていた。 「僕は記憶も回復したくないし、失くなった過去を埋めたくもなくなったんです。いままでは失くなった過去を捉えようという気になっていたが、いまは反対に捉えるどころか、そこから逃げ出したくなっている」 「どうして、そんな気持になったんでしょう」  つかさが訊くと、 「そんなことが判りませんか」  山代はつかさの眼を見入って言った。 「僕は貴女を僕の過去から守りたいんだ。過去の幽霊たちの手の届かない安全な場所へ仕舞っておきたい」 「そんなこと、たいして難しいことではないでしょう。山代さんがわたくしに愛情を持っていて下さる限りは」  つかさは言った。 「しかし」  山代は急に不安な色を眼に浮かべて、少し言いにくそうな口調で、 「僕が失くなっている過去の中で、一人の女に愛情を持ったと仮定します。その愛情より、いま貴女に対して持っている愛情の方がより大きいと断言できるでしょうか。もし記憶を回復し、古い愛情がもとの形で生きて来たら——」 「そんな」  つかさはあとの言葉が続かなかった。自分が何回か感じていた不安を、山代もまた持ち始めていると思った。 「何か、そんなことで思い当ることがあるんですか」  つかさは胸に込み上げて来る不安を押えかねて訊いた。 「いや」  山代は首を振った。 「本当にないんでしょうね」 「勿論、そんなことはありませんよ。ただ、こうした不安は前から感じていたんです。だから、一応過去を埋めてしまうまでは、どんなことがあっても、ゆうべのような事態は引き起すまいと思っていた。そう自分に言い諾《き》かせていたんです。でも、引き起してしまった。貴女が悪いんだ」  貴女が悪いんだと言った時だけ、山代は眼で笑ってみせた。 「わたくし、いけなかったでしょうか」 「勿論。——帰りなさいというのに帰らないから」  山代は笑いながら言った。つかさは自分の顔の赤らんで行くのが判った。  つかさの心には新たな不安が顔を覗かせていた。 「わたくしを本当に愛していて下さったんでしょうね」 「ばかだな。なぜそんなことを言い出すのです」 「変な言い方をなさるからです。わたくしが帰らないことに全部責任があるみたいですもの」 「その通りだから仕方がない」  山代は笑って言ったが、すぐまた真顔になって、 「僕は自分の性格から考えて、過去にも女の関係はあったと思うんです」 「あったと思うなんて、——沢山あったじゃありませんか」  つかさはやり込める口調で言った。 「沢山!?」 「沢山ですわ。八束陽子さんやら満月の方やら、それから——」 「まぜ返さないで下さい」 「でも本当ですもの」 「とにかく、そうしたことはあったでしょう。あったとした場合、現在はみんな幽霊になっているわけですが、記憶が回復して生き返るようなことがあると、——僕はやはりそれが不安ですね」 「幽霊さんたちに対する愛情の方が、わたくしに対するものより大きいと言うんですのね」 「大きいとは言いません。大きい場合だってあるんじゃないかという疑いを持ったんです」 「失礼ですのね」  冗談とも真面目ともつかぬ調子でつかさは言った。考えてみれば、それはつかさ自身前から持っていた不安であり、それを山代が持ったといっても咎めだてすることはできないことであった。そうした疑いを口に出すところに、山代の自分に対する誠実があると言えばそう言えないこともなかった。山代はそうした疑いを持てばこそ、そうしたことから自分を庇いたいと考えたのに違いなかった。しかし、つかさは何かひどく物悲しい思いに胸を満たされていた。 「誤解されては困りますよ。記憶を回復した場合、一体どういうことになるか、実際僕には判っていない。僕ばかりでなく、誰にも判っていないことです。貴女と新しい関係を持ったばかりで、こんなことを言いたくはありませんが、実際にゆうべひと晩、僕はこのことで頭を悩ませたんです」 「————」  つかさは黙っていた。 「誰も、こんなばかなことで苦しんでいる人間はないでしょう。男として自分が現在持っている愛情に自信がないなんて、随分だらしないことだと思う。だが、正直に言って、——」 「よく判ってますわ」  つかさは言った。こんどは真面目な口調だった。山代の言っていることはよく判った。  つかさは物悲しい気持の中で、山代の言うことを茶化すような言い方をして来たが、しかし、心の他の面では、いま山代が言っていることは二人にとってひどく重大な意味を持つものであり、二人で真面目に考えて行かなければならぬ問題であることを感じ取っていた。  現在の山代の持っている愛情と、過去の山代の持っていたかも知れぬ愛情とは、それぞれ別個のものである。しかし、記憶が回復した場合は、現在の山代と、過去の山代はぴったりと一つのものになってしまい、一人の人間がそれぞれ異った二つの愛情を持つということになる。その場合、その二つの愛情のうち、どちらがより深いものであるかは、その時になってみなければ誰にも判りはしないのである。一つは死んでおり、一つは生きているといったようなものではなく、そのいずれもが生きているかも知れないのであった。  八束陽子への愛情が、あるいは満月の女への愛情が、いかに烈しく深いものであったとしても、それを誰が咎めだてすることができよう。現在の山代とつかさの二人が為し得ることは、二人の愛情を、二人の力で何とかして過去から守ることであった。しかし、それは大阪へ行くことで守れることではなかった。過去の幽霊からは守れるかも知れなかったが、幽霊が生き返った場合、それらの生きた幽霊から守ることはできなかった。それは山代自身の心の内部の問題であるからである。つかさは、山代も自分も、ゆうべの事件を境にして、はっきりと山代の記憶回復を怖れる共通の地盤に立っているのを知った。  電話のベルが鳴った。つかさはすぐ受話器を取った。佐沼からだった。佐沼はすぐつかさであることが判ったらしく、 「ああ、貴女ですか。山代さんが居たら、ちょっと電話口ヘ出してくれませんか。ちょっと試験をしてみたいんです」  そんなことを言ってから、あとは声を低めて、 「何も予備知識を与えないで、山代さんを電話口ヘ出してみて下さい」  と言った。 「承知しました」  つかさは言って、受話器を握ったまま山代に、 「お電話です」  と言った。 「どこから」  それには返事をしないで、つかさは受話器を山代の方へ差し出すようにした。山代はちょっと不審そうな表情で受話器をとって耳に当てたが、 「あ、その人、知っています」  いきなりそう言ってから、 「いや、どうしてと言っても、知ってます。そう、その人は知っている!」  ふいに山代の顔が泣き出しそうな複雑な表情になるのを、つかさは見た。  つかさは、受話器を耳に当てたまま佐沼と話をしている山代の顔から眼を放さないでいた。いかなることを佐沼から言われたのか、山代は顔を歪めて、うんうん唸るように、低い声を口から出したり、大きく頷いたりしていたが、 「知ってます。知っていることは事実です。なるほどそう言えば、いままでは忘れていたかも知れません。——いつからと言われても困りますが、たったいまそのことを思い出したのか、もうずっと前から思い出していたのか、どちらかです。——さあ?」  それから山代は受話器を耳に当てたまま、なおも二つ三つ頷いてから、 「では」  そう言って、受話器を投げ出すような荒い置き方をすると、 「思い出した!」  呻くように言うと、自分の椅子のところへ戻り、身を投げかけるように腰を降ろした。そしてまた、 「思い出した!」  と、呻いた。 「何を思い出したんです」  つかさは訊いた。すると、ぎょっとしたようにつかさの方へ顔を向け、 「後川幹之助という人物のことです」  と、言った。 「後川?」 「そうです」 「後川って、いつか行った伊豆の後川家の——」 「そう」 「じゃ、八束陽子さんという人のことも」 「いや、八束陽子が後川という姓になったことは、何も判りません。ただ後川幹之助という人物は知っている。僕はその人からゴルフを教わった。多摩川のゴルフの練習場へ行って、何回かその人からゴルフの手ほどきを受けています。いまその人の名を、佐沼さんから言われた時、ふいにその人のことを思い出したんです。その人の顔が眼に浮かび、その人と一緒にゴルフの練習をしたことが——」 「後川というからは、やはり陽子さんという人の婚家先きの誰かでしょう」 「——と思うんです」  山代は不安そうな表情で言った。 「何でしょうか」 「判りません」 「ご主人?」 「さあ」 「でも、八束陽子という方の何かであることは間違いありませんわね。後川という姓はそう沢山ありませんもの」 「そうでしょうね。僕もそう思う」 「幾つぐらいの人です」 「三十五、六でしょうか」 「思い出したのは、その人のことだけ?」  つかさが訊くと、 「その人は絵の顧客だったと思うんです。僕はその人とゴルフをやった。何回か多摩川でやった」  山代はひとりごとでも言うように言った。 「その後川という人のことだけを思い出したんですか」 「そう」 「変ですわね。その人のことだけを思い出し、その人の周囲の人のことは思い出さないんでしょうか」 「そう」 「そんな思い出し方ってあるんでしょうか」  つかさは疑わしげな気持で言った。まさか山代が匿していようとは思わなかったが、それにしてもその後川なる人物と何らかの関係があるに違いなく思われる陽子のことを、全く思い出さないのは不思議だと思った。山代のような場合、思い出すということがどのような現象か想像の外ではあったが、普通忘れていたことを想起するような時は、縺《もつ》れた糸が解けるようにそれに関連した幾つかのことが、連鎖反応的に思い出されて来る筈である。  つかさの言い方がくどく感じられたのか、山代は少しむっとして、 「変か何か知らないが、その人一人のことしか思い出されて来ないのだから仕方ない。後川幹之助という名を耳にした時、ふいに実業家の後川幹之助の顔が浮かび上がり、その人物が話す言葉の口調も、笑い方も、煙草の銜え方も思い出され、ヨーロッパの宗教画のことを画廊で話した時の相手の顔が、ついこの間のことのように眼に浮かんで来たんです。それからゴルフに誘われたこと、多摩川の練習場でクラブの握り方から教わったこと、二人で郊外のコースを廻った時のこと」 「郊外って、どこです」 「神奈川県と東京都との丁度境に当るところにあるFカントリー・クラブ」 「あら、地名も思い出しましたのね。きのうまでは東京都内の土地の名前は、以前から知っているものを除けば、他は全部お忘れになっておりましたわ」 「そう」  急にそのことに気付いた風に、 「そう。なるほど多摩川も思い出した。練習場も思い出した。ゴルフをやったことも思い出した。画廊も思い出した。画廊の壁にかかっていたドランの絵も思い出した。後川幹之助は画廊にはドランの絵を見に来たんです。そしてそこで売買契約が決まった。彼はゴルフの話をした。ひどく血道を上げていた。私はやりたくはなかったが、彼に近付くために、彼にゴルフを教えて貰うように持ちかけた。彼は教えたがっていたので二つ返事で引き受けた。ばか者め! 私は心の中では、彼を憎んでいた。いや、私は彼を恐れていた」 「どうして、憎んだり、恐れたり——」 「どうしてでしょうね」  山代は首をかしげて、再び、 「どうしてでしょうね」  と、心の底からそのことを不審に思っているような顔をした。が、すぐ前に続けて言った。 「そうだ。三回ゴルフの練習に行った。彼は熱心に教えてくれた。ばか者め! 私はゴルフなどやる気はなかった」  山代は自分の頭に思い浮かんで来るものを、そのまま片っぱしから口に出しているかのように見えた。つかさはそんな山代を半ば呆気に取られた形で見守っていた。 「彼はゴルフを教えることに熱情を注いでいた。私の方はいい加減だった。ゴルフなど少しも上達しようとは思ってはいなかった」  それから山代は、 「なぜだ?」  恰も自分に疑問を投げかけるように、そんな強い言い方をした。 「なぜですの?」  つかさも横から言葉をさし挾んだ。 「判らない。なぜだろう」  山代は頭を抱えている手で、頭を叩くようにして、あとは放心したように二つの眼を空間の一点に置いていた。そして暫くしてからまた、 「判らない」  と言った。 「後川幹之助は実業家だ。そのことだけは判っている。そして店の顧客であり、私のゴルフの先生だ。そのことも判っている。私は教わりたい気持もなく、彼に近付くことだけのために、彼からゴルフを教わった。——あとのことは何も判らない。同じ後川という姓だから、伊豆のあの別荘の所有者である後川家と何かの関係を持つ人物だとは想像されるが、それも単に想像するだけのことだ」  山代は言うと、あとはこうした場合いつもそうであるように押し黙ってしまった。  つかさは山代の狂った脳のあらゆる部分が、いまや正常な働きを取り返そうとして、それに必要な動きを見せ始めているように思われた。写真に横顔を見せている女性のことも、全部ではないにしても、その一部を思い出しているし、後川幹之助という人物のことも、同様にその一部の記憶を取り戻している。  つかさは、山代の失われている過去が、どこからということなく、全く勝手気ままなところからいまや少しずつ埋まりつつあるように思われた。遠からずして、山代は失われた過去の全部を取り戻すかも知れない。そうした場合、自分はどうなるであろうか。山代は過去から自分たち二人の関係を守りたいと言ったが、そうした過去を近く取り戻してしまいそうな予感を感じて、急にそのことが怖くなったのではないか。 「お疲れになるといけないから、お寝みになりましたら? わたくし、今日はこれで失礼しますわ」  つかさは言った。突然一つの記憶の断片を取り戻したということで、山代は疲れているに違いないと思われた。 「そうして下さい。寝みましょう」  山代も言った。つかさは自分が想像した通り山代は疲れていると思った。 「いずれにしても、記憶を取り戻すことができたのですから悪いことではありませんわ。悦んでいいことでしょう」  つかさは慰めるように言って、立ち上がった。  仲  秋  山代大五が佐沼と高崎の訪問を受けたのは、後川幹之助という人物のことを思い出してから半月程してからであった。秋晴れの気持のいい日の午後だった。  佐沼は部屋へはいって来ると直ぐ、 「お差支えなかったら、一緒に街に出て食事しませんか」  と言った。 「結構です」  山代は答えた。何をするといった予定もなかったし、アパートの食事にも倦きていたので、街で食事をする誘いは有難かった。 「それにしても、夕食には少し早いでしょう」  山代が言うと、 「そうですね。夕食までに少し時間がありますね。じゃ、その間に久しぶりで病院へ顔を出して貰いましょうか。看護婦さんたちも会いたがっていますから」  佐沼は言った。 「そうしましょう」  山代は退院以来一度も病院へ顔を出していなかった。つかさの手を通じて看護婦たちに気持だけの謝礼はしてあったが、どうしても近く一度病院に顔出しをしなければ義理が悪かった。が、病院の人たちには病状のひどい時の自分を見られているだけに、いざとなると、なかなか腰が重かった。 「いい機会だから、伺いましょう。とうに伺わなければならなかったんですが」 「いや、そんなことありませんが、来て戴ければ、みんな悦ぶでしょう。精神科の患者さんは、退院したら、よほどのことがない限り病院には来ないものですよ。確かにご本人にとったら愉快なところではありませんからね」  佐沼は言った。山代は、佐沼と高崎の二人に待っていて貰って、外出の支度をした。 「今日はつかささんは?」  高崎が訊いた。 「毎日来ているんですが、今日は横浜の親戚に用事があると言っていましたから、そっちへ行ったと思います」  山代が答えると、 「運が悪いね」  佐沼が笑いながら言った。その言い方には高崎をからかっている調子がはっきりと感じられた。山代は何となくはっとして、高崎の方を見た。 「冗談じゃありませんよ」  高崎もまた笑いながら言ったが、その顔には、含羞の表情があった。 「からかわないで下さい」 「からかってはいない。君が大真面目なのに、からかったりできないよ」  佐沼は明るく笑った。  山代は、佐沼と高崎の会話を、何となくうしろめたいところのあるような気持で聞いていた。つかさは山代の入院中からずっと今日まで山代の世話をして来ており、そうした二人の間に特殊な関係が生れたとしても、それはそれほど異様なケースと見做さるべき性質のものではないと思われた。  しかし、山代が自分自身何となくうしろ暗い気持を持つのは、自分が記憶喪失者であるという一事のためであった。佐沼にしても、高崎をつかさの結婚の相手として想定することはあっても、山代の方はそういう問題には全くの無資格者として初めから考慮に入れてないところがあると思われた。  佐沼から見れば、山代は完全な病人であるに違いなかった。そうした山代がつかさと関係を持ったことを知ったら、佐沼は山代に対してどういう感情を持つであろうか。病人のくせにずいぶん勝手なことをしたものだと呆れ返ってしまうか、あるいはもっとはっきりした非難の気持を持つかも知れない。山代はそうしたことを考えると、いつものように虚心に佐沼や高崎の前に立っていることはできなかった。脛《すね》に傷を持つ身の引け目があった。  山代は外出の支度をすると、佐沼と高崎と連れ立ってアパートを出た。何か悪事でも露顕して刑事に拉致《らち》されて行くような気持だった。アパートの階段を降りて行く足許が自分でも頼りなく思われ、建物の外に出ると、初冬の穏やかな白い陽が眼に沁みた。  バスに乗ってから、山代は以前このようにして、誰かに自分は連れ去られたことがあったのではないかという気がした。こうした気持は、いまが初めてのものではないという思いが強かった。それでいて、勿論、それがどういう場合であったか、はっきりとは思い出せなかった。何かいまにも思い出されて来そうで、思い出されて来なかった。  一体、何であろう。自分の過去にいかなることがあったというのか。バスの動揺に身を任せながら山代はそのことから気持を逸らせることはできなかった。しかし、時々佐沼の言葉で、山代の想念は破られた。 「この間の後川幹之助氏というのは、貴方のアパートにあった名刺の一枚なんです。その名前をいきなり電話口で言ったら、貴方が知っていたのには驚きましたよ。昨日、大体のことはつかさ嬢から電話で聞きましたが、あとで病院でもう一度話して下さい」  佐沼は言った。 「承知しました。それにしても、そんな名刺を彼女でも持って行ったんですか」  山代は訊いてみた。 「いや、アパートから、こんなものが残っていたと、病院の方へ届けられて来ましてね。名刺が十枚程と洗面道具です。高崎君が預ってあります。この分で行くと、まだ何人か思い出して来ますね、きっと」  佐沼は言った。山代はいろいろなことを質問されるために、自分が病院に連れられて行くらしいことに、この時気付いた。  山代は退院以来初めて病院の門をくぐった。 「ずいぶんお世話になったところです。やはり懐かしい気持がします」  山代は素直に病院の門をくぐる感懐を、佐沼と高崎に洩らした。玄関へはいると、すぐ幾つかの見覚えのある顔にぶつかった。山代はその一つ一つに、 「入院中は、いろいろご厄介になりました」  と、同じ言葉を口から出して、頭を下げた。記録室へはいると、若い医局員が、 「いらっしゃい」  と、屈託ない調子で、山代を迎えてくれた。山代はそこでまた、そこへ出入する医局員や看護婦たちと、同じ言葉で挨拶を交した。窓際の椅子に坐っていると、まる顔の看護婦が話しかけて来た。 「山代さんがはいっていらしった時、全く別人かと思いましたわ。——すっかり、お元気になって」 「別人に見えますか」 「ええ、全然。——顔かたちから歩き方まで、入院中の山代さんとはすっかり違っています。お話しになる声まで違いますわ。こんなにも違うものでしょうか」  看護婦は言った。その言葉には誇張は感じられなかった。 「そんなに違うかね」  佐沼が言うと、 「先生と高崎先生には時々お会いになっていらっしゃるから判りませんのね。いま、廊下でも、他の看護婦さんたちが話しておりました。全然別人のようですって」  看護婦は言って、 「一体、どちらが本当の山代さんかしらって、吉野先生もおっしゃっていました」  吉野というのは医局員の名前であった。 「どうも、いまの僕の方が、本ものらしいですね」  山代は笑いながら言った。佐沼はいったん席を立ったが、すぐ戻って来ると、 「これです、アパートから届けられたものは」  そう言って、洗面道具を入れた小さなバッグと、名刺のはいっている角封筒を差し出した。山代は洗面道具のバッグを弄り廻してから、その内容物を点検した。どれも記憶にないものばかりで、これがお前の物だと言われても、すぐには受け答えできない気持だった。 「覚えていますか」  佐沼が言った。 「いや」  首を振って、 「どうも、やはり、いけませんな」  山代は苦笑した。久しぶりでその向うに何があるか判らぬ壁にぶつかった思いだった。 「名刺の方は?」  佐沼が眼で示したので、山代は角封筒の内部に入れられてあった名刺を取り出した。名刺は十枚程で、それがゴムバンドで結わえられてあった。山代はその一枚一枚をめくって行ったが、その名前と結び付いている顔を一つも眼に浮かべることはできなかった。 「後川幹之助氏の名刺は?」  山代が訊くと、 「あ、あの名刺ですか。あれは高崎君がカルテに貼りつけたと思います。名前のほかに何も書いてありませんが、一体、いかなる人物ですか」 「実業家です」 「どんな仕事をしています?」 「その点はどうも。——ただ実業家であるということだけ、それだけは間違いないと思うんですが」  山代は言った。いかなる実業家かと問われると困った。 「いや、実業家なら、調べればすぐ判りますよ。紳士録のようなものに載っているでしょう」  佐沼は言って、 「調べてみましょうか。病院では判りませんが、大学へ行けばすぐ調べられます」 「結構です。たいして深い関係はないと思います。ただ、余り好きな人物ではないと思うんです」  山代は言った。つかさがどのように佐沼に伝えているか見当は付かなかったが、山代がこの人物に恐怖と憎悪の感情を持っているということまでは話してないだろうと思った。しかし、一応そうしたことに触れるだけは触れておくことが、佐沼に対する礼儀であろうと思われた。 「好きでないというと?」 「何となく、その人物の顔を思い出した時、厭な奴だという気持がしました」 「ほう、なるほどね」  佐沼は力を籠めて言った。山代は相手が画廊の顧客であったと思われること、それからゴルフはやりたくなかったが、相手に近付きたいために、二、三回か相手からゴルフの手|解《ほど》きを受けたことなどを、一応佐沼に物語った。  佐沼は途中で高崎を呼んで、彼にノートを取らせた。山代がゴルフをやったことがあるということは、佐沼と高崎の関心を惹いたようだった。 「やっぱりやったことがあったんですね。でないと、あんなにちゃんとはクラブが振れませんよ」  高崎が言うと、 「肉体の記憶の方が、ずっと確かですね。ずっと安定していて、容易なことでは失くなりませんな」  佐沼は山代の顔を見守りながらも感じ入ったような表情で言った。 「その代り、肉体の記憶の方は、記憶としてそれがそこに定着するまでが容易なことではありませんよ。私の肉体などは、まだ記憶しません。クラブを振るたびに忘れている」  高崎は言った。 「高崎君の場合は、ひどく物覚えが悪いんだね」  佐沼は笑った。  ゴルフの話が一段落すると、 「思い出した人物に対して、不快な人物だという好厭感情が同時に蘇ったということも、いい徴候だと思いますね。相手の人物と自分との関係の全部が思い出された場合、当然その人物に対する好厭感情は蘇ります。そうした関係が、そうした感情を生み出したんですから。詰まり、その人物に対する評価や好厭の感情を作り出した材料が全部揃っているわけです。しかし、山代さんのいまの場合は、後川幹之助氏との関係の全部が思い出されたわけではない。そのほんの一部です。いついかにしてその人物と関係を持ち始めたかということも判っていない。そうでしょう?」  佐沼は言った。 「そうです」  山代は答えた。 「要するに、山代さんの思い出したのは、相手との関係の極く一部です。好厭の感情を生み出す材料は揃っていない。恐らく貴方が思い出した後川幹之助氏との関係からは、好厭の感情は出て来ないと思うんです」 「そうだと思います」 「そうなると、貴方が後川氏に対して懐く虫がすかないといった感情は、貴方がまだ思い出さない他の関係から生み出されていると思いますね。もっと正確に言えば、貴方が思い出した後川氏との関係と、まだ貴方が思い出していない後川氏との関係の、その二つのものが一緒になって、そこから後川氏を何となく不快に思う感情は生まれていると思うんです。そうなると、ある人物に対する好厭感情だけが、それを生み出す基盤になった事実とは別個に、独立して蘇って来たということになります。これは私たちから見ると大変興味ある現象ですし、珍しい例でもあると思いますね」  佐沼はここで言葉を切った。高崎はノートに鉛筆を走らせている。佐沼がなおも何か喋ろうとした時、看護婦の一人が顔を覗かせて、 「緑田《みどりだ》さんという方が御面会です」  と言った。 「緑田?」  佐沼は訊き返したが、すぐ、 「ここへお通しして下さい」  と、看護婦に言ってから、山代の方に、 「貴方に会って貰いたい人物があります。いまここへやって来ますよ」  と言った。間もなく、五十年配の顔色の悪い人物と、その細君らしい四十五、六の女性が現われた。男は仕事着の上にジャンパーをひっかけたといういでたちで、女の方は地味なツーピースを纏っている。 「どうぞ」  佐沼は二人に席を勧めてから、 「知ってますか」  そう山代の方に言った。  山代は小さい卓を隔てて、自分の前に坐っている中年の夫婦者の顔を見た。思い当るものはなかった。佐沼から知っているかと訊かれても、知らないと答える以外仕方なかった。しかし、山代は、 「さあ?」  と、曖昧な答え方をした。 「判りませんか」  佐沼が言ったのと殆ど同時に、 「山代さん」  と、女の方が言葉をかけて来た。 「洗濯屋ですがな。アパートの近くで、始終お会いしていた洗濯屋ですがな」  女は山代が自分たちに敏感に反応して来ないことが、いかにも歯痒《はがゆ》そうであった。 「なるほど」  山代は言った。なるほどと言っても、だからといって、別に相手に関する何事も思い出したわけではない。 「ね、思い出しなすったでしょう。ね、思い出して下さったでしょう」  女は意気込んで言った。 「洗濯屋さんですか」  山代は言った。 「厭ですよ、ほんとに、山代さんったら! わたしが判らんことはないでしょう。幾ら記憶喪失症とかに罹《かか》ったといっても、わたしを忘れる人がありますか」  女が言うと、 「無理だよ、そんなことを言ったって。山代さんは病気に罹っているんだ」  主人の方が横から口を挾んで、内儀さんを窘《たしな》めた。そして内儀さんを黙らせてから、 「山代さん、夏、わたしんところで将棋をやったのを覚えていませんか。もう一年余になりますが、去年の夏、毎晩のように将棋をやったでしょう。判らん!! 困りましたね。あんなに毎晩顔を合せていて」 「そうでしたか」 「そうでしたかって、困りますね、ほんとに」  それから急に言葉の調子を落して、 「やっぱり忘れていなさる」  と、主人は佐沼の方へ顔を向けた。佐沼は、 「忘れていればこそ、山代さんは病人なんですよ。また、とにかく、よく来てくれました。お蔭さまで、山代さんがあなた方のことを忘れているということが判りましたよ。私は、あるいは山代さんが思い出すかも知れないと思って、ご足労願ったわけです」  そう言い訳をするように言った。洗濯屋を経営している主人は、それから急に思いついた風に、一個のライターを取り出すと、 「これを覚えていませんか」  と言いながら、それを山代の方へ差し出した。 「さあ」  山代はまた曖昧に言った。すると、主人は、 「これは山代さんから頂戴したものですよ。判りませんかな、これが」 「あんたってば、そんなことを言っても、無理ですがな」  こんどは内儀さんが主人を宥《なだ》めた。  洗濯屋の夫婦が帰って行くと、 「実はもう一人来ます。これも洗濯屋の夫婦と同じ程度に親しくしていた人です」  佐沼は言った。山代はそれを聞いて、もう沢山だという気がした。洗濯屋夫婦に会っただけでも、佐沼などの知らない疲労が自分を襲っていると思った。山代が顔に現わした不快なものに気付いたのか、 「貴方にこんなことをさせるために、貴方を引張り出したんじゃないんですが、まあ、堪忍して下さい。もう一人だけ、辛抱して会って戴きましょう」  佐沼は言った。 「一体、どういう人物です。僕とどういう関係の人ですか」  山代は幾らか不機嫌な面持ちを匿しかねて訊いた。 「知らない方がいいんじゃないですか」  高崎が口を出した。 「知っていても、知らなくても同じことですよ。いくら説明を聞いておいても、思い出さないものは思い出しません」  山代が言うと、佐沼はそれではといった表情をして、 「額縁屋の主人です。貴方のところへ頻繁に出入りしていた人物です。かなり沢山のカンバスを入れていると思いますよ」  そう言った。 「なんという人です」 「坪内太一《つぼうちたいち》」  佐沼は言った。額縁屋と言われても、坪内太一と言われても、何も思い当るものはなかった。 「知りませんね。恐らく会っても無駄じゃないですかね」  山代はこんどは、努めて穏やかな口調で言った。佐沼にしろ高崎にしろ、考えてみれば何も自分に悪意を持ってこうしたことを企んでいるわけではなかった。そうしたことが充分判っていながら、つい自分が不機嫌になって行くことが悔まれた。 「とにかく、その人物もここへ来ることになっていますから、会ってみるだけは会ってみて下さい。それからすぐ街へ出ましょう」  佐沼の子供でも騙《だま》すような言い方が、山代にはおかしかった。佐沼もそれを自分で感じたらしく、山代の顔を見て笑った。  十分程すると、額縁屋の主人である坪内太一ははいって来た。商売人というより、画家のような風貌と服装をした大柄な人物であった。油っけのない長髪を指で掻き上げながら、 「いけませんな、山代さん」  と、いきなり大きな声を出した。山代にとっては全く初対面の人物の感じであったが、ふいにこの人物に厭なものを感じた。この厭な感じは、いま顔を合せた瞬間、相手から受け取ったものであるか、あるいは以前から相手に対して持っていたもので、それが、相手の人間を忘れたということとは別個に、それだけがそのまま、いま山代の心に蘇って来たものか、その点は判らなかった。 「一体どうしたというんです。どうして、そんなことになったんですか」  坪内太一は椅子に腰を降ろすと、すぐ足を組み、シガレット・ケースを上着のポケットから取り出しながら言った。こうして眼の前に居る彼を見ている限りに於ては、豪放磊落とでもいったものを感ずるほかはなさそうである。声も大きく、体も大きく、顔の表情の動きも大きい。  それでいて、山代はやはり相手に厭なものを感じている自分を持て余していた。好ましからざる人物が部屋にはいって来た時感ずる、あのどうしても愛想よく振舞えない気持である。 「どうしてと言っても、こういうことになってしまったんだから仕方ないですよ」  山代は言った。すると、坪内太一はこちらを覗き込むような表情をして、 「判りますか、私が」  と言った。さっきの洗濯屋の夫婦の場合とは違って、初めからこちらが自分を忘れていることを勘定に入れて、物を言っているところがあった。山代は軽く首を振った。 「判らん? 困りましたな」  それから、坪内は佐沼の方に、 「一体、いつ頃回復するんでしょうか」  と訊いた。 「判りませんね。しかし、少しずつ回復しかけています。入院していた当時とはまるで違っています。いまも、そのことを看護婦さんたちがみんなで話していたところです」 「ほう」  坪内は大きく頷いたが、 「それにしても、私のことはまだ、お判りにならん」 「全然、判りませんか」  こんどは佐沼が訊いた。山代は黙っていた。判らないと言うのが癪《しやく》にさわる気持であった。 「どこか記憶しているところはありませんか。話している感じとか、あるいは体の恰好とか」  佐沼は言ったが、山代はなお黙っていた。すると、坪内太一は、 「全然、忘れていらっしゃるようですね。全く変な病気があるものですな。記憶喪失ということは、かねがね聞いていたが、本当にすっぽりと欠けてしまうんですな。こういうものですかね」  いかにも感心したような言い方をした。 「私はこの方とは、二日に一回は会っていました。よく喋り、よく一緒に飲んだものです。気が合うというんでしょうか。顔を合さないと、妙に忘れものをした気持でした。そのくらいだから、何もかも任せられていました。任せられたまま、ふいに姿を消されてしまったのには、これは驚きましたよ」 「ほう」  佐沼が言うと、 「前触れなしに、突然消えてしまったんですからね」  坪内太一は、二本目の煙草に火を点けた。 「そんなわけで、山代さんの行方を方々探していたんですが、こちらに入院なさっていることが判って、この間初めてお電話したんです。そしたら、山代さんは退院しているが、ともかく一度病院へ顔を出してくれとおっしゃる」  それから�確かに私の言うとおりでしたね�と、念を押すように、坪内太一は佐沼の方へ顔を向けた。 「そうでした」  佐沼は頷いた。 「ところが、私もなかなか忙しくて、お伺いできなかった。そこへ今日お電話戴いて、山代さんが病院へいらっしゃるというので、それではというわけで、さっそく参上したわけです」  それから、また山代の方に、 「山代さんともあろう人が、一体、どうしたというわけです。冗談じゃありませんよ、何もかも忘れてしまって。——困りますね」  坪内は言った。磊落な口調で言っているが、どこかに油断ならぬものが感じられた。山代は依然として口を閉じていた。すると、坪内太一は、 「しかし、何と言っても、忘れてしまったものは仕様がありませんや。忘れちゃったんですからね。忘れたことを思い出せと言っても、これはどだい無理の話です。——いや、判りました。忘れてしまったことについて、野暮なことは言わんつもりです。こちらも災難ですが、考えてみれば、山代さんはもっと災難だ。——この私をさえ、忘れちゃったんですからね。それにしても、本当にこの私の顔を、私という人間のことを、すっかり忘れてしまったんですかね。不思議なこともあるものですな。何もかも、すぽんと頭の中から失くなっちゃったんでしょうかね」  そう言ってから、また顔を佐沼の方へ向けた。 「そういうことでしょうね」  佐沼も、相手の饒舌に多少|辟易《へきえき》した形で言った。 「覚えていますよ、少しは」  ふいに山代は言った。何も覚えてはいなかったが、余り忘れた、忘れたと言われたので、山代は腹を立てていた。 「覚えている?」  坪内太一はぎょっとしたように、眼を大きくむいた。 「覚えていますか」 「何となく、こうして話していると、少しずつ思い出して来ます。カンバス屋さんでしたね」 「そう」 「坪内さん?」 「そう」 「やっぱり、そうだ。こうしていると思い出しますよ。貴方とは始終会っていた」  山代は真顔で言った。坪内太一は大きな顔を何とも言えず複雑に歪めていたが、 「結構です。思い出して下されば」  そう言ってから、 「今日はこれで失礼しましょう。まだ廻らなければならぬところがあります」  そう言って、腰を浮かした。 「もう少し居てくれませんか」  山代は言った。 「もう少し居て下されば、いろいろ思い出しますよ。いま、思い出しかけています。もう少しのことです。もう十分程居て下さい」 「いや」  坪内太一は苦々しげな顔をして、 「十分でも二十分でも、居て上げたいが、今日は困ります。他と時間を決めて約束してあります。また改めてお会いしましょう」  それから彼は立ち上がった。 「思い出しました」  山代は言った。 「思い出したの!? 何を」  立ったままで、坪内は言った。 「いや、ちょっとしたことですが、そう、あれは確かに、貴方だ」  山代が言うと、 「とにかく、私は帰ります。帰らなければならない」  坪内はいきなり背を向けると、�では�と、佐沼と高崎の方へ、ちょっと頭を下げて、そのまま部屋を出て行った。坪内が居なくなると、記録室は極く僅かの間だが、しんとした。 「何を思い出したんです」  高崎が訊いた。 「何も思い出しませんよ。ただ、思い出したと言ってみただけのことです」  山代は笑いながら言った。 「思い出したと言ってみたら、どういうことになるかと思いましてね。それを験してみたんです。そしたら、相手は急にあたふたと帰って行ってしまった」 「ひとが悪いですなあ」  佐沼が、平生の彼に似ず大きな声を出して言った。 「でも、相手がこちらの記憶喪失を悦んでいるようなところがありましたからね。それで腹を立てたんです」 「確かにそういうところはありましたね」  佐沼が言うと、 「不快な人物ではありますね」  高崎も言った。 「それにしても、山代さんはもう完全に回復しましたね。記憶は失ってはいるでしょうが、記憶喪失者なんて影は少しもありませんよ。あれだけの芝居を打つんですからね。驚きましたよ」  佐沼は言ってから、 「記憶は確かに失っているんでしょうね。われわれをぺてんにかけているんではないでしょうね」  そんな冗談を言った。 「大丈夫です」  山代も笑った。心の底から笑いが込み上げて来た。おかしいといった気持が、こんなに健康な形で心に込み上げて来たことはなかった。  病院を出ると、街には夜が来かかっていた。まだ五時前だというのに、ひどく日が短くなって、ネオンサインがあちこちでまたたき始めている。タクシーで有楽町へ出た。 「今日は、僕が全快祝にご馳走しますよ」  佐沼は言った。 「そんなことを言って、僕の以前に行ったことのあるレストランヘでも連れて行くんじゃないですか」  山代もそんな軽口を叩いた。病院で洗濯屋夫婦とカンバス屋の主人に会わせられたことで、何となく油断できない気持だった。しかし、久しぶりで夜の街へ出て、山代の気持は弾んでいた。 「そう先き廻りをして言われては困りますよ」  佐沼が笑って言うと、 「敏感ですね」  高崎も笑った。二人とも即座に否定しないところをみると、山代の想像が当っていないものでもなかった。  日劇の前でくるまを棄てると、三人は日比谷の交叉点の方へ向って歩いて行ったが、ガードの傍を曲って、表通りから外れたところにある一軒の明るいレストランヘはいった。画廊から遠くないところにあるレストランなので、山代はあるいはここへ自分はよく来ていたのかも知れないと思った。そう思って、あたりを注意して見廻したが、勿論どこにも思い当るところはなかった。  白い清潔なテーブル・クロースが、七、八つある卓を覆っており、三組程の客が中央に近い卓を占領していた。一組は外人だった。 「こちらでお礼のご馳走しなければならぬのに反対ですね」  山代が言うと、 「いや、こちらはこちらで、やはりお礼をしなければなりません。いろいろ勉強させて貰っていますからね」  佐沼は言った。 「高崎君はお蔭で論文がまとまるかも知れませんよ。つかさ女史の応援を得て、いろいろな材料を時々頂戴していますから」 「どんな材料です」 「あらゆることに関しての報告です。こちらとしては山代さんにもう少し病院に居て戴きたかったんですが、そうも行きませんでした。でも、つかさ女史が貴方についていてくれるので、こちらとしては貴方のところへ、ひとり助手を派遣しているようなもので、高崎君は、そうしたつかさ女史の協力を多少過大に評価しているようなところはありますが」  話の中につかさのことが出て来たので、山代はまた気持が重くなるのを感じた。 「過大になど評価していませんよ」  高崎が抗議した。 「いや、やってくれたことを過大に評価したと言うんじゃない。彼女の気持の方を、どうも過大に評価する傾向があるんじゃないかと言ったんだ」  佐沼は笑った。高崎の方は照れた顔をして黙っていた。 「過大に評価するというのは、勝手に都合のいいように解釈しているということなんでしょう。そんなことはありませんよ」  高崎は含羞んでいる表情で言った。 「ずいぶん自信があるんだね。心臓だよ」  佐沼は笑いながら、 「どう思います、山代さん」  と、山代の方へ言葉を向けて来た。 「どうと言いますと?」  山代はそんな言い方をして、そこへ注文を取りに来た白服のボーイの手からメニューを受け取った。 「何でもお好きなのを選んで下さい」  佐沼が言った。 「生の牡蠣《かき》を貰いましょう」  山代は言った。 「生の牡蠣ね」  佐沼もメニューを覗いていたが、ふと気付いたように、 「それ、お好きですか」 「好きだと思うんです」 「大阪時代からですか」 「さあ」  山代は大阪で生の牡蠣を食べたことがあったかどうか思い出そうとした。が、特に大阪で食べたという記憶はなかった。 「食べたと思うんですが、よくは覚えていません」  山代はここで、急に自分だけの世界へ落ち込んで行った。いま生の牡蠣を自分は注文したが、一体、これはどうして食べるのであろう。注文する時は、何の疑問もなかった。生で食べることができるということと、しかもそれが美味いということを知っていた。しかし、それを曾てどこで食べたかということになると、全く記憶になかった。 「好きですか」  佐沼の質問の口調はいつか訊問のそれになっていた。 「好きです。好きだと思うんです」 「思うって、変ですね。自分のことでしょう。いままで生の牡蠣は何回ぐらい食べました?」 「さあ」 「十回ぐらい? 二十回? もっと多い?」 「判らんです。いつどこで食べたか判らん」 「ほう」  佐沼は言って、 「生の牡蠣はどうして持って来ます?」 「さあ」  山代はまた考えてから、 「殻ごと皿の上に載せて来ると思うんですが、これは自分が実際そうした牡蠣を食べたのか、料理屋でよその卓へ運ばれて来るのを見たのか、その点はっきりしません。しかし、味は覚えています。いま、はっきり思い出しました。僕の舌はちゃんとそれを覚えています」  山代は言った。山代は実際に生牡蠣の味を、この時われとわが舌に思い出したのであった。  山代は生の牡蠣を舌の上に載せた時の感触を、はっきりと思い出していた。牡蠣の柔かい肉の上に滴《したた》らすレモンの味も匂いも、また同時に思い出していた。 「確かに食べたことがあります。味をよく知っています。いま、こうしていても、それを思い出すことができます」  山代は言った。 「味は覚えている。しかし、いつどこで食べたかということは判りませんか」  佐沼は、少し身を乗り出すようにして訊いた。 「判りません」 「ほう」  それから、 「何も急がなくてもいいですから、落着いて、ゆっくり考えてごらんなさい」  佐沼は言った。佐沼から言われたように、山代は心を落着けて、いつどこで牡蠣を食べたかを思い出そうとした。しかし、思い出すにしても、全く思い出す手がかりというものがなかった。 「判りませんね」 「いや、そのうちに判りますよ。生牡蠣の味を思い出したんだから食べたことのあるのは事実です。恐らく上京してから食べたんでしょうね」 「そうだと思いますね。大阪時代に食べたのなら、忘れている筈はないと思います」 「ひとつ思い出してごらんなさい。失くなっている過去から、一つの事実を、自分の力で引張り出してごらんなさい」  佐沼は言った。 「そううまく行きますか、どうか」  山代は苦笑して言った。佐沼の勧め方も変だったが、それに応じて、そのように為そうとする自分の態度も変であった。問題の牡蠣が運ばれて来た。 「見覚えありますか」  こんどは高崎が訊いた。 「あるような、ないような」  実際、その点はっきりしていなかった。 「食べてごらんなさい」  言われるままに、山代は生牡蠣の上にレモンの汁を滴らせ、そしてその一つを口に運んだ。 「まさしく、これですよ」 「同じですか」 「同じです。僕は好きです、これは」  山代が言うと、 「思い出す仕事はあとのこととして、どうぞ、まあ、上がって下さい。僕も食べる」  佐沼は笑いながら言った。 「ゴルフの場合と同じですね。体だけはクラブの振り方を覚えていた。牡蠣も、味だけは覚えている。記憶から失われていないわけですね」  高崎は感心したように言った。山代は憎しみの感情もあるいは同様かも知れないと思った。額縁屋の主人に対する厭だという気持は、過去に於いて彼の心に住んでいたものに違いなかった。  洪水の時、人家も田圃もことごとく水中に没してしまい、ただところどころに樹木だけがその頭を水面から現わしているという風景にぶつかるが、山代は自分の頭の中の風景を、そのような荒涼としたものとして眼に浮かべていた。  ゴルフのクラブの振り方、牡蠣の味、ある人物に対する漠然とした嫌厭《けんえん》の感情、そうしたものは、水面から顔を出している樹木の頭であった。その樹木がいかなるところに生えているかは全く判らなかった。小高い丘の上であるか、堤の上であるか、人家の庭であるか、全く見当は付かない。なぜそうしたものだけが残っているかということも判らないが、この方は佐沼や高崎の領分である。 「さっき額縁屋の主人に最初会った時厭なものを感じたと言いましたが、好きだという気持でも、そういうことはありましたか」  高崎が訊いた。 「好きだという気持では、まだそうした経験は持っていません」  山代が答えると、 「以前に、つまり記憶を失う前に山代さんが好きだった人を探し、その人と山代さんが会ってみないことには、それは判らないね」  佐沼が高崎の方に言った。 「じゃ、そういう人を探しますか。しかし、それを探し出すことは大変だな」  高崎は言った。山代は高崎が冗談を言っているのかと思って高崎の方へ眼を遣ったが、高崎の顔は大真面目であった。山代は、ふいに何か不快なものを感じた。高崎はそんな相手をどこからか探し出して来かねない気がした。  山代は八束陽子について、二つの記憶の欠片を取り戻していた。一つは海岸で愛の告白をした記憶であり、一つは百日紅の咲いている庭で、縁側に腰を降ろしている彼女を見守っている記憶であった。しかし、その二つの記憶の欠片から、自分が相手を慕っている生の気持は感じられなかった。愛の告白をした夜のことは、過ぎ去った日の思い出のようなもので、その時の山代は紛れもなく相手に恋愛感情を懐いていたが、そうした気持が現在の山代の心になお生きているかとなると、それは違った問題だった。  額縁屋の主人に対して、山代は会った瞬間何とも言えず厭なものを感じたが、その厭な気持はまさしく現在の山代の心の中に生きているものであった。八束陽子の場合を、それと同じように考えることはできなかった。ただ八束陽子と実際顔を合わせた時、どのような気持を自分が持つか、それはその時になってみないと判らない問題だった。  山代はこうした話題にある不快さと不安を感じたが、そうしたことの底には、つかさという一人の女性が坐っていることは言うまでもなかった。  山代には、記憶喪失前の愛人をどこからか探して来ようという高崎の言葉は、一種の脅迫《きようはく》ででもあるかのように感じられた。山代自身、つかさと特殊な関係を持ってから、そうしたことに不安なものを感じており、関西へでも居を移して仕舞いたいとさえ思ったくらいであるから、高崎の言葉はひどく意地悪く思われた。  高崎は半分は冗談、半分は若い学徒として実際そういうことにでもなれば面白いといった気持を、あけすけに口に出したまでのことだったが、それが山代には強く響いていた。冗談にしろ、そんなことは言って貰いたくないといった気持だった。  生牡蠣を食べ、それから肉の料理を食べた。話は、生牡蠣のために一度|跡切《とぎ》れた高崎のつかさに対する気持のことに戻って行った。 「山代さんに、一度話しておく方がいいのではないのかな」  佐沼はこんどはからかいの口調でなく、真面目に高崎に言った。 「何をですか」  高崎の方は恍《とぼ》けていた。が、それには構わず、 「山代さんが彼女のことは一番よく知っているんだし、山代さんから彼女の気持を打診して貰ってもいいじゃないか」  佐沼は言った。  この時になって、山代は、二人に食事を誘われたことの中には、この問題も含まれていたのかと思った。それにしても、山代としては迷惑至極なことと言うほかはなかった。高崎にはずいぶん世話になって来ていたし、現在も将来も世話になるに違いなかったので、どんなことでも彼のためなら骨身を惜しまない気持だったが、つかさに関する問題ではいかんとも為し難かった。山代は、佐沼が話していることが理解できぬような振りをして黙っていた。 「どう思います。山代さん」  佐沼は、こんどははっきりと山代の方へ話しかけて来た。 「やめて下さいよ」  高崎は照れていた。 「いいじゃないか。別段、名誉に関する問題でもないんだから」  佐沼は高崎の方に言ってから、 「高崎君はつかさ嬢と結婚してもいいという意志を持っているらしいです。勿論一方的な意志で、いくら結婚してもいいと言っても肝心のつかさ嬢にその気がなければ始まらんことですが、山代さんはこのことをどう考えます」 「さあ」  山代が返事に困っていると、 「僕は真面目に考えて、なかなかいい組合せではないかと思うんですがね」  佐沼は言った。  山代は、高崎も独身であるなら、自分もまた独身であると思った。つかさという女性を結婚の対象として考える場合、高崎にもつかさを選ぶ権利があると同様、自分にもまたそれがあると思った。  しかし、佐沼も高崎も、初めから山代を問題にしていなかった。そうしたことの埓外《らちがい》に置いていた。山代は、佐沼と高崎の二人が自分を依然として結婚の資格のない病人と見做しているのを感じていた。甚だ迷惑なことと言うほかはない。  山代は、自分とつかさの関係を、いつか二人にそれとなく感じとって貰うより仕方ないと思った。山代には自分の口から、そうしたことを二人に披露する勇気はなかった。山代が黙っていたので、佐沼もそれ以上高崎とつかさの問題については語らなかった。  三人は二時間程の時間を、そのレストランで過して、そこを出た。店を一歩出て、山代は舗道を流れている人波に眼を当てた時、ふいに、  ——ああ、もう銀座の秋も深くなるな。  という思いを持った。その思いには、ずしりと重いような、ある手応えがあった。数寄屋橋から銀座へかけてのネオンサインの点滅が、急に生き生きとした色彩と動きで見えた。  ——ああ、何か変った!  山代は思った。何が変ったか判らないが、何か変ったことだけは確かであった。山代はその変ったという思いを持ったまま、佐沼と高崎の間に挾まれて、数寄屋橋の方へ歩いて行った。 「すぐ帰りますか、それとも銀座でも歩いてみますか。僕はこんなところはめったに歩かないんで、歩くのなら歩いてもいいですよ」  佐沼は言った。 「西銀座を歩いて新橋から電車に乗りましょうか」  山代は言った。そしてまた、自分が口から出した言葉に、はっきりと実感の裏付けのある重さを感じた。何か変っている! 何かが違っている!  山代は立ち停まり、辺りを見廻した。人も、建物も、夥しい数のくるまも、ネオンサインも、濡れたような光沢を持って眼に映っている。  ——本屋がある筈だ。  山代は次の瞬間、本屋の店名を書いたネオンの広告文字を発見した。 「どうかしましたか」  佐沼が戻って来て声を掛けた。 「いや」  山代は言ったが、すぐ、 「ここは数寄屋橋ですよ。まさしく数寄屋橋ですよ。いま、それが判りました」  そう震える声で言った。 「判った?」 「ええ、いま、私たちは数寄屋橋から銀座四丁目の方へ歩いていますね。それが判りました」  山代は立ち停まったままで言った。  佐沼は山代の顔を見守っていたが、 「よし、どこか喫茶店へでもはいりましょう。どんなに銀座というところが判ったか、それを忘れないうちに聞きましょう」  と言った。 「そりゃあ、大事件だ」  と高崎も言って、 「あそこへでもはいりましょうか」  と、果物《くだもの》屋の二階の方を眼で示した。硝子越しに、明るい店の内部が見え、小さい卓に向い合って腰掛けている男女の姿が見えている。山代には、二階に喫茶店を持つ果物屋があったことが、すぐ思い出されて来た。練歯磨をチューブからしぼり出すような充実感であった。 「歩きたいんです」  山代は言った。喫茶店へなどはいったら、自分の脳の働きはまた停まってしまうかも知れぬと思った。 「歩きたい?」 「ええ、一人にして下さい」  山代は、佐沼と高崎の顔を見廻すようにしていたが、もう一度、 「一人で歩きたいんです」  と言った。それは懇願であった。山代は心から一人になりたかった。そして一人で歩きたかった。どこまでも歩いて行きたかった。次々に自分の歩いて行く場所の記憶は蘇って来るかも知れない。薄い紙でもめくって行くように、自分が歩いて行く道の両側は、死んだ情景から次々に生きた情景へと変って行く。  山代は、自分の五官からまだ消えていない充実感を抱きしめていた。いままでにも二、三回この辺を歩いたことはあったが、その時といまとではまるで違っていた。いまや、歩いている人々はみな生きており、立ち並んでいる商店もみな生きていた。それぞれがみな一つ一つの生活と意味とを持って、そこにあった。 「じゃ、一人でいらっしゃい。その方がいいかも知れない。明朝でもアパートの方へお伺いすることにしましょう」  佐沼は言った。が、高崎の方は、 「邪魔はしませんから、ついていてはいけませんか」  そんなことを言った。 「いや、やはり一人にしておいて上げた方がいいよ、君」  佐沼は高崎に言うと、腫《は》れものでも怖れるように、すぐ山代のところから離れて行った。高崎はちょっとためらっていたが、やがて彼もまた、佐沼のあとを追って行った。  山代は自分が一人になったことを知ると、半ば恐ろしい気持で歩き出した。佐沼と高崎とに邪魔をされている間に、折角動き出した脳の機能はまた停止してしまったのではないか、という不安があった。  山代は自分が銀座四丁目の交叉点を渡り、まっ直ぐに歌舞伎座の方へ歩いているのを知った。このまま歩いて行けば左側に歌舞伎座の建物がある筈である。山代は思わず足の早くなるのが判った。山代にとって、いま自分が歩いている道は明らかに初めての道ではなかった。曾て何回も何回も歩いた道であり、何回も何回も歩いたことからもたらされた親近感と安心感があった。それは久しぶりで知った道を歩く楽しさであった。  山代が予想したように、ちゃんと歌舞伎座の建物はあった。山代はその前に立って、旧知の友に会ったような親しさで、周囲の建築様式とはそれ一つ違っている日本独特の芝居小屋の建物を見上げた。が、山代は間もなく再び歩き出した。歌舞伎座の建物を過ぎると、あとは思い出すことのできる建物はなかった。この道をこのまま歩いて行ったらどこへ出るのであろうか。山代はまたもや次第に自分の心に漲って来る不安な思いと闘いながら、なおも歩いて行った。  山代は少し行っては立ち停まると、その度に辺《あた》りを見廻した。特に思い出す建物も、特に思い出す店舗もなかった。山代は引き返すことにした。歌舞伎座を過ぎる辺りから、記憶がぷっつりと切れてしまったとは思いたくなかった。もともと自分は歌舞伎座から先きへ歩いて行くことはめったになかったに違いない。それだから、街になじみが少いのである。  山代は再び銀座の交叉点を越すと、こんどは逆に日比谷の方へ歩いて行ってみることにした。ここをまっ直ぐに歩いて行けばNビルがあり、更に行けば急に通りの賑わいは薄らいで、日比谷の交叉点へ出るだろう。その向うには皇居の濠《ほり》が横たわっている筈である。  山代は安心して歩き出した。歩いて行く道は紛れもなく彼の知っている道であった。銀座の表通りとは違った街のたたずまいも、彼にはまた親しいものであった。そうだ、この道は自分が何回か算えきれぬほど歩いた道である。とうとうお前たちは、俺のところへやって来た。よく忘れないで、やって来てくれたものである。  山代はそれができるなら、道に沿った店舗の一軒一軒に立ち寄って、  ——よう、暫くだったね。みんな元気ですか。  そんな挨拶の言葉を振り撒いて行きたいくらいだった。  確かにNビルはあった。山代はビルの中央の入口の前で立ち停まって、しげしげとビルの大きな図体を見上げた。地上から三、四階のところまでははっきりと夥しい数の窓を認めることができた。しかし、そこから上は燈火が当てられていないので、単なる黒っぽい大きな壁としか見えなかった。  山代は満足してビルに沿って歩き出した。  Nビルを過ぎると、そこが日比谷の交叉点である。山代は立ち停まって、その附近一帯を見廻した。濠もある、石垣もあると思った。  うしろを振り返って、いま自分が歩いて来た銀座の方へ眼を遣ると、眩しいほどネオンサインが到るところでまたたいている。灯の海である。その灯の海もまた、山代には親しいものであった。異国の街の夜景ではなかった。まさしく彼がよく知っている東京の街の夜景にほかならなかった。  山代は交叉点を渡って、向う側へ出、そこから再び銀座の方へ引返そうと思った。いままで歩いて来た道と車道ひとつ隔てて平行に走っている道を、こんどは逆に歩いてみようというわけである。山代は再び銀座の四丁目まで戻ったら、そこから新橋の方へ折れ、久しく来なかった新橋の駅附近を歩いてみようと思った。山代は頭の中でそんな予定を立てていた。そして新橋へ出たら、そこからまた次々に旧知の街々を訪問しなければならぬ。  山代は、今夜自分は足が棒になるほど歩き廻るだろうと思った。自分が生きているという実感があった。これに較べれば、きのうまでの自分は、同じ東京の街を歩いていたにしても、それは未知の国を、ただふらふらとさまよい歩いていたのに過ぎない。  いま、自分は自分が足をつけて歩く地面を取り返したのである。大地を取り戻したのである。何という快い安定感であろう。山代はゆっくりと足を運んでいた。ゆっくりと歩くと、ゆっくり歩くこともまた楽しかった。  丁度、山代がさっき立ち停まったNビルの中央口の向い側辺りと思われるところまで来た時、山代はふいに右に曲りたい衝動を感じた。そうした衝動を感じるくらいだから、そこには右に折れ込んでいる路地があった。路地といっても、幾らでもくるまのはいることのできる道幅を持っており、実際に、そこへ吸い込まれて行くくるまもあった。  山代大五は足を停めた。いま俺はここを曲ろうと思った。確かに曲りたい衝動を感じた。なぜまっ直ぐに歩いて行かないで、ここを曲ろうとしたのか。この時、山代は突如電撃にでも見舞われたような思いに打たれた。凄く強烈な燭光に自分の身内がつんざかれるような思いだった。山代は自分の頭と体がまっ二つに分れて、その切り口がまざまざと自分の眼の前にひろがって見えたような気がした。  山代は、 「あっ!」  と低い叫びを上げた。と同時に、 「あ、そうだったか!」  と思った。そしてそれと同時に、山代は表通りから一歩横道へ踏み込んだ。そして大股に二、三歩足を運んだ。そして山代は、ふいに壁にでもぶつかったような気持で、そこに立ち停まった。  山代は立ち停まったまま、辺りを見廻した。俺はいまどこへ行こうとしていたのかと思った。つい一瞬前、自分は行先きと、そこへこれから自分が行こうとする意味を納得した筈であった。納得すると同時に、自分は行動を起したのである。表通りから路地へ曲った。そして目的とする場所へ突進しようとした。——と、二、三歩歩くか歩かないうちに、ふいに、すべては消えてしまったのである。  そのすべてが消え、何もなくなった時間の中に、山代大五は立っていた。一瞬前、いなずまのように自分の体をつらぬいたものは何であったのか。俺は確かにその瞬間何ものかを納得したのである。納得したればこそ、路地を曲ったのである。しかし、いまは再び総てを失ってしまった。  一瞬間だけのことではあるが、自分は明るい照明の中に立ったのである。その照明の中で、「ああ、そうだったのか」と思った。確かにそう思ったのである。一体、何が、�ああそうだったのか�であるか。  山代はもう一度、自分が路地を曲った意味を思い出そうとした。一瞬前にそれが判ったのであるから、それが判らぬ筈はないと思った。しかし、そうするための何の手がかりもなかった。山代は荒涼たる沙漠の中に立ちつくしていた。 「どうかしたのですか」  通行人に声を掛けられた。サラリーマン風の中年の男であった。 「いや」  山代はどぎまぎして答えた。 「どうもしなければいいんですが」  男はそのまま歩いて行った。山代は自分が道のまん中に突立っていることに気付いた。向うからくるまは近付きつつあった。  山代は路傍へと、自分が立っている場所を移すと、そこでまた突立っていた。思い出そうと思った。いま判ったのだから、判らぬ筈はないと思った。 「おっさん、何してるんだ?」  こんどは十一、二歳の少年に声を掛けられた。汚れた顔をしている少年である。着ているセーターの肩のところに大きな穴があいている。 「おっさん、よう! ようってば、よう!」  少年は、山代の外套に縋りつかんばかりにして言った。  山代は少年を押し除けるようにして、表通りへ向って歩き出した。そして表通りへ出ると、山代は銀座の方へ行こうと思った。さっき取り戻した街の記憶は依然として彼のものであった。日劇も、歌舞伎座も、N果物店も、H時計店も、S書店も、山代の頭へすぐ浮かんで来た。街に対する記憶を取り戻し、それを失っていないことで、山代は今夜のところ、満足すべきだと思った。  山代は銀座四丁目の交叉点へ出ると、そこを曲って銀座の表通りを歩き出した。さっき路地へ曲って、何のために曲ったか判らなくなった一事を除けば、あとは総て快調と言うべきであった。  山代は途中で西銀座の方へ曲った。そこには表通りとは異ったやや落着いた銀座らしい雰囲気が立ち籠めているが、それも山代の予想したものであった。洋品店、運動具店、酒場《バア》、洋服屋、そんな同じようなこぎれいな店が幾つも並んでいる。  山代は旧知の街を歩いていた。きのう来たところをいま歩いているといった気持はさすがになく、暫く御無沙汰していた自分のよく知っている街に足を踏み入れている感じだった。親しい感じはあったが、どこかに遠隔感があった。  山代は喉の渇《かわ》きを感じ、どこかで冷たいものを飲みたいと思った。山代はそうしたものを飲めそうな場所を探したが、喫茶店風のところはみんな戸を閉めていた。酒場とか料理店とかはまだ開いているが、喫茶店だけが申し合せたように店を閉めている。  山代は酒場へはいることにした。知らない店へはいって行くのは不安だったが、ビールぐらい飲ませて貰えるだろうと思った。山代は二、三軒店の構えを物色した上で、「朱江」という名の酒場の扉を押した。扉の向うが店になっていると思ったら、店ではなく細い通路になっていて、階下へ向う階段がついていた。  山代はためらったが、どうせはいりかけたものだからという気持で、思い切って階段を降りて行った。山代の降りて行く跫音《あしおと》で客が来たのを知ったのか、直ぐ突き当りの扉が開いて、二十歳ぐらいの若い女が顔を覗かせた。山代は足を停めた。 「いらっしゃいませ」  そんな声が下から上がって来たが、次の瞬間、山代は娘の顔が複雑な表情をして歪むのを見た。  山代は上から娘の顔を見て、何となくただごとでない気持がしていたが、果して、相手は階段の上にいる山代にとも、店の内部にともなく、大きな声を口から出した。 「山代さんよ。山代さんだわ」  山代には、その娘がいかにも必死に叫んでいるように見えた。  山代は、これはいかんと思った。山代は階段を上がり始めた。すると、 「山代さん、どうなさったの?」  若い女は言うと、いきなり扉の向うへ姿を消した。誰かを呼んで来るような、そんなその時の感じだった。  山代は階段を駆け上がると、扉を押して、街路へ出た。扉から外へ出る時、山代は自分を呼ぶ声を背に聞いた。山代はともかく、どこかに匿れなければならぬと思った。  山代は街路の右や左を見廻したが、どこへ身を匿すという場所も見当らなかった。一番早い逃れ方は、五、六軒先きの路地を大急ぎで曲ることぐらいであった。山代はすぐその路地を曲るために、右へ向って歩き出した。 「山代さん!」  うしろで声がした。さっきの若い女の声とは違うようである。  山代は聞えない振りを装って、なおも歩いて行った。路地を曲る時、山代はもう一度自分を呼ぶ声を耳にした。 「山代さん!」  それはすぐうしろで聞えた。女は山代のすぐあとへ駆け寄って来たものらしかった。 「なぜお逃げになるの?」  その声で、山代は初めて背後を振り向いた。全く記憶にない女であった。 「一体、どうしていらしったんです?」  三十歳ぐらいの和服の女で、下ぶくれの顔をしている。いま行きかけた酒場のマダムなのであろう。 「病気だった」  山代は答えた。 「逃げたりして水臭いわ。とにかく、お店へ寄って下さい」  それから、 「一度はいりかけたんでしょう。それを、どうして逃げ出したんです」 「びっくりしたんだ」 「どうして」 「知らない店へはいろうとして、いきなり声をかけられたんで」  女は、この時、山代の顔に眼を当て、それからしげしげと見守っていたが、 「もう寒いですわね。お帰りになります? では——」  そんなことを言って、ひとつ頭を下げると、直ぐ山代の方へ背を向けた。山代を追いかけて来たが、どうやら触らぬ方が無難らしいと考えたものらしかった。 「ちょっと」  こんどは山代の方が声を掛けた。女は足を停めて振り返ったが、逃げ腰であった。 「僕は病気で記憶を失ったんです」 「そのこと、どなたからか、お聞きしました」 「一体、僕は貴女のお店へよく行っていたんですか」  その山代の質問には答えないで、 「でも、変ですわ。いま、お店へいらっしゃるおつもりだったんでしょう」  女は言った。 「全く偶然なんです。どこでもいいから、冷たいものを飲ませて貰おうと思って、それではいって行った」 「そんなことってあるかしら」  女は多少非難めいた言い方をした。 「いや、本当だ」 「——何か、騙されているみたい。山代さん、承知の上でお芝居してるんじゃない?」  女は、この時、どういうものか急に親しげな眼をして、山代に見入った。 「芝居!? とんでもない」  山代は言うと、 「何もかも忘れたんですよ。しかし、もう少し経ったら思い出すかも知れない」 「厭あね」  女は言った。 「忘れるんなら、きれいさっぱりと忘れてしまって、思い出さない方がいいわ」 「思い出したらいけないようなことが、僕にありますか」  山代は真顔で訊いた。女の言い方に何か含みがあるようで無気味だった。 「いいえ、そんなことありません。何もありません。でも、何事も忘れてしまうんなら、二度と思い出さないような忘れ方の方がいいでしょう」  そう言ってから、 「追いかけて来て申し訳ありません。本当に記憶を失くしていらっしゃるんですわね。——どうぞ、お大事になさって下さい。もう前みたいに、お酒を沢山召し上がらない方がいいですわ。きっと、お酒のためですわよ」  女は帰って行こうとした。 「前には、そんなに沢山飲みましたか」 「そんなこともお忘れになってますの?」  女はさも呆れたといった大袈裟な表情をして、 「まあ、沢山飲んだ方でしょうね。それにはしごでしたから、上がる時はずいぶん上がっていたと思います。——お酒のためですわよ。それに違いありません」  それから、女はもう一度�どうぞ、お大事に�と言って、こんどもまた小走りで店の方へ引き返して行った。  山代は女から自分がはしごだったと聞いたので、他の酒場へはいって行く気持は失っていた。  山代は新橋駅まで歩いて行き、そこからタクシーに乗った。くるまが動き出すと、間もなく山代はくるまがどの方向へ向っているか判らなくなった。  新橋から多摩川河畔の自分のアパートヘ行くには、大体どのあたりを通って行けばいいか、そのことを考えてみようとした。しかし、かいもく見当が付かなかった。山代は土地に対する記憶を取り戻したといっても、それが銀座附近に限られていることであり、しかも、人間にも、自分がそこで経験した事件にも結び付いていないことを知らないわけには行かなかった。  山代はこの頃になってから、烈しい疲労に襲われた。運転手に行先きを告げてから、 「眠るかも知れないから、着いたら起して下さい」  山代は言った。 「どうぞ」  それから、 「断ってお寝みになるお客さんは珍しいですよ」  運転手はそう言って笑った。  ぬ け が ら  翌日、山代はいつになく遅くまで眠った。眼を覚したのは十二時近い時刻であった。きのう一日、余りいろいろなことを一度に経験したので、身も心も疲れきってしまった恰好であった。  眼覚めた瞬間、山代は全身の節々に軽い痛みを感じた。学生時代登山したあとで、これと同じような痛みを感じたことがあったが、それ以外ではこのようなことはなかった。頭は軽かった。きのう一日のことが、すぐ思い返された。佐沼と高崎と連れ立って病院に行ったこと、そこで前に親しかったという洗濯屋夫婦に会ったこと、次に額縁やカンバスを商売にしている男に会ったこと、この男の場合はひと目見た瞬間から相手に厭なものを感じたが、この厭な感じは記憶を失わない以前に、自分が相手に対して懐いていたものであったと思われること。  それから佐沼、高崎と一緒に、レストランに行き、生牡蠣を食べた。生牡蠣の味だけを覚えていて、殆ど無意識にそれを注文したが、実際はそれを食べた記憶は持っていなかったこと。それから街を歩いた。街を歩いている時、ふいに街に対する記憶を取り戻した。街が急に生き生きとして感じられ、そこを歩いている自分もまた生きているという実感があった。これは実に素晴らしいことであった。退院してから初めて、自分は生きている人間として街を歩いたような気がしたこと。  しかし、街のことを思い出したと言っても、正真正銘街だけのことである。街のたたずまいとか、その街の持っている雰囲気はよく判るが、しかし、人間や事件は一切そこから切り離されている。誰とそこを歩いたかも覚えていないし、そこを歩きながらいかなることがあったかも、そうしたことは一切判らないままである。だから、喉の渇きを覚えて、行きずりの酒場《バア》へはいろうとしたが、声をかけられて逃げ出してしまったのである。銀座という街は思い出しているのであるが、そこにある酒場も、酒場の女たちのことも、全く思い出せないのである。  街を歩いている時、ふいにある曲り角を曲りたくなった。どうしてここを曲りたいのだろう、そう思った瞬間、ふいに明るい照明でも当てられたように、一切が判明した。ああ、そうだったか、と思った。そう思って曲り角を曲った。それで照明は消えた。判った! というその思いだけが残されて、あとは全部失くなってしまったのである。  山代は自分の頭の状態が、活動を開始せんとしている休火山のようなものに思われた。いつ大爆発があるか判らないような、そんな状態である。大爆発を予想せしめるような、小さな徴候を幾つか算えることができる。もし大爆発があって、記憶を全部取り戻したら、一体どういうことになるか。山代は寝台に仰向けになったまま、そのことを考えた。いまの自分が全く知らない山代大五が突然現われて、いきなり自分を鷲掴みにし、彼は自分こそ前身であることを主張して、現在の自分の主導権を握るかも知れない。いや握るに違いないのである。  山代は、いま記憶喪失以前の自分を、恰も現在の自分とは異った別個の人間として、冷たく突き放して考えていた。こうしたことは初めてのことであった。  これまでに、このように自分の前身を敵視して考えたことはなかったが、いつ記憶が回復しないとも限らないと思い始めると、急に記憶喪失前の自分が、油断のならぬ気心の許せぬ人物として思い浮かんで来たのであった。記憶を回復するや否や、総てはその人物に取って代られそうな気がする。  なんと厭な奴だろう。ぺてん師め! 女たらしめ! 酒飲みめ!  山代は、これまでに自分を取り巻く過去の亡霊たちを無気味に思い、その連中の眼の届かないところで生活することを考えたり、そのことをつかさに話したりしたことはあったが、しかし、考えてみると、一番厄介なのは、過去の亡霊たちではなく、自分自身の前身であった。記憶喪失前の自分であった。  記憶回復と同時に、彼は土足で現在の自分の内部へはいり込んで来るだろう。そしてまごまごしていると、現在の自分は忽ちにして食い荒され、骨までしゃぶられて叩き出されてしまうだろう。現在の自分というものは影も形もなくなりかねないのだ。 「まだ寝んでいらっしゃいますの」  そういうつかさの声で、山代はわれに返った。 「いつ来たんですか」 「いま」  つかさは言って近寄って来た。山代には、急につかさが無力な哀れな存在に見えた。現在の自分と関係を持っているこの女性は、記憶喪失前の自分が息を吹き返すや否や、現在の自分と同様に、忽ちにして叩き出される運命を持っていないとも限らないのである。 「何を深刻な顔していらっしゃるんです?」  つかさは訊いた。 「近く全面的に記憶を回復しないとも限らない。どうも、そんな気がするんです」 「結構じゃありませんか。でも、急にどうしてそんな気になったんでしょう」 「きのう一日、あまりいろいろなことがあったからですよ」 「いろんなことって?」 「佐沼先生たちと街へ出たんです」 「そのことは伺いました。先生から」  つかさは言って、 「途中で先生たちと別れて、一人におなりになったんですってね」 「そう」 「お一人になってから、何かありまして?」 「一瞬だけですが、ぱあっと、すべての記憶を回復したのじゃないかと思うような瞬間があった」 「まあ」  さすがに、つかさも顔を緊張させた。  山代は日比谷の交叉点から程遠からぬところで、自分が経験した小さい事件をつかさに話した。 「では、その一瞬間は、すべての記憶が回復したのでしょうか」  つかさは訊いた。 「さあ、何とも言えないが、そうではないかと思う。あらしの夜に、稲妻の光で一瞬ぱあっと明るくなり、木も、草も、石も、家も、その姿をはっきりさせることがあるでしょう、丁度あんな感じだった。何もかもが、その瞬間はっきりと自分に判ったような気がした」  山代が言うと、 「何もかもって?」  と、つかさは訊いた。 「そう几帳面に問い詰められると困るが、ともかく、そんな気がした。あるいは、判ったのは、その路地を曲るということの意味だけだったかも知れない。が、しかし、それにしても、ひどく大きい拡がりをもった展望を自分のものとしたような気がした」  山代としても、こういう言い方しかできなかった。自分に判っていることは、あの瞬間自分が何ものかを理解し、その理解の上に立って、いきなり路地を曲ろうとしたということだけなのである。 「変ですわね」  つかさは考え深げな顔をして言った。 「どうして路地を曲ったんでしょう」 「さあ。その時は判っていたが、いまは判らない」 「それにしても、記憶の全部、あるいは一部が回復した時、いきなり路地を曲ったということは、もう一度同じ状態が起ったら、やはりまた路地を曲るということでしょうか」 「————」 「もしそうだとすると、失われた記憶の中に、山代さんがその路地を曲らなければならぬ何ものかが、言い方を替えれば、山代さんにその路地を曲らせるような原因が、いまもそのまま横たわっているということになりますわ」  つかさは言った。 「————」  山代は黙っていた。 「だって、そうでしょう。山代さんはいきなり曲ったんですもの。曲って何かをしようとした。山代さんにそうさせるものが、眠っている記憶の中にあったということでしょう」 「うん」 「何でしょう、それ」  つかさは山代の顔を見詰めるようにして言った。 「さあね」  山代はつかさの顔を見守っていた。つかさが何を言おうとしているか見当が付かなかった。 「たとえば、その路地の奥にお金でも埋めてあるのなら、記憶を取り返すと同時にそこへ掘りに行くでしょう」 「まるでお伽《とぎ》噺だね」 「たとえて言えば、そうしたことになるでしょう」  つかさは言った。 「今日、もう一度、日比谷の交叉点の近くのその路地へ行ってみませんか。あるいは今日、改めて思い出すかも知れませんわ」  つかさは言った。そしてつかさはそのことを思い立つと、自分のその思いつきを頻《しき》りに実行に移したがった。 「行ってみましょうよ。ね、そうしたら、きっと思い出すと思うわ。きのう思い出しかけたんですもの」 「うん」  山代は言ったが、あまり気持ははっきりしなかった。思い出したい気持と、それを怖れる気持が依然として山代を支配していた。  しかし、結局山代はつかさの勧めに応じた。午後、二人は銀座へ出、それから山代がきのう佐沼と高崎と別れてから一人で歩いた同じコースを、山代はつかさと二人で歩いた。  陽気がいいためか、舗道には大勢の男女が出歩いていた。山代とつかさは並んでゆっくりと歩いて行った。よそ目にはのんびりと散歩しているアベックに見えたに違いなかったが、二人は誰にも想像のつかない用事を持っていた。  きのうと同じように、山代はNビルの前を通って、日比谷の交叉点のところで向う側の道に渡り、そこをまた数寄屋橋の方へ向って歩いて行った。 「路地というのは、次の路地なんだが」  山代が言うと、 「わたくしのことは構わず、何もお話しにならず、黙って歩いてごらんなさい」  つかさは言った。 「難しいよ。二人で歩いているんだから、なかなか一人で歩いている気持になれないよ」  山代は言った。やがて、問題の路地への曲り角のところに来ると、 「ここだ」  山代はつかさの方を見た。つかさはちょっと立ち停まって、辺りを見廻して、 「思い出しません?」 「思い出さん」 「曲ってみましょうか」 「うん」  二人はそこを曲った。そして劇場のある辺りまで行って、 「別に何事も起らんね」  山代は笑って言った。 「それにしても、一体、どこへいらっしゃろうとしたんでしょうか」 「映画でも見るつもりだったかも知れない」  山代は半ば冗談に言った。 「厭ですわ、そんな」  つかさも笑った。この時、山代は向い側のビルの前で自分のくるまを待っているらしい老紳士風の人物にふと眼を遣って、おや、あの人物は知っていると思った。 「僕はあの人を知っている」  山代はつかさに言った。 「どの方?」  つかさは足を停めて、山代が眼で示す方を見た。山代は、老紳士の前にくるまがすべって来たのを知ると、相手がくるまに乗り込まないうちにという気持で、すぐ相手の方へ足早やに歩き出した。 「もし」  山代は相手に声を掛けた。相手は運転手がくるまの扉を開けるのを傲然と構えて待っていたが、山代の方を振り向くと、ちらっと表情を動かした。が、すぐまた無表情の顔にかえると、 「何ですかな」  と、ゆっくりと言った。山代は名乗らなくても、すぐ相手が何とか自分に話しかけて来るものとばかり思っていたので、相手の態度はひどく意外であった。 「あの、山代ですが」  山代は名乗ったが、それでも、相手の表情は少しも変らなかった。 「山代さんとおっしゃるんですか、ほう!」  そして、相手は山代が次に言い出す言葉を待っている風であった。山代は相手が自分のことを完全に忘れていることに驚いた。 「あの、確か絵のことで——」 「絵!? 絵なんて知らん」  老人は考えている風だったが、やがて右手を大きく振ると、 「人違いでしょう。貴方は何か勘違いしておられる」 「いや、そんなことはないと思います。確かに貴方とは——」 「覚えていませんな」  それから老人は運転手に扉を開けるようにめくばせした。山代は相手にこのまま逃げられるのは心外だと思った。自分はこの人物を知っている。しかもよく知っている。  山代は失われた過去の中から、この老人が自分とかなり親しい関係にあったということを、はっきりと想起している。ただこの老人の名前が何というのであるか、そしてまたこの老人と会った場所がどこであるか、そのことは判らないだけの話なのだ。 「失礼ですが、お名前は何とおっしゃいますか」  山代は訊いた。本来なら、貴方は何々さんでしょうという訊き方をすべきであるが、相手の名前が判らないので、そういう訊き方はできなかった。 「名前って、わたしの名前ですか。貴方は、わたしの名前を知らんのですか」 「はあ」 「そりゃ、おかしい。こっちの名前も知らんでおいて——」  老人は言った。 「知っているというのなら、相手の名前ぐらい知っていそうなものじゃないか」  老紳士は言った。山代は相手の顔を見詰めていた。どうしてもこの人物だと思った。老人のくせにどことなくひと癖ありそうな眼付きをしているが、その眼付きも見覚えのあるものだし、幾らか猫背気味の背の屈め方も記憶にあるものである。しかし、こちらが相手の名前を記憶していないことは、何と言っても、山代には不利だった。強引に押しまくるわけには行かない。 「どうしても、貴方を存じ上げていると思うんですがね」  山代が言うと、 「冗談じゃない。——わたしは忙しいんだ」  相手は噛んで吐き棄てるような言い方をした。老人はすぐ運転手が扉を開けたくるまのなかにはいった。くるまはそのまま走り出して行った。  山代はくるまを見送りながら、どうしても納得できない気持であった。 「人違いじゃないんですか」  つかさが初めて口を開いた。 「いや、あの老人は知っている」 「でも、変ね、全然知らないというんでしょう」 「だから、訳が判らない」 「どこの誰かも判らないんですね」 「名前も判らないし、何をしている老人かも判らない。しかし、知っている」 「それなら、どうしてああいう態度をとったのでしょう。貴方を知っているという事実を、なかったことにしてしまいたいんでしょうか」 「そうとしか思えない」 「あの人は、ここから自家用車に乗ったんですから、用事でこの辺に来たか、あるいはこの近くに事務所でも持っているんですわ。調べたら、すぐ判ると思います。くるまのナンバーは控えておきました」  つかさは言って、 「それにしても、きのうこの路地を曲ったのは、いまの人に関係あることなんでしょうか」 「さあ」  山代にも勿論判る筈はなかった。二人は歩き出した。不可解な事件にはぶつかったが、つかさと一緒に静かな秋の陽射しの中を歩くことは、山代には気持よかった。いつになくのびやかな気持が足どりを軽くしている。  山代は、この二、三日、時々頭に浮かんで来た考えを、歩きながらつかさに話した。健康がすっかり回復し、生活して行く根拠となる仕事がはっきり決まってから、その上で二人の結婚を考えることが一番いいことは判っていたが、しかし、山代は先きに結婚し、生活を落着けた方が、現在の不安定な気持を整理できるのではないかと思った。過去の欠片が頭を出す度に、その幻影に怯《おび》えるような自分が、山代はすっかり厭になっていた。現在の自分が梃でも動かない確りした地盤の上に立っていたら、どのような過去が顔を覗かしてもそんなことには微動だにしない筈である。そのような場所に山代は自分を置きたかった。  健康が回復するのを待つといっても、既に正常人と変らぬ健康体を持っている。ただ三年間の過去を失っていることが違うだけである。それは回復するかも知れないし、永久に回復しないかも知れない。それから仕事が決まってから結婚する方がいいことは判っているが、しかし、それは何も根本的な問題ではない。  山代がこうした気持になった最も大きい原因は、過去の自分が無気味であるからであった。どうしても、過去の自分など受け付けないだけ、強力な現在の自分を作っておく必要があった。これは山代自身のためでもあり、またつかさのためでもあった。山代が結婚の話を持ち出すと、 「わたくしも、そのことは考えております」  と、つかさは言った。 「ただ、わたくしは結婚する前に、山代さんが過去に於て交渉のあった人たちに、一応お会いになって戴きたいと思います。お会いになっても、大部分の人を忘れていることとは思いますが、忘れているにしても、お会いになって戴きたいんです。その方がいいんじゃないですか」  山代には、つかさの言う意味がよく判らなかった。 「会った方がいいかな」 「わたくしは、会った方がいいと思います。八束陽子さんの場合も、やはりその方に一応お会いになって戴きたいんです。会っておいて、その上で記憶が回復するのと、会わないでいて、記憶が回復するのとでは、大変な違いがあります。会うということで、過去に一応終止符が打てると思いますわ。会わないでおいて、記憶が回復してから会ったとすると、その人との関係は暫く断ち切られていたというだけのことで、何も事情は変らないと思います。そうしたことが堪らなく不安でもあるし、厭なんです」  つかさは言った。 「記憶を失ってしまったから、それで問題はすべて解決したと考えることはできないと思いますわ。記憶を失ったということは、過去がなくなってしまったことですけど、厄介なことは、記憶が回復する場合もあるということです。詰まり、その場合はなくなった過去が、再び生き返って来るということです」 「そう」 「たとえば山代さんがある人からお金を借りていたとします。記憶を失っている場合は、相手の人もお金を取り返すことを諦める気になるかも知れませんわ。しかし、山代さんが記憶を取り戻したら、やはり貸借関係の清算を迫って来ると思います」 「そりゃ、当然そういうことになるだろうね」 「ですから、山代さんはやはりいまそのお金を借りた人に会っておいた方がいいと思います。そして、できることなら貸借関係を示談の形で解決しておくべきだと思います。実際に山代さんが記憶を失っているんですから、相手の人も、そう苛酷な態度には出ないでしょう。そういうことをしないでおいて、山代さんが記憶を回復したら、やはり相手の人はお金を取り立てるだろうと思います」 「そのことは僕も考えている」  山代は言った。 「いまのは、お金の場合ですけど、お金でない他の場合だって、同じことですわ。過去にもし女の人との関係があったのなら、そういう問題だって、同じことですわ」 「それは、そうだ」  山代は気難しい顔で言った。 「もし、そういうことがあったら——」 「ありますわ、きっと」 「あるかも知れん」 「かも知れないんじゃなくて、ありますわよ」 「そうつけつけ言われると困る」 「でも、このくらいに言いませんと」  つかさは笑った。 「だが、相手がいかなる人物で、いかなる関係か、肝心の僕が忘れているんだから」 「でも、わたくしには、大抵判っています。この間から調べ上げています。八束陽子さん、七浦敏子さん、そのほかいろいろな名前が捜査線上に浮かんで来ています」 「驚かさないで貰いたいね」 「いいえ、本当に調べてありますの。お月見の人の名前も判っていますし」 「————」 「あすから一人一人お会いになって下さい。記憶を取り返してから解決なさるより、記憶を失っている現在の方が、気持の上でもずっとらくですわ」 「うん」  唸るように山代が言うと、 「わたしが一人一人ご紹介しますわ。名前も所番地も、みんな判っているんですから」  つかさは冗談の口調で言っているが、実際に、つかさはそうしたことを調べ上げているだろうと、山代には思われた。 「驚いたね。ほんとに調べてあるの?」 「本当です。この間から、アパートの方へ伺わない時は、いつもその調べに当っておりました。とても忙しかったんです」 「何か新しいことでも判った?」 「いいえ」  はっきりと否定して、 「そんなことは何も判りません。調べようがありませんもの。ただアパートにある手紙に名前の出て来る人は大抵調べました。いま言いましたように、調べるといっても、その人の住んでいる場所を調べるぐらいのことですけど、一応全部住所は判りました。山代さんが、その方にお会いになって、その方とご自分との関係を、ご自分でおただしになったらいいと思います」 「うむ」  山代は唸るように言った。 「厭なことでも、それはおやりにならなければいけないと思います」 「よし、会ってみることにしよう」  山代は言った。つかさがお膳立てしたところへ、否応なしに坐らせられるような気持だった。しかし、つかさがこのようなことをしてくれなかったら、結局は自分は何もしないであろうと、山代は思った。山代が会うと言ったので、つかさは急に真面目になって、 「では、そのお仕事をあすから始めましょう。ご承知にならないかも知れないと思っていたんですが、よかったわ」  つかさは言った。 「そして、その上で、一緒に生活して戴きたいんです。わたくしも、こうしていると、結婚のお話があったり、いろいろのことがありますから」  その言い方には、幾らか言外に意味があるように感じられた。山代は、つかさが言った�いろいろのことがある�という言葉の中には、高崎のことも籠められてあるのではないかと思った。 「結婚の話があるの?」 「そりゃ、ありますわ、わたくしだって」  つかさは山代を見上げて言った。 「沢山?」 「ええ、でも、その方はいいんですけど。——ほかに、山代さんとのこと、はっきりしておいた方がいいと思うこともあります」 「高崎先生のこと?」  ずばりと山代が言うと、 「ええ、そのこともあります」  つかさは言った。そしてすぐその話題から離れるように、 「結婚のことなど、今日初めてお話しましたわね」  そうしんみりとした口調で言った。  結婚のことを二人で話したのは今日初めてだと、つかさから言われると、山代はさすがにつかさに対していままで悪いことをしていたような気持になった。つかさにとっては、山代と関係を持ったことは、自分の一生を支配する大きい事件に違いなかった。体の関係を持ったということは、女にとってはそれはそのまま結婚を意味することの筈であった。山代とて、それに気付かないことはなかったが、その後二人の間の話題に特に改めて結婚のことが持ち出されたことはなかった。改まって結婚のことを話し合うような空気が、二人の間には生まれて来なかった。山代は絶えず、過去の亡霊に脅かされ続けていたので、その方に気を取られ、結婚のことまでに気持は及んでいなかったのである。  それが今日初めて、どちらからともなく、結婚のことを話し出したのであった。つかさはずっと結婚のことを考えていたに違いなかったし、それへの下準備として、山代の失われた過去に登場して来る人物のことも調べていたのである。 「僕の考え方や、やっていることに、まだ正常でない、と言うより健康人とはどこか違うところがあるかしら」  山代は、自分自身を振り返ってみるようなつもりで、そんなことを言った。 「いいえ」  つかさははっきりと否定するように首を振って、 「そんなこと心配なさらなくて大丈夫。本当のことを言えば、記憶を失くさない以前より、現在の方がずっと正常だと思いますわ。以前には平気でいろんなことなさっていたと思います。とても大胆でした。昔の山代さんなら、わたしきっと結婚なんてしませんわ。いまの山代さんの方がずっと正常ですし、いまの山代さんの方が、わたくし較べものにならぬほど好きです」  つかさは言った。 「喉が渇いたな」 「どこか喫茶店へはいりましょうか」  二人は歩いて行って、洋菓子屋の二階にある喫茶店を見付けて、そこへはいった。窓際の席をとったので、窓から秋の陽射しが静かに落ちている街を見降ろすことができた。 「山代さんは、わたくしのことをどう思っているんでしょう」  つかさが突然そんなことを言った。つかさは窓の方へ顔を向けたので、その横顔しか見えなかったが、山代にはその横顔がいつになく真剣なものに感じられた。 「どうって?」  山代が訊き返すと、 「前から一度お訊きしようと思っていたんです」  つかさはそう言って、顔を山代の方へ向けた。 「山代さんは本当にわたくしに愛情を持っていて下さるんでしょうか」  つかさの訊き方は幾らか切り口上だった。 「変なことを訊くとお思いかも知れませんが、わたくしにしたら一番大切なことなんです」 「そんなこと、いまさら僕の口から言わなければならないことなのかな」  山代は言った。自分がつかさに対して持っているものは、愛情という以外ほかに呼びようのないものであった。 「ごめんなさい、こんなこと伺って。——でも、一度お訊きしてみようと思ったんです。さっき申しましたように、過去にいろいろ交渉のあった人とは、お会いになって、清算して戴くわけなんですが、それにしても、もしわたくしに対するものが愛情でなかったら、そんなことしても何にもならないと思います。もし、他の人との間に本当の愛情があったと仮定すると、いつか記憶が回復した場合、わたくしの立場は変なものになってしまいますわ。山代さんが記憶を失ったどさくさにつけ込んで、横から来て居坐ってしまったことになってしまいます。わたくしに対するものが本当の愛情なら、わたくし山代さんの過去のどんな愛情問題を山代さんに清算させても、少しも気の咎めることもありませんし、不安にも思いませんけど」  つかさは山代の眼を見入るようにして言った。山代はすぐには答えないで黙っていた。山代は自分が不安に思っていることを、つかさもまた不安に思っていることを知った。記憶が回復した場合、過去の自分がずかずかと自分の内部へはいり込んで来て、現在の自分を追い出してしまいそうな不安は、現に山代自身が感じていることであるし、そうしたことから何となく自分とつかさの関係の不安定さも感じられているのである。それであればこそ、つかさと結婚して、二人の関係をいかなる攻撃からも守れるような堅固なものにしたいと考えたのである。しかし、そうしたことをあからさまにつかさに言うわけにはいかなかった。 「大丈夫だよ。これだけははっきりしている。君に対する僕の気持は真剣なんだ」  実際に真剣であることは間違いないことであった。 「そうでしょうか」 「そうさ。しかし、考えてみると、僕たちはずいぶん変な会話を交していると思うね。こんなことを話している愛人同士は世の中にないだろうね」 「ほんとに」  つかさも感慨深げに言った。二人はそれぞれの立場から、自分たちの愛情に不安な影を感じているのである。しかし、こうした問題を話し合ったことは、二人にとってはいいことに違いなかった。山代はいままでに感じたことのない運命的な繋がりといったものを、つかさという女性に感じた。  山代とつかさの二人がアパートヘ帰って来たのは日暮れ時であった。夕空を渡り鳥らしい鳥の群れが、塵のように西の空へ移動して行くのが、部屋の窓から見られた。  山代は部屋にはいると、窓際に立っているつかさの上半身に背後から手を廻した。つかさは不自由な姿勢で首を捻じ曲げて来た。二人は唇を合せたが、つかさは、 「ゴルフのクラブの振り方を覚えていらっしゃるように、こうしたことも覚えてらっしゃるんでしょうか」  と、二人が体を離してから言った。 「ばかなことを訊くんだね」  山代は笑ったが、 「本当にばかですわ、わたくし。——ごめんなさい、変な質問して。——でも、気になるんです」  つかさは言った。山代にはつかさの顔がひどく真面目なものに、そしてどこか物悲しさを湛えているものに見えた。 「いつでも背後から手をお廻しになるでしょう」 「そうかな」 「そうですわ。大阪時代にこんなことなさった経験があります?」  つかさは言った。 「さあ、どうかな」  山代は真面目に取り合わない態度を装った。接吻の経験はないとは言えなかった。 「あります?」 「ないだろうな」 「じゃ、東京へ出て来てから、他の人にやはりこのようなことなさったんでしょうか」  それから、つかさは、 「わたくし、自分がばかだと思いますわ。でも、ふいに変なこと考えてしまうんです」 「君の方こそ、過去の亡霊に取り憑かれているね」 「そうなんです」  つかさは弱々しく笑った。 「山代さんが過去を失くしていなかったら、こうした場合も、何も考えないと思うんです。それが過去を失くしていると思うと、却って、過去との関係が気になって来ます。——ごめんなさい」  山代は、つかさが考えるように、接吻の仕種ひとつにしても、それは過去とは無関係ではないかも知れないと思った。正常の人の場合、誰もそうしたことは考えもしないし、問題にもならないのである。過去が失くなった場合だけ、それは却ってはっきりと過去との繋がりに於て見えて来るから不思議である。  山代はこんどは、つかさの前へ廻って、つかさの肩に手をかけた。それがおかしかったのか、つかさは忍び笑いしてから、 「何もかも新しく始めましょうね。それしか、わたくしの生きる場所はないんですもの」  顔を上げた時、山代はつかさの眼に涙が溜っているのを見た。  つかさの涙を見て、山代ははっとした。つかさの涙を見たのは勿論初めてであったし、大体つかさはめったなことで涙を流すような女には思えなかった。どんな辛いことがあっても、自分ひとりの胸にたたんでおいて、自分で処理して行くような強いところがあった。表情も動かない方だったし、口数も少かった。 「悲しいの?」  山代は何となく無言の抗議を受けたような気がして、つかさの心を探るような言い方をした。 「いいえ」  涙に濡れたままの眼で、つかさは山代を見上げた。 「悲しいというんじゃないんですが、自分が持っているのは山代さんの半分だという気がするんです。半分いうより実際は極く一部なんです。病気になって、過去を失ったあとの山代さんでしょう。脱殻《ぬけがら》みたい」 「脱殻!?」 「脱殻と言っては言い過ぎですが、山代さんの大切な部分は、みんな失くなっている三年間にはいってしまって、あとは脱殻みたいな気がするんです。山代さんのわたくしに対する気持が脱殻と言うんではありません。過去の山代さんは嫌いですし、いまの山代さんの方がずっと好きです。それでいて、もしかしたら、山代さんの本当の部分、山代さんを山代さんたらしめている本当の部分は、山代さんの失くしている過去にはいっているんじゃないかという気になるんです。悪いところや、ずるいところがいっぱいある、そんな山代さんが本当の山代さんで、いまの山代さんはそうした山代さんの脱殻ではないかという気がすることがあるんです。わたくしは山代さんの脱殻の方が好きなんですが、好きでいて、それでいて、これは本当の山代さんではないというような気持になることがあります。そう思うと、自分のやっていることが、妙に淋しい気がしてしまいます」  つかさは言った。 「生れ変ったと考えたらいいじゃないか」  山代が言うと、 「そうなんです。ですから、いまも何もかも新しく始めましょうねと言いました。新しく山代さんという一人の人間が生まれ出て来た、そう考えたらいいんです。そう考えるんですが、それでいて、人間というものは、どうしても過去から縁を断つことができないという考えにも襲われるんです。過去から縁が断てないなら、いっそのこと過去が全部判ってしまった方がいい。こういう考えも出て来ます。わたくし自身、山代さんに完全に過去を失ったままでいて貰いたかったり、あるいは過去をやはり取り戻して戴きたかったり、その時々で考えが違ってしまいます。明日からいろいろな人に会って戴きたいというのは、過去を取り戻した上でそれを失ってしまって戴きたい。そういう欲深い考えからなんです」 「大変だね」 「ほんとに大変ですわ」  喋るだけ喋ったので気持が落着いたのか、こんどはつかさは笑顔で山代を見た。  ひ よ ど り  十一月にはいって、寒い日が二、三日続いた。山代はつかさと一緒に銀座へ出た翌日から風邪気味で寝込んでしまって、つかさの提案した新しい仕事にすぐ取りかかるつもりであったが、そんなわけでその仕事は暫く先きに延ばさなければならなかった。  山代が寝ている間、つかさは毎日のように一度はアパートに顔を出した。七度から七度五分ぐらいの軽い熱が十日程続いた。医者を招《よ》ぶほどのこともないと思われたので、山代はつかさが買って来た薬を服むだけで、あとは静かに寝台に横たわっていた。  寝台に横たわっていると、窓越しに欅《けやき》の木の梢《こずえ》が見えた。大きな欅の木で、アパートからかなり隔ったところにあったが、梢だけは窓いっぱいに拡って見えた。平生はそうした大きな欅の木のあることにも気付かないでいたが、風邪のお蔭で、山代は初冬の落葉樹の葉一つ持たぬ梢の美しさに久しぶりで心を奪われた気持であった。学生時代は毎年のように冬山に登ったが、雪の少い樹林地帯をカンジキを履いて歩いて行く時、時々顔を上げると、いつも裸木の梢の美しさが眼にはいって来たものであった。あの頃は、自分の気持も、自分という人間も清純できれいだったと思う。山に登りたいという気持以外何も持っていなかった。  山代は寝台に横たわったままで山登りに夢中になっていた若い日のことを回想した。つかさの居る時はつかさといろいろのことを話していたので、気持は山登りのことから離れたが、つかさが家へ帰ってアパートに一人にされると、山代は窓の方に眼を当て、倦かず梢を眺め、それから遠い青春時代の回想へとはいって行った。  失われた三年の歳月は、得体の知れぬ暗い沼であったが、若い日のことは何から何まで、精巧なカメラで映した写真のように、はっきりと思い出すことができた。友達と交した会話の一つ一つまでも、それがきのうのことのように思い出された。  そうしている時、山代にふいに崖をずるずると滑《すべ》り落ちた感触が蘇って来た。そうだ、そんなこともあった、そう山代は思った。が、それが、さていつどこで起った事件か判らなかった。確かに俺は崖から滑り落ちたことがあった。転落を防ごうとして、足に力を入れようとするが、足はどこにもひっかからず、崖の表面を滑り落ちて行く。  山代は、登山の記憶は何もかもはっきりと思い出すことができたが、その転落したに違いないその事件の記憶だけを、どうしても蘇らせることができなかった。確かに俺は山の斜面を転落した筈である。そうでなければ、このようにはっきりと転落して行く時の、無力感と絶望感の入り混じったこのような感触を思い出す筈はない。山代は、いつか、それを思い出そうと夢中になっていた。  山代は眼をつむる。足許の砂が崩れて行く何とも言えない不安な感触が思い出されて来る。思わず小さい枝を握る。その小さい枝が折れようとする無気味な音。小さい草の株にしがみつく。草の株が根もとからいまにも脱けようとする不安な手応え。  山代は眼をあけて窓の方へ眼を向ける。夕空に裸の梢が冷たい神経を張り廻らせている。山代はこの時初めて、いま夕方が来かかっていることを知った。それにしても、崖から落ちたのは、いつ、いかなる時のことであるか。草にしがみついた感触が残っているくらいだから、雪に覆われた冬山でないことだけは明らかである。一体、どこだったろう? どこの山のどんな崖を、自分は滑り落ちたのであろう。滑り落ちてから、そのあと自分はどうしたのであろうか。  山代は失われた三年の間のことでは、いままでに何回か、その事を思い出そうとする苦しい時間を経験した。しかし、そうした中でも、このように一つのことの行方を執拗に追ったことはなかった。  俺はもしかしたら、東京における三年の生活以外でも記憶喪失の欠片を持っているのではないか。山代はそう思った。そう思うと、たとえようもなく冷たいものが無気味に背筋を走った。  山代は大阪時代のことをあれこれ思い付くままに思い浮かべ、それをその前やそのあとへと順々に追って行った。たとえば料亭で宴会をしたことを思い付くと、それはいかなる意味を持った宴会であったか。その宴会にはいかなる人物が出席し、いかなることが行われたか。それからその宴会が終ったあと、自分はどうしたか。  しかし、山代は思い出すことのすべてについて、それのあとをも先きをも自由に辿って行くことができた。その時代の記憶に支障があろうとは思えなかった。崖から落ちた転落感の正体だけが判らなかった。転落感そのものがはっきりしているだけに、それはいまにも思い出されそうな気がした。しかし、どうしても思い出すことはできなかった。  崖から落ちる転落感の正体と取り組んだ日の夜、山代はいつまでも眠らなかった。そのことだけが気になった。十時過ぎに山代は寝台の上に起き上がった。窓からは、昼間見えた裸木の梢は見えず、その代り幾つかの燈火が見えた。人家の灯もあれば、くるまの灯も、向うの鉄橋を動いている電車の灯もあった。そうした燈火の群れが、まだ熱のある山代の眼に多少滲んで美しく見えた。  山代は窓越しに幾つかの燈火の群れを見ていた。体の熱がその燈火を浮かべた夜の一枚の黒い板の中に吸い込まれて行くような気持だった。直接夜の黒い板に触れるわけではなかったが、それを見ていると、体の熱っぽさが、そのままそこに吸収されて行くようであった。  山代は一日中殆ど何も口にしていなかったので、空腹を覚えていた。昼間、つかさが作っておいてくれた食べものが、次の部屋の事務机の上に、白い布をかぶせられて置かれてある。山代は寝台を降りて、それを取りに行こうと思った。  山代は両足を寝台から滑らせて、床の上に降り立とうとしたが、足が床につかないうちに、足を滑らせる動作を停止した。山代の眼はその時、窓枠に区切られた四角な夜の黒い板の方へ向けられていた。  山代は、瞬間、その夜の板が幾つかの燈火を載せたまま、大きく傾いたような気がした。飛行機の上から見ると、地上の灯が、それを載せている地盤といっしょに右に左に大きく傾くことがあるが、いま山代が眼にしたものは、それと同じであった。窓の向うの夜空の板が、燈火を載せたまま大きく傾いたのである。まるで燈火が転げ落ちてしまいはせぬかと思われるような、そんな傾き方であった。勿論、そのような燈火の傾きは山代の方に原因があるに違いなかった。山代が寝台から降りるために、体を崩したので、逆に窓から見えている幾つかの灯の方が傾いて見えるという現象を起したのかも知れない。  山代が寝台から足を降ろすことを途中でやめたのは、この燈火の傾きにも、また山代は記憶を持っていたからである。曾てどこかで自分は沢山の燈火の群れが傾くのを見たことがある。しかも、それは山代がつい一瞬間前まで取組んでいた転落感と極めて自然に結び付いていた。  山代は、俺は崖から落ちながら、沢山の燈火が傾くのを見たことがあると思った。山代が何時間かその正体を知ろうとして闘った転落感は、燈火の傾きと関係あるものに違いなかった。  ああ、俺は崖から落ちながら、燈火の群れを見守っていたのである。燈火の群れというのは、街の灯であろう。街の灯の方へ顔を向け、ずるずると崖の斜面を滑り落ちたのである。そこは人里遠く離れた山ではない。都会なのだ。都会の中にある崖なのだ。  山代は、床へ降り立って、盆の上に作られてある食事を運んで来たが、もう一度食事の盆を手にしたまま立ち停まった。もしかしたら、崖から落ちたのは、若い学生の頃のことではなく、失われた記憶の中の事件かも知れない。そもそも俺は崖の下に倒れていて、病院にかつぎ込まれたのである。  山代は食事の盆を寝台の横のサイド・テーブルの上に置くと、暫くそのままそこに立っていた。急に眼の前に立ち塞がっていた雲がもくもくと動き出し、いまにも視界が開けて来そうな、そんなどこかに明るさのある気持だった。  ——そうだ。俺は崖の下に倒れていたのだ。  そう山代は思った。どうして倒れていたか、それは判らない。とにかく、そこに倒れていたのである。誰かに殴打されたのかも知れないし、そこを歩いていて突然脳貧血でも起し、昏倒《こんとう》して頭を打ったのかも知れない。  ——しかし、崖から滑り落ちる場合も充分考えられることではないか。  山代はいままでにこれほど真剣な顔をしたことはない。自分がこのような状態になるに到ったそもそもの原因に対して、いま一つの想定が設けられようとしている。想定ではあるが、これは充分可能性のある想定である。崖を登って行く。足を滑らせる。大地は忽ちにして不安なものに満たされる。足で踏張りたくても、足の下の地面は崩れて行くばかりである。手は雑草や潅木の茂みにしがみつく。雑草や潅木の枝は到底体重を支えるほど安定してはいない。枝は折れ、草は根もとから脱けようとする。やがて、体は落ちて行く。街の灯が、瞬間、大きく傾く。転落して行く自分の眼には、灯の群れが、自分と同じように傾き、滑り、落下して行くように見える。  山代は、俺は落ちたのだと思った。崖から滑り落ちたのに違いない。誰に殴られたのでもないし、昏倒したのでもない。俺は崖から転落し、崖下にぶっ倒れていたのだ。  山代は風邪さえひいていなければ、自分はいまからでも自分が倒れていたという現場へ行ってみるだろうと思った。そしてその崖の上に立って、そこから果して街の灯の群れが見えるかどうかを調べることだろう。  それにしても、どうして崖から落ちたのであろう。自分が今夜ふいに思い起した転落しようとする際の、どこにも力の入れようのない無力感は、どう考えても足を踏み外した際の感覚である。崖の上から突き落されたことによって起った転落の感覚とは思われない。  そうすると、自分はあの崖を登ろうとしていたか、あるいはその反対に降りようとしていたかである。崖に道がついているかどうかも、現場へ行って調べる必要がある。道がついていて、夜でもそこを通行する人があるというのなら、自分が夜そんなところを登って行ったとしても、さして不思議はないが、もし道がなく、人の通行するようなところでなかったら、登りつつあったにしろ、降りつつあったにしろ、当然自分がそのような崖の中腹にいたということは理解できぬことである。いかなるわけで、自分はそのような場所にいたのであろうか。  食事をすませてからも、山代の頭からはこの問題が離れなかった。  翌日、つかさがやって来ると、山代はすぐ自分が崖から転落したのではないかという話をした。どうしてそのような想定を下すに到ったかということについても、できるだけ詳しく説明した。 「そうかも知れませんわね。そういう感覚を思い出したというのなら、そうかも知れません」  そう言ってから、 「その崖のあるところへ行ってみましょうか」  と、つかさは言った。 「いつ行く?」  山代が訊くと、 「いまからでも」  と、つかさは答えた。 「そうだね。行って貰おうか。夜でなくても、そこから街の灯が見えるかどうかは判るだろうし、道のあるなしを見るには、却って昼間の方がいいだろう」  山代は言った。  つかさがすぐ行ってみると言ったのも、それに対して、山代がとめなかったのも、どちらも同じ気持から出ていた。山代もつかさも早く現場の崖がどのようなところか確かめたい気持があったのである。もし崖に道がついていなかったら、どうして深夜自分はそのようなところにいたのであろうか。山代には、そのことが不安になっていた。何か犯罪事件とでも関連のありそうな厭な感じである。このことは、つかさも同じらしく、 「どうして、そんな場所にいたのでしょう」  そう疑問を投げかけておいて、すぐ、 「まあ、行ってみた上のことですわ。何もまだそうとは決まっておりませんもの」  そういう言い方をした。  つかさは一時間程アパートに居て、すぐ出て行った。出て行く時、病院に電話を掛け、看護婦に山代のカルテを読んで貰った。現場を間違わないためであった。  つかさは二時間程で帰って来た。寒い風が吹いている日で、そのために部屋にはいって来たつかさの頬は赤くなっていた。部屋へはいって来るなり、 「灯は見えますわ。崖の上からは下町の灯がひと目で見渡せます。そのくらいですから、崖の中途からもよく見えます」  つかさは言った。 「じや、やっぱりそこの崖を滑り落ちたんだな」  山代はある感懐をもって言った。 「道は?」 「道はあることはあるんです。昼間でもそこを通って崖の上へと出る人はめったにないそうですが、それにしても細い道が一本作られてあります。わたくしが行った時は子供たちが遊んでいました。でも、夜はねえ」  つかさは少し眉を顰めて言った。 「夜は通れそうもないんだね」  山代が訊くと、 「夜、あんなところを登って行く人はないと思いますわ。崖を登るどころか、崖の下の広場にさえ、普通の人なら足を踏み入れないと思います。多分真暗でしょうね、あの辺。——戸外燈が崖の斜面に二つ程あることはありましたが、恐らくあんなものではなんにもならないでしょう」  つかさは言った。 「附近の人にも訊いてみたんですが、夜は怖いので誰も崖の下の広場には行かないそうです」 「——とすると、どういうことになるかな」  山代はつかさの顔を見詰めて言った。 「夜、あそこを登って行って、足を滑らせて落ちたという想定は無理ではないでしょうか」 「無理かも知れないね」  山代は口では言ったが、しかし、そうした想定を撤回したわけではなかった。やはり自分はどうしてもそこを登って行ったような気がする。転落感と灯の板の傾く感じは、やはりその崖から落ちた時自分を見舞ったもののように思われる。  山代は風邪がよくなり次第、自分でその場所へ行ってみようと思った。現場へ足を踏み入れてみたらどんなことを思い出さぬものでもない。山代は記憶を喪失する直前の自分に、何か暗いものを感じた。いきなり犯罪と結び付ける必要はなかったが、しかし、人の寄り付かぬそうした場所で事件は起っているのである。 「崖から転落したかどうかは判らないが、自分がそこに倒れていたことは事実なんだ。そしてその事件から、一切は始まっている」 「それはそうです。でも、そのことは山代さんが思い出す以外解決できないことですわ。ですから佐沼先生も高崎先生も、そのことは初めから問題にしていません。いろいろ臆測《おくそく》しても結局は臆測の域を出ませんもの。それより、この間言いましたように、手がかりのある何人かの人に会って行く方法をとりましょう。わたくし、どんな厭なことがあっても、そんなことは気にしない決心しました。もう大丈夫ですわ」  つかさは言った。 「もう二、三日で外出できるだろう。そしたら誰にでも会うよ」  山代は言って、つかさの手を求めた。つかさの手は熱かった。 「熱があるね。風邪がうつったんじゃない?」  山代が言うと、 「山代さんの過去も乗り移っているんですもの。風邪ぐらいいくらでも乗り移るでしょう」  つかさは笑って言った。  翌日つかさから電話で、ゆうべから発熱したので、四、五日アパートヘ顔を出すことができないだろうということを伝えて来た。  山代はつかさから電話があった翌日、床を離れた。そしてそれから二日間用心して外へ出なかったが、三日目に陽気も暖かだったので、問題の崖のある場所へ行ってみることにした。つかさが言ったように、自分がそこに倒れていたという事件には、その問題を解く何の手がかりもなかったが、一応現場へ行くだけは行ってみようと思った。  タクシーを鶴巻町の停留所附近で棄てて、往来に面した煙草屋で、中年の女に、 「この裏手に崖があるでしょう。そこへ行くにはどう行ったらいいでしょうか」  と訊いた。 「江戸川公園のことですか」  相手は聞き返して来た。山代はいつか眼を通したノートに、確かにそのような名前が記されてあったことを思い出して、 「そうだろうと思います」  と答えた。 「それなら二、三軒先きに自転車屋がありますが、そこの路地を曲ると、川のふちへ出ます。その川の向うが江戸川公園です。橋があります」  女は教えてくれた。女の言ったように二、三軒先きに自転車屋があって、そこをはいると、道はすぐ川にぶつかった。川と言っても、両岸はコンクリートで畳まれてあって、その底を汚物をいっぱい浮かべた濁った水がかなりの量で流れていた。全くのどぶ川ではあるが、ところどころ堰きとめられてあって、その箇処で水音が高く上がっている。  江戸川公園というのはその川向うにあった。公園らしい施設は見えないが、崖裾に細長い広場があって、そこで十人程の子供が遊んでいるのが見える。  山代は橋を渡って、公園の中に足を踏み入れた。崖は対岸で見た時よりずっと急な斜面を持っていることを山代は知った。なるほどその斜面に沿って細い道が這っており、そこを何人かの子供が登って行くのが見えているが、道と言えるようなものではなく、どこから始まって、どこで終っているか、ちょっと見ただけでは判らないような代物《しろもの》である。  山代は公園の入口に立って、崖と、その下の広場を眺め渡していた。暖かい陽が降っているためか、総体にそこはのどかな陽だまりに見えた。  山代は自分がどこかの城址の一角にでも立っているような気になった。城址の裏手の方などには、よくこうした子供たちだけが知っている遊び場があるものだ。大人たちはめったに姿を見せることはなく、崖崩れも、石も、草も、樹木も、ぬくぬくとした陽ざしも、小鳥の啼《な》き声もみんな子供たちだけのものである。山代の眼には崖も、その裾に拡っている小さな広場も、そのような場所として映った。広場から崖の斜面へかけて、十人程の子供たちがちらばり、静かな陽光を浴びて、みんな楽しそうに動き廻っている。  山代は崖の裾に沿って歩いて行った。石やコンクリートの破片などが、ところどころに固めて置かれてある。こうした石のごろごろしている場所に、自分は倒れていたのだ。山代は何回か崖を見上げた。石が集積してある中へ頭を突込んでいたというから、殴られたか、崖から落ちたか、そのいずれかだが、この場合崖から転落したという想定の方がぴったりするようである。頭部に打撲傷があったが、それは石で殴り付けられてできたものとは異っていた。山代は崖の裾から何回も崖を見上げた。斜面から落ちれば、体はさしずめ石のかたまっているあたりに投げ出されそうである。  山代は公園の広場をひと廻りすると、こんどは子供たちの真似をして、崖の斜面についている細い道を登って行った。道は斜面をジグザグに這っているが、ところどころ道は消えている。その箇処の土が崩れたのに違いない。そうしたところでは足場を探して登って行かなければならない。登って行くと、再び道へ出る。だから道は初めも終りもなく、全く気紛れにつけられてある感じである。  山代はそんな道を通って、やがて台地の上に出た。台地の上に出ようとする時、横の潅本の茂みから、鳥が一羽飛び立った。ひよどりだった。山代は学生時代山が好きだったくらいだから、かなり小鳥にも詳しかった。めったに見間違うことはなかった。斜面の潅木の赤い実でもついばみに来たのであろうか、それにしても、このような都心部にこのような鳥の来るところがあるということが不思議だった。台地の上からは下町一帯が見渡せた。夜ここに立てば、下町の灯がさぞ美しいであろうと思われた。  山代はいま初めて、自分が倒れていたという現場に来たわけであったが、自分が崖の中途から転落したのであるということを疑わなかった。自分が思い出した灯の板の傾きも、ここから転落して行く自分の眼の中にはいって来たものに違いなかった。山代はここへ来るまで、自分の行動をともすれば犯罪と結び付けて考えがちであったが、いま明るい陽を浴びてここに立っている限りでは、そうした暗い思いはなかった。見晴しがきいていて、気持がよかった。夜の闇が押しかぶさって来たら、台地も、崖も、崖の下の広場もまるで違ったものになるかも知れなかったが、いまはただ明るく、のどかであった。  山代が立っているところは、藤棚があり、その下に石のベンチが置かれてあって、何となく露台のような感じに作られてあったが、どこの家のものとも見当が付かなかった。すぐ近くに二、三軒の中流住宅が、崖に臨むような恰好で作られてあり、藤棚のところから崖っぷちを走っている細い道は、それらの中流住宅の間へと伸びている。恐らくこの崖っぷちの道を歩いて行くと、自然にこの台地の上の町である関口台町の大通りへ出るものと思われた。  山代は暫く、その露台らしい場所から下町一帯を眺めていた。こうした俯瞰《ふかん》する場所に立ったのは久しぶりのことだったので、山代には気持よかった。この高台に立って初めて、山代は風があることを知った。下町の屋根屋根の上を時折、風が走っているのであろう。白い紙きれが幾つか白く陽に光って宙に舞っている。  山代はもう一度同じ崖の斜面を降りて行く気にはならなかったので、いま自分が立っている露台から始まっている道を歩いて行ってみようと思った。道はすぐ表通りへと出た。表通りと言っても、それは崖の方からみた場合の言い方で、人通りの少いひっそりとした道だった。本当の表通りはもう一つ向うにある模様で、くるまの走る騒音はすぐ近くに聞えているが、山代の歩いて行く道には一台のくるまも姿を見せなかった。山代はその道を足の向いている方向へ歩いて行った。道ばたに古い小さい社《やしろ》があって、その横手に落葉樹の大きな老木があった。樹幹を大きく空に伸ばし、枝々を美しく四方に拡げている。  山代はその老木の下まで行った時、ふいに足を停めた。向うからやって来る和服姿の老人が、山代の注意をひいたからである。この間、日比谷附近で会った老人に違いなかった。山代の方から声をかけて行って、甚だ無愛想な態度で報いられたあの老人である。山代は立っていたが、老人の方は山代の存在に気付かず、一歩一歩山代の方に近付いて来た。いかにも散歩でもしているといった歩き方であった。  二人の距離が二間程になった時、山代は相手が誰であるかに気付いた。この間は、相手が誰であるか判らず、ただ自分が相手と親しく言葉を交したことがあるという確信で、声をかけて行ったのであるが、いまの山代はもう少し深く相手について知っていた。自分はこの老人に、彼の家らしいところでセザンヌの偽作を売り付け、彼から小切手を受け取ったことがあった。その時の老人に違いないと思った。二カ月程前、アパートのベッドで、山代はセザンヌの絵を売り付けていた一場面の記憶を回復したが、その絵の中の老人とぴたりと一致した。老人の身分やその名前などは依然として思い出さなかったが、しかし、いま彼の方へ近寄って来つつある老人が、その時の老人であることだけは疑えなかった。  この前気が付かなかったことが不思議であった。どうして気が付かなかったのであろう。山代は咄嗟の間に、この前日比谷で会った時老人から冷たくあしらわれたことを思い出し、声をかけるべきかどうか迷った。山代は老人が顔を上げ、何となく眼をこちらに向けたのを知った。瞬間、老人の顔にはある変化が起った。老人は足を停めた。すると、二人は一間程の間隔を置いて向い合って立つような恰好になった。山代は、老人が明らかに不快な感情を面に出しているのを見た。 「き、君は」  老人の口から低い呻くような声が飛び出した。老人が口をきいたので、山代としても、この際当然何か言わなければならなかった。 「この間は失礼しました」 「き、君は」 「この間、お会いした時は、いつどこでお会いしたか思い出せませんでしたが、いま思い出しました」 「き、君は」  老人は二本の手を振った。うるさい、黙れ! というような、そんな手の振り方であった。この間は七十歳に近い老人に見えたが、いま顔を突き合せてみると、相手は予想外に若く見えた。六十歳の半ばには達していないかも知れない。しかし、明らかに体のどこかに故障があり、それが相手の動作を緩慢《かんまん》にし、実際の年齢よりずっと老い込ませて見せているようであった。 「もう堪忍《かんにん》してくれ」  老人は言った。そしてすぐ続けた。 「何の恨みがあって、度々わしの前に顔を出すんじゃ。あっちへ行け」  相手はまた手を振った。 「ま、待って下さい」  山代は言うと、相手を落着けるために、 「私は記憶を失っています」 「嘘をつけ」 「いや、本当です。過去三年間の記憶を失っています」 「その噂は聞いた。しかし、それは嘘だ。嘘つきめ!」 「いや」 「うるさい。早くあっちへ行ってくれ。わしは君の顔を見るのも厭だ。君という人間が嫌いじゃ。君はさんざんわしを苦しめた。苦しめた上に、まだわしの前に顔を出して、厭がらせをしようというのか」  老人の顔は怒りで赤くなっている。 「私は、貴方にセザンヌの絵を——」 「そんなことは言ってはおらん」 「私は、いま思い出したんです。本当にいま思い出したんです。確かに、私は貴方に絵を買って貰いましたね」 「何をそら恍《とぼ》けたことを言うか。わしはもう我慢ができん。君が行かんのなら、わしの方から引き返す。もう二度とこの辺をうろつかないでくれ。これだけは強く言いわたす」  老人はいきなり背を見せた。老人の背後姿は明らかに老人が病んでいることを示している。 「私は貴方にセザンヌの絵を売った。大変なことをしました。それだけをいつか思い出していたんです。しかし、その時の相手が貴方だということは、この間は気が付かなかった」  山代は早口で老人の背に投げつけた。言うだけのことは言ってしまおうと思った。 「うるさい。わしは聞かん」  振り返りざま老人は言った。 「貴方は憤っています。無理はない」 「なに!」  老人は足を停めて向き直った。 「無理はないとは何だ!」  いまにも食い付きそうな表情であった。 「無理はないとは何だ!」 「何しろ、私は偽作を売った!」 「何を言っとる! 悪党!」 「悪党には違いありません。それはよく判ってます。しかし、それにしても、それからどうなったんでしょう。それを教えて下さい。私は貴方に迷惑をかけたに違いない。が、どんな迷惑をかけたかは、私は知りません。記憶が失くなっています。それを教えて下さい」 「よし、教えてやろう」  老人はいままでとは異った口調で言った。顔は無表情になっているが、怒りは前より烈しくなっているに違いなかった。その証拠には握りしめている両の手がぶるぶると細かく震えている。 「わしはな、自分の人生を失った。生き甲斐というものを失くした。生きている希望がなくなった。人間を信用できなくなった。悪党め! お前のために、わしは本当に生きて行くのが厭になった。憎んでも、憎んでも、憎みきれない」 「セザンヌの偽作がそんなことになりましたか」  山代は口を差し挾んだ。 「何!」  無表情の顔の中で、両の眼だけが光った感じだった。 「そら恍けるな。約束を履行するまでは、一切この辺には寄り付かない筈ではなかったか。それを、何の企みがあって、わしをつけ廻すんだ! 悪党!」  何回目かの悪党という言葉を吐き出すと、老人は再び背を向けて歩き出した。そして二、三歩歩いて、向うを向いたままで、 「帰れ! わしのあとをつけて来るな!」  そしてそのまま歩いて行った。  山代はそこに立ちつくしていた。子供が二、三人山代の傍に立って山代の顔を見上げている。  山代は老人を追う気持を失くしていた。何が老人をこのように憤らせているのか、全く見当が付かなかった。セザンヌの偽作を売り付けたことは悪党の仕業《しわざ》に違いなかったが、それにしても、それがこのように老人を怒らせているとは思われなかった。偽作を売り付けられて損害を蒙ったら、訴えるとか他の方法があるではないか。それにしてもあの老人は何という名で、どこに住んでいるのか、山代は向うの角へ消えようとする老人の姿を呆然と見送っていた。  山代は老人がこの附近に家を持っているに違いないと思った。それでなくて着流しで散歩するわけはなかった。そこへたまたま自分が現われたので、いまの一幕となったわけである。  老人がこの附近に住んでいるとすると、詰まり自分が倒れていた崖の上の町に住んでいるとすると、自分が崖から落ちたことは、何かこの老人と関係がありそうに思われる。自分は老人に会うために、老人の家へでも行こうとしていたのかも知れない。夜、わざわざ崖を登って行ったということは諒解《りようかい》に苦しむが、しかし、現在のところではそうとでも解釈するほかはなさそうである。  この前、老人とは日比谷の交叉点附近で会ったので、老人はこの台地の上に家を持ち、勤め先きを日比谷のどこかのビルの中にでも持っているのであろう。自家用車にあの路地で乗り込んだのだから、あの附近に勤め先きを持っていると見なければならぬ。  山代は老人の姿が消えた方を向いたまま立っていた。老人の怒りの原因にセザンヌの偽作が関係していることは疑えないが、しかし、それにしても、老人の怒りにまみれた言葉は、必ずしもそうした想定にぴったりしたものとは言えない。大金でセザンヌの偽作を売り付けられた被害者の怒りは大きいものに違いなかったが、どうもその怒り方に釈然としないものがあるように思われる。老人の口から出た幾つかの言葉は、偽作を売り付けた加害者の心にしっくりとはいり込んで来ないようである。  ——わしはな、自分の人生を失った。生き甲斐というものを失くした。生きている希望がなくなった。人間を信用できなくなった。  山代は老人の言葉を反芻《はんすう》してみた。偽作を売り付けられた被害者の言葉として、一応通用することは通用するが、こんな泣きごとを言う前に取るべき処置はありそうに思う。人生を、生き甲斐を失くしたなどということは、少しオーバーである。  それからまた、老人は言った。  ——約束を履行するまでは、一切この辺には寄り付かない筈ではなかったか。  確かにそう言った筈である。約束とは何か。偽作を売り付けたその金でも返却するという約束であろうか。そう解釈しても、一切この辺に寄り付かない筈ではなかったか、という言葉はおかしい。  山代は老人の去って行った方へ歩き出していた。道はすぐくるまの往来の烈しい大通りへ出た。道はゆるやかな坂になっていて、くるまがひっきりなしに往来している。山代には、老人がこの大通りへ出て、ここを歩いて行ったとは考えられなかった。大通りに出るまでに、二つ程崖の方へ向って路地がついていたので、そのどちらかへはいったものと思われた。山代は大通りからまたいま歩いて来た静かな道へと引き返した。  山代はいま来た道を戻った。老人の冷たい拒否の眼ははっきりと瞼に捺されてあったが、しかし、老人の家が判るものなら、知っておきたいと思った。  表札を一つ一つ見て行ったら、あるいは名前を思い出すかも知れない。それに老人の家には自分は一度訪ねて行ったことがある筈である。そこで老人に小切手を書かせている。その時の老人の前屈みになってペンを持っている姿も眼にあるし、書き終るまで自分の持っていたいらいらした気持も、いまそのまま思い出すことができる。そしてまた小切手を受け取って、ポケットに収めてから、早くその場所から立ち去って行こうとした気持もはっきりと思い出すことができる。  そこは明るい書斎だった。もしかしたら、居間兼用の応接室だったかも知れない。中流の家の部屋の感じではなく、やはり上流の家の感じであった。老人は自分の所有に帰したセザンヌの絵を見ながら食事をしようと言い出した。客が何人かある感じだった。それを断って、自分はその家を辞したのである。  山代はそうした家を頭に置いて道の崖側の方に立っている何軒かの家の表札を一つ一つ覗きながら歩いた。どこも中流級の住宅で、山代が頭に描いている家の構えはもう少し豪壮な感じである。  山代はその附近の何本かの路地にはいった。ぶらぶら散歩でもしているように、ゆっくりと足を運び、時折用もないのに立ち停まったりした。大きい構えの家は何軒かあったが、どこも戦前のものらしく古びていて、老人が小切手を書いた明るい部屋を、その中に収めていようとは思われなかった。  山代はまた次々に表札の文字に眼を当てて行ったが、全く思い当るものにはぶつからなかった。山代はこんなことをしているより、アパートヘ帰って、郵便物の束や帳簿の中から、この附近の住所を書き記してあるものを選び出した方が早いと思った。あの郵便物の束の中には、もしかしたら、差出人の住所としてこの附近の所番地を書き記してあるものが発見できるかも知れない。  山代は再び崖の上に出ると、さっき登って来た斜面の道を降り始めた。相変らず子供たちが何人か、斜面に取りついており、その上に静かな秋の陽が落ちている。  山代は足を滑らせないように注意して降りて行った。登る時とは違って降りる時は危険だった。足を移す度に、いつも斜面の土は少量ずつ崩れ落ちていた。昼はどうにか降りることができるが、夜だったら、到底降りることはできまいと思われた。斜面の中途から、ひよどりがまた翔《と》び立った。  再  会  山代が崖を見に行ってから一週間程して、つかさが心持ち痩せた姿をアパートに現わした。風邪で寝ている間全然食欲がなく、果汁しか飲まなかったので、すっかり痩せて仕舞ったということだった。 「風邪のお蔭ですっかり予定が延びてしまいましたわね」  つかさは言って、 「今日から本格的に始めましょうね」 「何を始めるの?」 「以前関係を持った方にお会いになることです」 「よし、やろう」  山代は明るく言った。もう腹が決まってしまっていたので、誰にでも会うつもりだった。思いがけないいろいろの事件にぶつかるかも知れないが、それはその時々で処理して行く考えである。 「すっかり観念してしまいましたのね」  つかさが笑いながら言うと、 「観念したわけじゃないが、やはり怖がらないで、自分の失くしているものに手で触ってみた方がいいと思うね。思いもかけない人物から恨みを買っているようなこともあると思う。実際に、そんなことがあったんだ」  山代はつかさに、崖を見に行った時のことを話した。日比谷で会った無愛想な老人にまた会ったこと、その老人からひどく恨まれているらしいことなどを話した。 「やはり、偽作を売ったためでしょうか」 「そうだと思うね。少し変な気はするが、そう思う以外仕方ない」 「郵便物の中に、その老人らしい人のはありませんかしら」  山代が考えたと同じことを、つかさもすぐ考えた風だった。 「郵便物も帳簿も調べたんだが、それらしいものは見付からなかった」  山代は言った。実際に山代はそうしたものを調べたが、その老人らしい人物の名にも、崖の附近と思われる所番地にもぶつからなかった。 「セザンヌの絵を扱った画商さんに当ってみたら、あの老人のことも、一応判るかも知れませんわね。でも、あの方は本物らしいので、どういうことになりますか。いずれにしても、わたくし、近く調べてみますわ」  それから、つかさは、 「今日は、八束陽子さんにお会いになって戴きたいんです。八束さんというのは結婚前の苗字で、いまは後川さんです。——後川陽子さん」 「うむ」  山代は努めて顔色を変えないで頷いた。 「伊豆の別荘のお留守番から所番地を訊いておきましたでしょう。そこへお電話したら、先方もお会いしたいとおっしゃっていました。ご主人はいま外国へ行っていらっしゃるんですって」  つかさもまた努めて無表情を装って言った。 「きょうの午後でも、明日の午後でもよろしいそうです」  つかさが言うと、 「きょう行こう」  山代はすぐ答えた。どうせ会わなければならないのなら、きょうでも明日でも同じことだった。 「このこと、お憤りになっては厭ですよ」  つかさは山代の顔色を窺うようにして言った。さすがに、自分の一存で取り計らったことが、気になっている風だった。 「憤ったりはしない。こうしてくれないと、いつまで経っても腰が上がらないからね」 「そうなんです。わたくしも、そう思いましたので、勝手に先方に交渉してしまったんです。よほどご相談しようかと思ったんですが、後廻しにされそうですから」  山代は、つかさの眼が幾らかいたずらっぽく笑っているのを見た。つかさの言うように、前に相談を受けたら、八束陽子と会うことは後廻しにしたことであろうと思う。あまり気の進むことではない。三年間の過去に埋まっているものの中で一番無気味な相手である。 「後廻しにしたいのは、山代さんばかりではありませんわ。わたくしだって後廻しにしたい気持はあります。でも、厭なことから一番先きに片付けてしまった方がいいと思います」  それからつかさは山代の外出の支度に取りかかった。山代は自分がこれから後川家へ彼女を訪ねて行くものやら、或いはどこかで待ち合せて、相手と会うものやら、全く知らなかったが、一切つかさに任せることにした。そうしたことを訊くのも、何となく億劫《おつくう》になっていた。  外出の支度をして、部屋を出ようとする時、つかさは自分から山代の唇を求めた。そして山代の大きな胸の中に顔を埋めて、 「わたくし、心配!」  と言った。 「ばかだな、自分でお膳立てしておいて」  山代は言った。 「これだけ、いま誓って下さい。お会いになったあと、全部、わたくしに匿さないで話して下さい」 「うむ」 「ご自分の気持を全部話して下さい」 「うむ」  それから、 「君も一緒に会うんだね」 「いいえ」  とんでもないというように、つかさは大きく首を振って、 「わたくしは会いません。向うのお家の前で別れて、外で待っています。だって、以前の恋人に会うのに、わたくしが居たら、おかしなものですわ。そんな度胸は、わたくしにはありませんわ」  つかさは言うと、山代の胸から離れた。  山代は八束陽子にこれから会いに行くということだけは判っていたが、彼女がどこに住んでいるかということは知っていなかった。普通ならアパートを出た時、彼女の住居がどこであるかを尋ねるのが自然であったが、山代はそれについては黙っていた。自分でも理解し難いような物臭な気持が山代の心を捉えていた。別に不貞腐れているわけではなかったが、第三者が見たらこの場合の山代の態度はそのように解釈されたかも知れない。  山代はつかさと並んでアパートの前の小さい坂を降ると、つかさの歩いて行く方へ、自分も足を運んだ。八束陽子の夫が外国へ行っていて留守だということをつかさが言ったが、そのことだけが幾らか山代の気持をらくにしていた。  山代は八束陽子の夫が、前に自分が思い出した後川幹之助という実業家に違いないと思った。あの画廊へ来てドランの絵を買った人物、自分にゴルフの手解きをしてくれた人物、自分と一緒に東京都と神奈川県の境にあるFカントリー・クラブなどを廻った人物、そして自分が終始好感を持っていなかった人物、その人物こそ八束陽子の夫であるに違いないと思った。  山代は自分と一緒にバスの走る道を歩いて行くつかさの方へ、ちらっと視線を投げた。つかさは既に後川幹之助が八束陽子の夫であるかどうかというようなことは知っている筈であった。ひと言それについて質問すれば、つかさはすぐ答えてくれるに違いなかった。しかし、この場合もまた、山代はそうしなかった。ひどく億劫な気持が依然として、山代大五の心の内部に居坐っていた。  この億劫さは病的と思われる程のものであった。訪問先きの表札を見れば、一切が判明するのだから、何もそれについて早く知る必要はないという気持だった。そのために口を開くのは面倒だった。  五分程歩いた時、 「遠いの?」  と、山代はそれだけ訊いた。 「いいえ、近いんです。歩いて十五分程のところにあります」 「ほう」  山代は努めて無表情で答えた。 「散歩の時、そこの前を通っていらっしゃったか判りませんわ」 「ほう」 「多分お通りになっています」 「丘の上?」 「そうです」 「じゃ、その前を歩いているかも知れないな」  山代は言った。山代はアパートの背後に迫っている高台は、かなり詳しく知っていた。毎日散歩の時、少しずつ方面を変えて歩き廻っている。  八束陽子が思いがけず近いところに住んでいたということが、山代の気持を複雑にした。いままでにいつ会っていないものでもないと思うと、何か救えない遣り切れない気持だった。  しかし、つかさに導かれて行ったのは、山代がまだ足を踏み込まない地帯だった。いつも山代が散歩の時歩く道を途中から左に折れて、丘の上を多摩川の上流の方へと向った。 「こんな方へは一度も来ないな」  山代が言うと、 「そうですか。こっちの方へ散歩なされば、お会いになったかも判らないのに」  つかさは真顔で言った。附近には竹藪が多かった。竹藪のある地帯を脱けると、中流住宅地があって、そこを脱けると、また竹藪があった。東京の郊外にもこんな静かなところがあるかと思う程静かだった。くるまはかなり繁く往来しているが、もしくるまが走っていなかったら、誰も東京の郊外とは思わないだろう。眼にはいって来る附近の景物は全く田舎だった。つかさはアパートから十五分程の距離だと言ったが、結局三十分近く歩いた。 「遠いね」  山代が言うと、 「お待ちどおさま」  つかさはそんなことを笑いならが言って、 「もうすぐそこです」  と言った。道はいつか住宅地帯へはいっていた。こんどはかなり大きい邸宅ばかりが並んでいた。どの家の塀の内部にも、大きな落葉樹が植わっていて、その裸の梢が道の上にまで細い枝の網を拡げていた。 「このお宅です」  突然つかさが言ったので、山代は足を停めた。附近では一番大きい邸宅だった。土の築地《ついじ》が道に沿って長く続いている。山代は塀に沿って歩きながら、ここが八束陽子の家かと思った。築地はかなり長く続いていた。ところどころ雑木が築地の上にのしかかっている。  築地に沿って曲ると、すぐ門があった。門は屋敷が大きいのに較べると不釣合なほど小さく見えた。  門から覗くと、廃園とでもいいたいような広い前庭が拡っていて、母屋は奥に引込んで建てられてあるのか、建物の屋根すら見えなかった。  表札には「後川」とだけ書かれてあった。この時、山代は初めてつかさに訊いた。 「後川幹之助?」  すると、 「そうです」  と、はっきりとつかさは答えた。 「呼鈴を押しますよ」  そう断ってから、 「一時間程したら、わたくし、この辺に待っていますわ。——では確りね!」  つかさは言った。わが子を入学試験場にでも置き去りにする母親でも言いそうな台詞だった。山代はそんなつかさを黙って見守っていた。  人の足音が塀の内部から聞えて来た時、つかさは山代の傍を離れた。やがて小門の扉が開いて、女中らしい娘が顔を覗かせた。 「山代と言いますが、ちょっと奥様にお目にかかりたくて伺いました」  そう言うと、 「どうぞ」  すぐ女中は言った。山代が訪ねて行くことを既に知っている表情であった。  石で畳んだ道を歩いて行く。道の両側は植込みになっているが、その茂みを透かしてみると、両側ともかなり広い庭になっていて、片方は芝が敷き詰めてある。その芝生の庭の方で、犬が吠えている。  玄関の前で、ほんの短い間、山代は待たされたが、やがて扉が開いて、さっきの女中が顔を出した。山代は玄関の右手の応接室へ通された。二十畳敷程の広い部屋で絨毯が一面に敷き詰められ、まん中に長方形の卓が置かれて、その周囲に椅子が配されてある。壁面の二つに沿っても、椅子と小さい卓が幾つか置かれてある。  部屋の空気はひんやりしていて、もう何日も人が出入していないような、そんな暗さがあった。それだけに落着いてはいた。この家の主人である後川幹之助の人柄とはぴったりしない部屋である。後川の方は我儘だが、単純な明るい性格で、ベランダもついた開放的な応接室の方がふさわしい。  女中に依って、お茶が運ばれて来た。それを口につけていると、菓子が運ばれ、暫くして二度目の茶が運ばれて来た。山代は窓際の椅子に坐っていたので、お茶や菓子は小さい卓の上に置かれたが、女主人のためのものであるらしいお茶は、部屋の入口から言うと左手の壁に沿った小卓の一つに置かれてある。そこへ女主人が来て坐った場合、山代は少し姿勢を斜め向きにしないと、相手と向き合うことはできないわけであった。山代がそんなことを考えている時、八束陽子ははいって来た。  山代にはひどく痩せて見えた。別人ではないかと思うような変り方だった。険のある顔と、眼の強さだけが、娘時代の彼女の持っていたものであった。 「いらっしゃいませ」  陽子は言うと、いかにも懐かしそうに山代を見守り、 「ご病気だったんですってね。もうおよろしいんですか」  それから自分の椅子に坐った。山代は相手と向き合うために斜め向きの姿勢をとったが、しかし陽子は壁面にぴたりと背をつけて腰掛けているので、向き合うことはできなかった。山代は陽子の横顔を見ることになった。その横顔を見ていると、やはり八束陽子に違いないという思いが、山代の心に迫って来た。  山代には、陽子が客の方は向かないで、その横顔を見せているところなどは、やはり陽子らしく思われた。またかなりの距離を置いて、自分の座を取っているところなども、確かに陽子のやりそうなことであった。 「痩せましたね」  山代は言った。昔の家庭教師が教え子に対して言う言葉遣いであった。 「でも、これで随分もとに戻りましたんですのよ」 「病気なさったんですか」  山代が言うと、 「え!?」  と言うように、陽子は山代の方へ顔を向けた。そして山代の顔をしげしげと見守るようにしていたが、 「ご記憶失ったということは聞いておりましたが、わたしの病気のこともご存じありませんの?」  と訊いた。 「知りません。知らないというより、恐らく忘れてしまったんだと思います」  それから、山代は続けて言った。 「最初から質問で恐縮ですが、僕はこのお宅へ伺ったことがあるでしょうね」  と訊いた。それから同じことを別の言い方で言った。 「多分、僕はお伺いしたんじゃないかと思います。ご主人とお付き合いしていたことは断片的に覚えていますから、そんなことから考えても、きっとお伺いしているだろうと思います」  山代は、陽子の顔が異様に歪むのを見た。陽子は何か言いそうに、口辺の筋肉を動かしていたが、やがてこれもまた異様としか思われぬつんとした表情をとると、 「厭ですわ。いい加減なことおっしゃるのは。——都合のいいところだけお覚えになっていて、都合の悪いところは、お忘れになったんじゃありません?」  明らかに怒りが陽子の心を波打たせているようであった。昔から陽子は胸を張る癖があったが、いまもそのような姿勢をとっており、それが山代には、陽子が自分の心の怒りを抑えかねて、自然にそんな姿勢をとっているかのように思われた。 「いや、僕は、何も、——本当に東京へ来てからの三年間をすっぽりと失くしてしまったんです。ご主人とゴルフをやったことだけを切れ切れに覚えているだけのことです。しかも、その人が貴女のご主人であるかどうかとなると、全然判らなかったんです。でも、あるいはそうではないかという気持はしていました。いま門の表札を見て、やっぱりそうだったなと思いました」  そういう山代の顔を、陽子は少しの表情の動きも見せないで、見守り続けていた。 「きょうお伺いしたのは、東京で僕はいつ貴女とお会いし、どうしてお近付きになり、どのようなことをしたか、そのことをお尋ねしたくて伺ったんです」  山代は言った。  陽子は横顔を見せ続けていた。山代の言葉をどのような思いで耳に入れているかよく判らなかったが、言うだけお言いなさい、一応みんな聞いておいて上げます、そんな風な態度に見えた。 「僕は東京では、いつ最初に貴女にお目にかかったでしょう」  山代は訊いた。陽子はちらっと山代の方へ眼を向けたが、すぐまた眼を逸らせて、もとの姿勢に戻った。 「去年でしょうか、一昨年でしょうか」  すると、 「昨年だったんじゃありません?」  陽子は前を向いたままで答えた。 「春ですか、秋ですか」 「さあ、そんなこと。わたし忘れてしまいましたわ」 「どこでお目にかかったんでしょう」  それに対して、陽子は暫く返事をしないでいたが、やがて、 「——ほんとにお忘れになりましたの?」  と、念を押すように言った。 「ほんとです。こんなことで嘘は言いませんよ」  それから、 「伊豆の別荘じゃなかったんですか」  山代が言うと、陽子は瞬間烈しい眼を山代に返して、 「覚えていらっしゃるじゃありませんか」  と、非難するように言った。 「それだけ覚えています」 「何も覚えていないとおっしゃったのは嘘ですの?」 「いや、何も覚えていないと言ってもいいくらい、殆ど全部を忘れてしまいました。それも初めは全然覚えていなかったんです。それが時が経つにつれ、極く断片的なことを幾つか思い出したんです。全くきれぎれな記憶の欠片ですから、それらは勿論繋がりませんし、その一つ一つもどんな意味を持っているか判りません」  山代が言うと、 「では、その思い出したということは、どんなことでしょうか」  陽子は逆に訊いて来た。この場合もまた、さあ、お言いなさい、聞いて上げます、そういった風な態度で、顔を向うへ向けていた。  山代はそんなつんとした冷たい陽子の横顔を見守っていたが、自分がこの女性を少しも愛していないことに気付いた。病院で、自分が大阪の新聞社を罷めて東京へ移って来たということを知った時、ふいに八束陽子のことを思い出し、陽子への恋情が胸に込み上げて来て、大きな不安に捉われたものであったが、そうしたことが嘘のようないまの山代の気持だった。  山代はこの部屋で初めて陽子に顔を合せた時から、自分が全く相手に対して特別な感情を懐いていないことに気付かざるを得なかった。 「思い出した記憶の欠片とおっしゃるのは、どういうようなことですの?」  陽子は再び訊いた。 「いま言いましたご主人に関する記憶です。画廊からドランの絵を買って戴いたこと、それからゴルフを多摩川の練習場で手解きして戴いたこと、郊外のFカントリー・クラブヘご一緒に出掛けたこと。その時その時のはっきりした記憶はないんですが、そうしたことがあった人物として、ご主人を思い出したんです」  山代はその人物に憎しみの感情を懐いていたという自分の気持のことは話さなかった。 「それから、どこか判らない別荘で貴女が縁側に腰掛けていらっしゃる、そこの庭へ僕がはいって行ったと思うんです。何となく百日紅が咲いていたような感じで、夏のような気がします。それからもう一つは、これもどこか判らない夜の海岸を貴女と散歩した記憶です」  山代が言うと、 「それから——」  と陽子は表情を変えないで言った。 「それだけです」  山代が言うと、 「別荘の場所は?」 「いま言いましたように判りません」 「夜の海岸は?」 「それも判りません」 「別荘ではどういたしました?」 「その庭へはいって行ったような気がするだけです。そのあともその前も判りません」 「海岸では?」 「ただ二人で歩いていたと思うんです」  山代は言った。勿論、この山代の言葉は真実ではなかった。その時自分は陽子に自分の気持を打ち明けたのだ。山代はアパートで嘔吐感を感じた胸苦しい晩、自分と陽子とが演じた夜の海岸の一場の恋愛劇を思い出していたが、それについては触れなかった。陽子の口からいま自分の知りたいのはその恋愛劇の結末であった。それはどのような筋の展開をみせ、いかなる結末をとったのであるか。 「それだけ?」  陽子はこんどは顔を山代の方へ向けて、少し執拗な感じで、山代の眼を見入るようにした。 「そのほかでは波の音が聞え、いさり火が出ていたような気がします」  山代はそう言った。 「それだけ」 「それだけです」 「本当にそれだけでしょうか」 「それだけです」 「大変なことを思い出しませんわね。本当は思い出してるんじゃありません?」 「いや、思い出しません」  山代は言った。多少言い方が苦しかった。すると、陽子は突然笑い出した。いかにもおかしくて堪らぬといったような笑い方だった。 「わたしたち、確かに夜の海岸を散歩いたしました。貴方のおっしゃるように波の音が聞え、いさり火が出ていました。そこは伊豆の三津というところの海岸です」  陽子は言った。一瞬前狂ったような笑い声を口から出した女とは思えなかった。ひどく冷静で、抑揚というものを全く持っていない口調だった。 「ほう」  山代が言うと、 「わたしたち、一時間近くその海岸を歩きました。その時、貴方はわたしに何をお話しになったでしょう?」  最後の言葉は、質問の口調だった。山代が黙っていると、 「本当に覚えていらっしゃいません?」  と、こんどははっきりと訊いて来た。 「覚えていません」 「本当でしょうか。本当だとおっしゃっても、そんなこと信じられませんわ」  陽子は山代の方へ向き直り、それからこんどはいかなる表情の動きも見逃すまいとするように、山代の眼を見入った。 「いくら信じないと言っても、何も覚えていないんです。情けないことですが」  山代は言い切った。求愛の言葉を口から出し、接吻したとは言えなかった。そのことを実際に思い出しているのに、それを思い出していないと言うことは、明らかにその行為に対する自分の責任を曖昧にする卑怯なことに違いなかったが、しかし、山代はそうする気にはなれなかった。その行為が、そのあともその先きも断ち切れており、そこだけが浮き上がっている単なる記憶の欠片であるに過ぎなかったので、それに対して責任をとるといったような気持は不思議に起らなかった。知りたいのはそうした行為から引き起された恋愛劇の結末であった。 「では、その時、わたしたちが何をお話したか申しましょう。——お金の話をしておりましたの。わたし、その頃、ひどくお金に困っておりました。それを貴方にご相談するつもりで、伊豆の別荘に来て戴きました。主人の後川が貴方をこの家へお連れして来て、わたしは久しぶりで貴方にお目にかかったんですが、それからどのくらい経っていましたかしら」  陽子はここでちょっと言葉を切ったが、すぐ後を続けた。 「一晩、別荘にお泊りになりました。海岸をご一緒に散歩したのは、その夜のことです。わたし、東京で一応用件を申し上げておいてあったんですが、貴方は別荘へ来る時、そのお金を持っていらしっていました」 「ほう」 「貴方はただ呈上するとおっしゃる。わたしは戴くのは厭だ。お借りするのならお借りしたい。そういうお話を夜の海岸を歩きながらしました」  陽子は言った。 「ほう、そのお金というのはどのくらいの金額ですか」  山代は、口を挾んだ。 「かなり多額なお金です。額を申し上げなければいけませんか。もし、申し上げなくていいのなら申し上げない方が、いまのわたしとしましては有難いんです」  陽子は言った。 「——と申しますのは、わたしがなぜそのお金が必要だったかとか、そのお金の額がどのくらいであったとか、そうしたことは、山代さんが記憶を失ってしまった現在は、すべて消えてしまっておりますわ。もともとわたしと貴方の二人しか知らないことでした。しかも貴方が忘れてしまったいまは、わたし一人しか知らないことです。ですから現在はもはや個人の秘密になってしまっていると言ってもいいようなもので、開き直った言い方をすれば、申し上げるのも、申し上げないのも、わたしの一存で決めていいようなものではないかと思います」 「なるほど」  山代は頷いた。 「じゃ、お金の額は結構です。お訊きしないでおきましょう。そのお金を、僕がただで呈上すると言ったんですか」 「そうです。でも、わたしの方はお借りしたかったんです。ただで戴くのは厭でした。それでその晩は、そんなことを二人でお話しながら、夜の海岸を歩きました」  陽子はここでまた言葉を切り、山代の顔を窺いみるようにして、 「こう申しましても、お思い出しになりません?」 「思い出しません」  はっきりと山代は言った。金のことなど何も思い出さなかった。彼の覚えているのは全く別のことなのだ。 「結局、そのお金はどうなりました?」  山代が訊くと、陽子はちょっと考えていたが、思い切ったような言い方で、 「わたしはお借りするつもりで、そのお金を融通して戴くことにし、貴方は下さるおつもりで、それをわたしにお渡しになりました。お金の受け渡しをしたのは、海岸の散歩から帰ってからのことです。そしてその翌日、わたしが借用証のことを言いかけますと、ひどくお憤りになり、そのお金は実際にいまの自分には不用なものだからとおっしゃり、そして東京へお戻りになりました。それから今日まで、わたしは山代さんにお目にかかっておりませんわ。そのお金で、わたしは大変助かり急場を切り抜けることができましたので、お礼を申し上げたいと思っていましたが、その機会がありませんでした。山代さんが記憶喪失で入院していらっしゃることは人伝てに聞いていましたが、お見舞に伺うことは差し控えておりました」  女中が電話を知らせて来た。 「ちょっと失礼いたします」  陽子は話の途中で席を立って行った。  陽子が再び部屋に顔を出すまで、山代は一人で考えていた。陽子は自分が求愛したことと、二人が接吻したことについては、全然触れて来なかった。山代が記憶を失っているものとして、そのことについては触れないでおこうという態度をとっているに違いなかった。しかし、このことで、陽子を非難することはできなかった。  山代がそれについての記憶を持っていればこそ問題になるわけで、山代が記憶を失っているとすれば、それは陽子個人の秘密事項に属することに違いなかった。  陽子は金のことだけを話した。それは全く山代にとっては寝耳に水のことであるが、しかし恐らくそうしたことは実際にあったのであろうと思われた。陽子が嘘をつかなければならぬ必要というものは考えられなかった。貰ったのか、借りたのか、そこのところの甚だ曖昧な金のことなどをここに持ち出すことは、現在の陽子にとって、不利を招く心配こそあれ、一文の得になることでもなさそうであった。相手が忘れているというのなら、なるべく金のことは伏せておこうというのが普通であると思われた。  陽子は戻って来ると、前と同じように山代に横顔を見せて坐った。 「どうして、伊豆以来、僕は貴女にお目にかからなかったのでしょう」  山代は訊いた。 「さあ」  陽子は複雑な表情をしたが、 「ご自分のお気持がそういうものだったのだと思います。わたしに会ってはいけないというようなお気持に支配されていたんじゃないですか」 「なるほど」  山代は言った。これは充分考えられることであった。陽子に会ってはならぬということは、大阪時代から山代が自分に課していることであった。それなのに上京してから、彼女の夫と知り合いになり、彼女の夫を通じて、ついに陽子と会う機会を作ってしまったのである。そして陽子から金の相談を受け、自分は伊豆の別荘へ出掛けて行ったのであろう。そして夜の散歩で、あのようなことになった。その時、陽子はこれで終りか初めかというようなことを口走ったが、その言い方を以てすれば、ついに�終り�の方を選んだのであろう。そして自分は陽子のために金を融通してやり、再び会わないことを自分にも陽子にも宣言して別荘を去って行ったものと思われる。こう考えると、一応筋道はたつわけであった。 「大体判るような気がします」  山代は言った。そして陽子を見た。現在の陽子には何の感情も動かされなかったが、しかし、そこに居る女性は過去の彼を大きく支配した存在であったに違いなかった。  それにしても、曾て陽子に懐いていた感情はどこへ行って仕舞ったのであろうか。一人の女性に対する思慕が、いかなる操作に依って、掻き消すように失くなって仕舞ったのであろうか。  山代はまじまじと陽子の顔を見守っていた。自分でも礼を失した仕種であるとは気付いたが、陽子の顔のどこかにその秘密のからくりでも匿されてでもあるかのように、陽子の顔に眼を当てていた。  ふいに陽子の表情は動いた。山代の心の内部でも覗き見たように、 「わたしに、久しぶりでお会いになって、どのような気持をお持ちになります?」  陽子は訊いた。 「さあ」  間のぬけた返事であることは判っていたが、山代はそんな返事をした。 「幼い頃の貴女と、現在の貴女とはすっかり変ってしまったように思います」  するとすぐ、 「でも、お変りになったのは山代さんの方です。わたしの方は何も変りません。お変りになったとしたら、山代さんの方ですわ、きっと」  陽子は言ってから、少し弱々しく感じられる笑顔を見せた。 「それはそうですね」  山代は言った。三年間の記憶が失くなったことで、この女性に対して求愛した気持は、まるで変ったものになってしまったのである。 「お金のことですが」  山代は言った。 「二人の間の貸借関係というものはないと考えていいんでしょうね」  山代は、さっきひどく曖昧な口調で陽子が話した金の問題をはっきりさせておきたかった。 「さあ」  陽子は、また曖昧な言い方をした。 「お金のことは、いま申しあげたような事情です。山代さんからお金を戴いたことは事実です」 「僕は差し上げると言ったんですね」 「それはもう。——でも、わたしは戴くのは厭だったんです。戴いて、使ってしまったことも事実ですけど」 「いまは?」 「いまですか。いまは、どうでしょう。わたしは、いまとなれば反対に、戴いたことにしてしまいたいかも知れませんし、山代さんの方は、貸したことにしたいかも知れませんわね。お金の貸借問題っておかしなものですわ。いろいろなその時の気持に支配されていますので」  陽子は言った。ひどく素直な言い方だった。素直でなければ、もともとすべてを忘れている山代に金のことなどわざわざ持ち出す筈はなかった。 「僕が、その時差し上げると言ったのなら、それは当然、貴女に返却の義務はないでしょう」  山代は言った。 「そうでしょうか」  陽子は複雑な表情で言った。 「そうですよ」 「そうでしょうか。もし、そうして戴ければそれに越したことはありませんわ。それをお返しすることは、女のわたしとしましてはやはり大変なことですから」 「その時の僕が呈上すると言ったのなら、その時の僕の考えが先行しますよ。その時の僕と、現在の僕とは明らかに別個の人間ですから」  山代が言うと、 「また記憶をお取り返しになることだってありましょう」  陽子は言った。 「さあ。——それは、ないとは言えないかも知れません。しかし、まずめったにないでしょうね。かりにあったとしても、僕が貴女に金を呈上したという事実の記憶を取り返すだけのことでしょう」  山代が言うと、 「それはそうですわ。そうですけど、——」  陽子は、あとは何か考えるようにしていた。そして暫くしてから、 「そのお金を下さるその時の意味が生き返って参ります。いまは何もご存じありませんけど」 「何も知らなくても、大体判っていますよ」  山代は笑いながら言った。自分はこの女性に求愛し、唇を奪ったのだ。金を陽子に与えたという行為を支えていたものは、自分の陽子に対する愛情以外の何ものでもなかったに違いない。 「その夜の散歩までに、お会いした日数は何度ぐらいあったでしょう」  山代は改めて訊いた。 「主人が貴方を家へお連れした時が一度、それから銀座の喫茶店で一回お目にかかりました。その時、お金のことをご相談いたしました。最初の宅へいらしった時は、夕食を食べてお帰りになりました」 「銀座の時は、どういうわけでお会いすることになったんですか」 「その朝、主人が出勤したあと、貴方からお電話がありました。その時、わたしの方からお目にかかりたいと申しましたら、それなら銀座で会いましょうということになりましたの」 「銀座の喫茶店というと?」 「表通りの、よく名の知れているSというレストランの喫茶室です」 「そこでは、一体どんなお話をしたんでしょう。少し詳しく話して戴けませんか」  山代が言うと、 「でも、そのことは、お話できませんわ。いま、現在の自分と過去の自分とは別個の存在だということをお言いになりましたでしょう。銀座の喫茶店で話しましたことは、わたしと、もう一人の過去の山代さんとに関することで、第三者である現在の山代さんには関係のないことですもの」  陽子は言った。 「謂《い》ってみれば、わたしと過去の山代さんとの二人だけの秘密事項で、他の人には知られたくないことです」  陽子は冷然とした表情で言った。 「じゃ、そのことはお訊きしないことにします。そして、僕はお金を貴女に渡して、再び会わないことを宣言して帰ったというわけですね」 「ええ、極く大雑把《おおざつぱ》に申し上げればそういうことになります」 「そして、それ以後、今日初めてお会いしたということですか」 「そうです」 「いや、判りました」  山代は言ってから、ほかに何か質問することはないかと考えていたが、 「またお訊きすることを思いついたら、お電話ででも伺いましょう」  そう言って立ち上がった。 「よろしいじゃありませんか、まだ」  驚いたように陽子は言ったが、山代は外で自分を待っているつかさのことを思って、もうこの家を辞去せねばならぬと思った。  陽子も、それ以上引きとめなかった。山代が靴の紐を結んで、玄関の土間に降り立った時、 「どうぞ、くれぐれもお大事になさいませ」  と、陽子は言った。 「申し忘れましたが、ご主人はいつお帰りになります?」 「半年の予定で参りましたが、少し延びるかも判りません。五月頃になるかと思います」  それから陽子はちょっと眉を顰めて、 「もし、主人にお会い戴く場合は、その前に、わたしから山代さんに少し申し上げたいことがあります」  と言った。 「承知しました」  山代はそう言ってから、相手を安心させるために、 「ご主人のことは断片的に思い出していますし、ご主人と一緒にゴルフをやっていた時の、大体の自分の気持も判っています。めったなことはないと思います」 「いいえ、そんな」  ちょっとどぎまぎした感じで、 「結構でございます。——どうぞ」  と、陽子は言った。山代はそのまま玄関を出て、扉をうしろに閉めた。そして、なるほど、自分と彼女の主人が会うことは、陽子にとっては一つの問題であるに違いないと思った。自分は後川幹之助に対して、陽子と会うためだけの目的で接していたのに違いない。  門を出ると、急に陽の明るさが山代の眼に眩しかった。山代はつかさを探したが、つかさの姿はどこにもなかった。山代はさっきつかさが歩いて行った右手の方へ足を向けた。  山代が後川家から百メートル程行った時、横手の路地からつかさが姿を現わして来た。 「遅くなっちゃった」  山代が言うと、 「近くに公園がありますのよ。わたくし、そこへ行っておりました」  と、つかさは言った。そして、 「お探しになりました?」 「いや、いま出て来たところなんだ」  すると、つかさは時計を見て、 「もう一時間以上になりますわ。一体、何をお話しになっていらしったのかしら」  そう、軽く睨むような表情で言った。 「いろいろなことを質問して来た。いまそれを話すよ」 「それより、どんな気持がしました?」  まずそれを知りたいといったつかさの顔だった。 「別にこれといって、特殊な気持はないね」  山代は言った。 「でも、昔、好きだった方でしょう」 「うむ、確かに大阪時代は好きだったに違いないんだが、それが自分でもおかしいんだ。いまは道で初めて会った人と全く同じ気持」 「そんなことってあるでしょうか」 「あるから仕方がない」  二人はさっき歩いて来た道を、ぶらぶら引き返し始めていた。 「懐かしい気持はありませんでした?」  つかさは改めて訊いた。山代は考えるようにしていたが、 「ないな」  と答えた。実際に懐かしいといった気持はなかったので、ないと答えるしか仕方なかった。 「反対に、厭な気持は?」 「それもないな。厭でも嫌いでもない。全く好きとか嫌いとかいったことの対象ではないんだ」  すると、突然、 「わたくし、それ違うと思いますわ。過去において愛情を持ったという事実は、依然として貴方の記憶に残っているんですもの」 「僕は思うんだがね、大阪時代の僕と、現在の僕とはまるで違うんだ。その間に三年間というものがすっぽりと失くなっているが、それは単に失くなったというようなものでなく、その間に僕という人間を、全く変えてしまう作用をしている」  山代の言葉には何の誇張もなかったし、いささかの偽りもなかった。 「大阪時代の僕と、記憶を失くした中にいる僕と、それから現在の僕と、この三人の人間はどうやらみんな違うようだ」  山代は自分の顔が、自然に泣き笑いの表情をとるのを感じていた。八束陽子という一人の女性に対する自分というものを考えてみると、確かに三人の違った自分が居るようであった。 「とにかく、後川家でどういう話をしたか、それを話そう」  山代は言った。つかさは黙ったまま、山代と並んで歩いていた。  山代は八束陽子と会っていた一時間のことを、ありのままつかさに報告した。ただ八束陽子にも語らなかったことは、つまり自分が伊豆の海岸で彼女に求愛した恋愛劇の一場面は、やはりつかさにも伏せておいた。たまたま自分がその箇処の記億を取り返したればこそ、自分の過去の一部に組み入れられているものであった。自分が思い出さないことにしていれば、それはそのまま曾て起らなかったこととして葬り去られてしまう筈であった。知っているのは八束陽子だけであったが、現在の場合、彼女もそれに触れなかったくらいであるから、なかったことにしておきたい気持を持っているに違いなかった。 「どうして、お金のことなど、訊かれもしないのに言い出したのでしょう」  つかさは言った。 「何もかも話してくれと、こちらで言ったので、話さなければいけないと思って話したのではないかな」 「でも、変な気がしますわ。幾らか金額は言わないんでしょう?」 「なるべくなら、言いたくないと言うんだ」 「都合の悪いことは言わず、都合のいいことだけを話したいのでしょうか。わたくし、そのお金の額は、ずいぶん多いんではないかと思います」 「そう思うね。例の三千万円の金を欲しかったのも、彼女にそれを融通するためだったかも知れない」  山代が言うと、 「それをただ上げるとおっしゃいましたのね」 「そういうことらしい」 「ずいぶん気前がいいですね。偽作を売ってまでして、その方にお上げになりたかったのかしら」 「全くだね。金を渡して、あとは会わないと宣言したということは、それで自分の気持をすまし、あとはきれいに清算しようとしたんだと思うね」 「きれいかどうか、そんなこと判りませんわ」  つかさは言った。 「なんでも、ご自分のことをきれいにお考えになるところがあるから嫌い。以前の山代さんって、別にそんなにきれいではありませんのよ」 「判った、判った」  笑いながら、山代は言った。 「大金をただで上げて、それであとは身を引こうなんて、一体何をなさっていたのかしら。——八束陽子さんって方、結局は何も本当のことはお話していないと思いますわ。いまに記憶が戻ったら、何もかも判明する。それまでは黙っておくに限る。そんな気持ではないのかしら。やはり、わたくしが一緒について行って、立ち会ったらよかった!」  つかさは言った。言って暫くしてから、 「まあ、これで堪忍して上げましょう」  それから初めて山代の方へ笑顔を向けた。  つかさの言い方がおかしかったので、山代も一緒に笑った。 「でも、人間のしていることってつまりませんのね。ひとりの人間がひとりの人間の心に植え付けたものって、そんなに跡形もなくなって行くものなんでしょうか」  こんどはつかさは真面目な口調で言った。そう言われると返す言葉はなかった。山代は曾て自分の総てを支配した筈の八束陽子の前に立った時の自分を思い出していた。会っている間中何の気持の昂ぶりもなかった。曾て陽子に対して持った血の騒ぎは、完全に死んでいると言うほかはなかった。 「何と言われても仕方ないね。全く無関心なんだから」 「もし記憶を取り戻したら、こんどは向うが生き返って、わたくしの方が無関心に見えて来るんじゃありませんかしら」 「そんなばかなことはない」  山代は強く言ったが、しかし、厳密に言えば、そうなった時初めて判ることで、そうなってみなければ判らぬことであった。現在の山代が、自分の気持で、そんなばかなことはないと、単に強く否定するだけのことであった。 「とにかく、会わなかったより会った方がよかったと思うね。会うまでは会ったらどんなになるか見当が付かないで、不安だったが、一応、過去の自分というものの見当が付いた」 「それはそうでしょう」 「記憶を取り戻さない限り、過去の自分というものは、現在の自分とは全く無関係なんだ。別人だ。何をしているか判ったもんじゃないが、しかし、それはいまの僕とは無関係な人間がしたことなんだね。そう思うより仕方がないね。セザンヌの偽作事件も、そう考えれば、たいして怖がることはない」 「ずいぶん都合よくできていますわ」  つかさはまた笑いながら言った。  二人がアパートの坂の途中まで戻った時、建物の前をぶらついている佐沼の姿が見えた。佐沼はこちらの二人を認めると、すぐ自分の方から歩み寄って来た。 「すみません、留守しまして」  山代が言うと、 「帰ろうか帰るまいか迷ったんですが、帰らなくてよかった」  佐沼は言った。五分程前に来たのだということだった。 「どうです、その後は」  佐沼は患者を診る医者の表情で訊いた。 「お蔭さまで、もうすっかりぴんぴんしています。今日は過去の幽霊にひとり会って来ました」  山代が報告すると、 「完全な幽霊じゃないんです。正確に言いますと、半幽霊」  つかさが横から付け足した。 「半幽霊? 半幽霊というのはどういうの」  佐沼には意味が判らないらしかった。 「半幽霊か、なるほどね」  山代の方は感心した言い方をして、 「厳密に言うと、まさしく半幽霊なんです。失くなっている過去三年の間に知り合った人物は、これは完全な幽霊です。いつか病院で会った洗濯屋夫婦も、額縁屋も、完全な幽霊です。先方は知っているが、こちらは知らない。——しかし、今日のは違います。大阪時代の知人で、僕が記憶を失くしている東京時代にも交渉を持っています。洗濯屋や額縁屋の場合とは違って、こちらも相手を知っています。しかし、東京においての交渉は判らない」 「なるほど、半幽霊ですね、それは」  佐沼は笑いながら言った。 「しかも美人の幽霊ですのよ、その方」  つかさがまた横から口を出した。 「半幽霊で、美人?」  佐沼はクイズでも解くような言い方をしたが、急に表情を固くすると、 「ああ、山代さんの例の問題の愛人ですか。その人に会いましたか。それは面白い。面白いと言っては失礼ですが、僕たちにとっては興味ある問題ですよ。どうでした、会ってみて」 「どうと言いますと?」  山代が言うと、 「ざっくばらんに言って、嬉しかったですか、懐かしかったですか、それとも——」 「なんでもなかったです」  山代は無愛想に答えた。 「なんでもないことはないでしょう」 「いや、なんでもなかったです。無関心です。なんとも思わないし、なんとも感じない」 「それは変ですね。そういうことはない筈ですがね」  佐沼は真顔で言った。 「わたくしもそう思うんですけど」  つかさは佐沼に調子を合せてから、 「お部屋へはいりましょう。こんなところでお話していないで」  と言った。  三人はアパートの山代の部屋にはいった。つかさは直ぐお茶の支度をするために調理場へはいって行ったが、佐沼は椅子の一つに腰を降ろし、山代が自分の前に坐るのを待って、 「変ですね、それ。本当に何も感じませんでしたか。いくら三年のブランクがあっても、以前惹かれていた人であったら、やはり多少の——」  と言いかけると、それを遮るように、 「いや、何でもなかったです」  と、山代は言った。山代は自分が不機嫌になって行くのが判った。何となく八束陽子のことを話題にされるのは不快であったし、その上好きでもないのに、好きだと押し付けられているようで厭だった。 「何でもないと言っても、それはどの程度です」  佐沼は、また訊いた。 「何でもないということは、本当に何も感じないことです」  と山代は答えた。 「何も感じない!?」  佐沼はもっと詳しい説明を欲しいらしい面持ちであった。 「喫茶店でお茶を運んで来る女の子を見て、別に何も感じないでしょう。あれと全く同じですよ。向い合って話をしていても、何も感じない」 「久しぶりだったな、というような気持もなかったですか」 「ありませんね。そう言えば長く会っていなかったな、というような極く軽い気持なら、あるいはあったかも知れません。しかし、それも、いま自分の気持を振り返って、いろいろと考えてみての上のことです。何も感じなかったという方が自然です」 「なるほど、そういうものですか。不思議ですね。そういうことがあるんですかね。昔惹かれていた女性に会っても」  そこへ、つかさがお茶を運んで来た。つかさも二人の話を聞いていたものと見えて、 「先生の専門の方からみると、そういうことは解釈がつくんでしょうか」  と、口を差し挾んだ。 「さあ。こういう例は初めてでしょうね。記憶を喪失している期間のことでしたら、本人が覚えていないことですから、当然ですが、山代さんの場合は、記憶喪失期間を隔てたその向うの時期のことですからね。しかも、極く単純な好きとか嫌いとかいった感情です。そうした感情が過去に於て烈しく燃え上がっていたのに、それが完全にいま死んでいる」  佐沼は考え込んでいたが、 「こうした現象を招来する場合を仮定すると、失われた記憶の中で山代さんの相手に惹かれていた気持が死滅するような事件があったということでしょうか。つまり山代さんは東京へ出てからその女性に会い、何かの事件で、いっぺんに惹かれていた気持が醒《さ》めてしまった」  佐沼は言った。 「そうとでも考える以外、説明がつきませんね。そう考えれば、一応の解釈はつくと思います。山代さんは、自分の相手の女性に対する気持を一変させるような事件に遇った。が、いま、その事件の方は忘れている。失われた過去の中にすっかり埋没してしまっているわけです。しかし、その感情の方はその時以来山代さんにくっついている。だから、その女性に会っても、山代さんは何も感じないんです」  佐沼は言った。 「そういうことだとすると、何かあったのかな」  山代は苦笑して言った。 「今日その人物に会って、何か思い当ることはなかったですか」 「ありません。一応全部聞いたんですが、別に、これと言って——」  山代が言うと、つかさが、 「ですから、わたくし、さっき言いましたでしょう。向うの方は、何もお話になっていないと思うんです。山代さんが思い出すまでは伏せておこう。きっとそういう気持じゃないかと思いますわ」  そう、山代にとも、佐沼にともなく言った。山代は、しかし、そうしたことにさして関心は持たなかった。どんな事件があったか、なかったか知らないが、そんなことはどうでもいいではないかといった気持だった。そうしたことを詮索《せんさく》する気になれなかった。 「僕は相手に会って何も感じないと言いましたが、全く何も感じないんです。なるほど佐沼先生のおっしゃるようなことがあったかも知れません。しかし、そんなことはどうでもいいという気持です。もし事件があったとしたら、僕の気持をひどく無関心にしてしまう事件でしょうね。しかし、そんな事件ってあるものでしょうか。相手に鉄の棒ででも殴られれば、その瞬間、僕の頭の中へ無関心がとび込んで来るかも知れない」  山代は言った。冗談とも真面目ともつかぬ言い方だった。それは佐沼にもつかさにも判らなかったが、それは当然のことで、当の山代自身にも判らなかった。ただ妙に物悲しかった。  あ る 関 係  山代がつかさと一緒に、セザンヌの絵を所蔵している村木家を訪ねたのは、ひどく寒い日であった。山代が村木の家を訪ねるのは三回目であったが、つかさは四回目であった。あいにく村木は外出間際で、二人は村木と玄関先きで立ち話をした。 「絵はその後変りないでしょうね」  山代が訊くと、 「あれからも何回もいろいろな画商に見せましたが、やっぱり真物に間違いありませんよ。この間、これを私のところへ持ち込んだ大阪の南泉堂の主人も来ました。彼も噂を知っていましてね、よかった、よかったと祝いを言ってくれました。南泉堂の主人も私のところへ持ち込む時は多分真物だろうぐらいの気持で持ち込んだのだそうです。正真正銘の真物だということが判っていれば、値段はもっとずっと高かったということです。カンバスの裏にパリでの所蔵者の名が書かれてあるのが見付かったことが、まあ一つの決め手となったわけですよ」  村木は、セザンスの絵の話をしているうちに、みるみる上機嫌になって行った。 「それはよかったですね」  山代が言うと、 「南泉堂も、貴方も、まあ、この絵には縁がなかった。縁がないということは仕方のないことですよ」 「その南泉堂さんの前の所蔵者は、東京の三松さんというブローカーでしたね。そしてその前が確か郷倉生命の郷倉さん」 「そう、そうです。この前、貴方が来られた時郷倉さんに電話しましたが、その時の話では、郷倉さんは貴方から買ったと言っていましたね。——貴方は病気で記憶されていなかったが」  ここでちょっと言葉を切って、 「ご病気の方はいかがです。よくなられましたか」 「よくはなりませんが、もうこうしている分には不自由ありません」 「すると、まだ記憶は戻りませんか」 「戻りません」 「ほう、それは厄介ですな」  村木は改めて山代の顔を見守るようにした。 「今日お伺いしたのは、実は郷倉さんに紹介して戴きたいんです。郷倉さんがおっしゃるんですから、間違いなく、私は郷倉さんにセザンヌの絵を売り付けたに違いありません。しかし、何分、記憶が失くなっているので、お会いしても、私の方は初対面も同じだと思うんです。私も話すのに困りますし、先方でも気味悪く思われると思います。それで一応紹介して戴けないかと思いまして」 「よろしい。紹介しましょう。紹介状より電話の方がいいでしょう。掛けますよ、すぐ」  それから、気になるのか、 「郷倉さんに会ってどうなさる?」  と言った。  村木は、山代が郷倉と会うということの目的が、多少気がかりでないこともないといった様子であった。何分、山代も郷倉も共にセザンヌの絵には縁がなかった人物で、いったんは自分の手の中に入れておきながら、それを手放してしまっていた。謂《い》わば大きな幸運を取り逃した不運同士である。  その不運同士が会うということは、幸運を独占した村木にとってみると、一体何のために会うのだろうといった気になるものがあるようであった。いまさら言いがかりでもつけられたら厄介である。そうした気持があるらしかった。  そうした村木の気持の動きが山代にはすぐ見て取れたので、 「私が郷倉さんに会うのは、自分の失くなっている過去のことを知りたいためです。セザンヌの絵のことには無関係です」  山代が言うと、 「ああ、そうですか。——過去を知りたい!? なるほどね」  村木は、単純な性格をそのまま顔に現わして、痛ましそうな表情で山代を見ると、 「大変ですな、貴方も」  と言った。それから、 「じゃ、ちょっと待って下さい。郷倉さんのところへ電話を掛けておきましょう」  そう言って、村木は奥へ引込んで行った。  山代とつかさは五分程、玄関の土間で待たされた。やがて、村木は出て来ると、 「いつでもいらしって下さいと言っていましたよ。——過去の記憶が失くなっていることを、一応説明しておいたんですが、どうも、よく判らんらしい。なあに、会えば判る、そんなことを言っておられました」 「弱りましたね」  山代は苦笑した。 「いまは日本橋の会社の方へ電話したんですが、今日は夕方までずっと会社の方に居るそうです。明日は会社へは出ないで、目白のお宅の方に居るらしいです」 「承知しました」  山代とつかさは、すぐ村木家を辞した。往来へ出ると、 「郷倉さんという人物と、例の崖の上の老人があるいは同一人物かも知れないという気持があったが、これは全く見込み違いだったね」  山代は言った。 「ほんとですね。わたくしも、もしかしたら同じ人ではないかと思っていました。が、違うとなると、少し混み入ってしまいますわ。崖の上の老人に、セザンヌの絵を売り付けたことも事実でしょう」 「間違いないと思うね。この方は僕の頭の中に残っているんだから」 「それからまた、郷倉さんにも売っているんでしょう」 「そういうことらしいね。郷倉さんの思い違いでなければ」  山代は言った。 「変ですわ」  つかさに言われるまでもなく、それは山代にも理解しがたいことであった。 「しかし、まあ、こう考えれば筋道はたつ。つまり、セザンヌの絵を崖の上の老人に売る。ところが何かの問題が起って、それを買い戻し、次に郷倉さんに売り付ける」  山代は言った。そうとでも考えるしか仕方がなかった。 「わたくしも、いま同じことを考えていたんです。それしか解釈つきませんものね。——そして、その時、真物と偽物が入れ代ったんでしょうか」  つかさは、歩きながら、山代の顔を覗いた。 「それは判らんね。真物と偽物の問題は一応切り離しておいて、とにかく、郷倉さんに会ってみよう」  山代は言った。二人はその足で日本橋の郷倉生命ビルに社長の郷倉を訪ねてみることにした。  田園調布からバスで渋谷に出て、それから地下鉄に乗った。日本橋で地下鉄を降りたが、地下から路上に出たところで、山代は声を掛けられた。 「山代さん」  ひどく太い声だった。振り向くと、四十年配の男が立っていた。肩幅の広いがっちりした体を持った人物で、幾らか眼が鋭かった。サラリーマンの感じではなく、土木業の請負《うけおい》師とでもいった風采だった。相手は近寄って来ると、 「山代さんですな」  と、念を押すように言った。 「そうです」  山代は相手について全く記憶を持っていなかった。 「探しましたよ、やっと捉まえた」  それからつかさの方へ視線を投げたが、すぐそれを外すと、 「ここに待ってて下さい。いま連れがあるから、それと別れて来る」  相手は言ったが、それを追いかけるように、 「ここに居て下さいよ。逃げられたら困る。——どこか喫茶店ででも話しましょう。いいですね。ここに居て下さい」  男はそれだけ言うと、舗道の人波に眼を当てていたが、直ぐ大股に向うに歩いて行った。 「逃げよう」  山代はつかさに言った。ひどく不安だった。 「どういう方?」 「知らん。——しかし、とにかく、逃げよう」  山代はすぐ男が去ったとは反対の方向に足を踏み出した。そして前を歩いて行く男女の間を擦り抜けるようにして、二十メートル程歩いて行き、路地があったので、そこを曲った。  山代はその路地を少し歩いて行って、また曲った。山代は逃げなければならぬと思った。途中で立ち停まったが、つかさの姿は見えなかった。どこかではぐれてしまったのである。  山代はまだ不安を感じていた。つかさと別れてしまったことが気がかりではあったが、とにかく、この附近から遠ざかってしまった方が安全な気がした。  山代はなお二つ程路地を曲った。すると広い表通りへ出た。そこで山代はすぐタクシーを捉まえると、それに乗り込んで、 「渋谷へたのむ」  と言った。くるまが動き出してから、山代はほっとした。渋谷と言ったのは渋谷という場所が銀座界隈と同じように山代にとっては記憶のある場所であったからである。どこを歩いても何となくその土地柄に親しみがあって、初めてのところを歩いている感じはなかった。ところが、日本橋となると、全く初めての場所へ足を踏み入れた感じで、そこにある通りにも、ビルにも、店舗にも、それから街の持つ表情全体にも、記憶というものは全くなかった。  東京に三年生活していたのだから、日本橋というところにも足を踏み入れていたに違いなかったが、どういうものか、全く親しさを感じなかった。山代には、街全体が自分を拒否しているように感じられた。そうした不安を感じている時、いまの事件は起ったのであった。自分の知らない街をうろうろしていると、ろくなことはないと思った。  くるまに揺られながら、山代はなぜあの人物に話しかけられた瞬間、大きな不安が自分を鷲掴みにしたのであろうかと思った。なるほど相手の人物の人相は余りいいとは言えないものだったし、言葉遣いも荒っぽいものだった。しかし、だからと言って、相手を自分に危害を加える人物と断定してしまうことはできなかった。自分に悪意を持つ人物なら、却ってあのようなざっくばらんな言い方はしないかも知れない。  どうして自分は逃げ出してしまったのであろう。矢も楯《たて》もたまらず、自分は逃げ出さなければならぬと思ったのであり、そして実際に逃げ出してしまったのである。冷静になってみると、山代にも自分の取った行動がとっぴなものに思われた。逃げ出さなければならぬ、これと言ってはっきりした理由はなかった。  山代は、しかし、だからと言って、いまの人物に改めて会うかどうかと言うと、やはり会う気にはなれなかった。堪らなく無気味であった。過去が突然顔を出し、向うから取り縋《すが》って来たようなものである。同じ過去の欠片にしても、こちらから働きかけて行く場合はさほど無気味さはなかったが、何の前触れもなしにいきなり取り縋られると、そこから逃げ出さずにはいられなかった。  気温も落ちていたが、寒さのほかに悪寒《おかん》が山代の体を細かく震わせていた。山代はどこかで酒でも飲んでみようかと思った。酒を飲みたいと思ったのは、記憶喪失患者になって以来初めてのことであった。  山代は渋谷でタクシーを捨てると、駅附近の喫茶店へはいった。昼間のこととて酒を飲む場所はなかったので、喫茶店へはいる以外仕方なかった。小さい店で、店の内部では三組の客が薄暗いボックスで、申し合わせたように低い声で囁き合っていた。店内を見渡したところ、アルコール類など置いていそうには見えなかったが、山代はためしに、ウイスキーがあるかどうかを訊いてみた。 「ありますが、何にいたしましょう」  女の子は言った。何にするかと言われても、山代はウイスキーの名前を口にすることはできなかった。 「何でもいい」  山代は言った。そして、言ってから、ウイスキーにはいろいろの種類があることに気付き、その名前を一つでも思い出そうとしたが、いかなる名前も頭に浮かんで来なかった。  山代は運ばれて来たウイスキーのグラスを口に当てた。或いは口が受け付けないのではないかと思ったが、そうした心配は不要で、アルコールが芳香と共に、口の内部にひろがって行くのが快かった。  山代は二つ目のグラスを注文した。体も温まるし、悪寒もアルコールに吸いとられて行くようで、久しぶりでウイスキーのうまさを思い出した気持であった。  三十分程で、山代はその喫茶店を出ると、タクシーでアパートに帰った。部屋にはつかさが待っていた。 「ああ、よかった、お帰りになって」  つかさは山代の顔を見るなり言った。よほど心配していたらしい様子だった。 「いきなり逃げ出してしまうんですもの、驚きましたわ」 「何か無気味だった」 「何が無気味だったんでしょう。親切そうないい人でしたのに」  つかさの言葉は山代には意外だった。 「ごろつきみたいに見えたんだ」  山代が言うと、 「まあ」  と、つかさは驚いて、 「そんなことありません。よほど親しい人じゃなかったかと思います」 「眼が凄かった」 「そうかしら。——そんなことありませんわ」 「何かゆすられでもしそうな気持だった」 「そんなことないと思います。あの方、山代さんに会えた嬉しさが顔にまで出ていましたもの」 「そうかな」  つかさに言われると、山代は急に自分の受け取り方が自信のないものに思われ出した。自分はあの人物からつかさが受け取ったものとは反対のものを受け取っている。山代は急に自分というものの総てが信用できなくなった思いだった。 「変だな。僕の方が間違っているかも知れない。間違っているとすると、甚だ自分というものが信用できなくなるわけだね」  山代は言った。 「お顔が真赤ですわ。どうしたのでしょう」  さっきから山代の顔を見守り続けていたつかさが言った。 「ウイスキーを飲んだんだ」 「まあ」 「厭な気がして、堪《たま》らなく酒でも飲んでみたかった。それで渋谷で喫茶店へはいって、ウイスキーを小さいグラスで二杯飲んだ」 「まあ。——で、どうでした、味は?」 「うまかった」 「おいしかったことはよかったと思いますわ。ウイスキーの味が判ったんですのね」 「判ったと思うね」 「でも、顔は赤と白のぶちになってます」 「ぶちに!?」 「ええ、本当です」  山代はつかさの傍を離れると、すぐ洗面所へはいって行った。鏡に映った顔を見ると、なるほど赤と白の斑点が顔を埋めている。  山代はいままでに自分のこのような顔を見たことはなかった。記憶を喪失して以来、体質が変ったのかも知れなかった。そうだとすると、自分の体まで信用できなくなったような気持だった。  部屋へ戻って来た山代に、 「ね、大変なことになっているでしょう。お酒上がらない方がいいですわ。もう、味の方は験してみて判ったんですから」  つかさはそんなことを言った。  翌日、つかさは午刻頃、アパートヘ顔を出した。きのう訪問を途中でやめてしまった郷倉生命の社長の郷倉を改めて訪ねて行くためであった。  村木に電話を掛けて貰った時、きのうなら一日会社に居るが、きょうなら自宅の方に居るということだったので、二人は目白の郷倉邸の方へ出向いて行ってみることにした。  途中の電車の中で、 「おひとりでお会いになりたいんなら、おひとりでもいいんですよ。わたくし、また郷倉さんのお宅の近くに待っています」  と言った。 「いや、一緒に会って貰おう。郷倉さんの言うことを間違って受け取ったら大変だからね」  山代は言った。ひとりで会う自信はなかった。 「そんなことはありません。きのうの事件は、突如見知らぬ人から話しかけられたので、あんなことになったんですわ」  慰めるようにつかさは言ったが、しかし、つかさとしても、自分が山代に附き添って行くことを望んでいるように見受けられた。  郷倉邸は、目白駅から歩いて五分程のところにある住宅地区の一角にあった。純然たる日本風の家で、二人はすぐ広い芝生の見える座敷に通された。家の内部の空気は、何となくひんやりと冷たかった。  山代とつかさはきちんとして坐っていた。立派な座敷に通されたので、自然に居住居を正さないではいられなかった。広い部屋に小さい電気ストーブが一個あるだけで、部屋の隅々から寒さが立ちのぼって来ていた。  中年の女中に依って茶が運ばれて来てから、暫くして、主人の郷倉がはいって来た。歌舞伎の老俳優にでもありそうな細面の整った顔をした人物で、卓を隔てて向う側に坐った恰好は隙のない感じだった。 「郷倉です」  主人は言った。 「山代です。お忙しいところを突然お邪魔いたしまして」  山代が挨拶すると、つかさも一緒に頭を下げた。 「きのうですか、村木さんからお電話戴きました。きのう来られるかと思って、会社の方でお待ちしていたんですが」 「お伺いするつもりで日本橋まで出向いたんですが、已《や》むを得ない用件で引き返しました。御迷惑おかけしました」 「いや、迷惑といっては、別に。——きのうは、どうせ一日中会社に居なければならなかったんです」  それから少し表情を改めて、 「記憶を失くされたんですって」 「はあ。変なことになりまして」 「私を覚えておられませんか」 「はあ」 「全然?」 「はあ」 「いま村木さんのお宅にある絵を、ここへ持ち込んで来られたことも覚えていませんか」 「はあ」 「全然?」 「何も覚えていません。それでその前後の事情をお訊きしたくて伺ったわけです」 「なるほど」  郷倉は煙草に火を点けると、 「何も覚えていないとは、さっぱりしたものですな。勿論この家のことも記憶にありませんな」 「ありません」 「何か一つぐらい記憶にあることはありませんか」 「ありません」 「それは困りましたな。困ったと言っても、別に私が困るわけではないが」  郷倉はそんなことを言って、 「この方は?」  と、つかさの方を眼で示した。つかさという女性がいかなる立場の女性か、それを一応知っておこうというつもりらしかった。山代は、もと画廊の仕事を手伝って貰っていた女性で、その当時のことは自分の記憶にないが、発病以後、何事につけて世話になっていると、一応つかさのことを説明した。 「判りました」  郷倉は言ってから、また改めて感心したように、 「何もかも忘れた! ほう、なるほど、ね」  と言った。 「去年の秋頃でしょうか。誰かの紹介で貴方から電話があった。貴方のやっておられた画廊のことは、何となく知っていましたし、元来絵が好きな方ですから、私が電話口ヘ出ました。すると、セザンヌの絵が手許にあるが、見てくれないかということでした。それで見ようということになり、それから二、三日してから、貴方が絵を持ってここへやって来られた」  郷倉は抑揚のない口調で話し出した。 「誰かの紹介とおっしゃいましたが、誰の紹介だったでしょう」  山代は言葉を差し挾んだ。すると、郷倉はちょっと曖昧な表情をしたが、 「女の人です、記憶ありませんか」  と言った。 「ありません」 「以前、極く短い期間ですが、映画に出たことがあるとかいう女の人です。もちろん、有名ではないと思います。記憶ありませんか」 「判りません」  山代は答えた。 「判らん? 本当に何もかも判らんのですな。とにかく、その人からの紹介です。私はその女性に前に一、二度会ったことがあり、多少その人物について知っていたんですが」 「何という人でしょう」  つかさが初めて口を開いた。 「さあね」  郷倉はまた煙草に火を点けた。そして、 「その女性をお知りになりたいですか。勿論申し上げてもいいわけですが、しかし、さっきから、お話していて、ちょっと変な気がしているんです。山代さんはみんな忘れておられる。忘れているままにしておく限り、過去がないということですな。そういう状態のところへ、私がお話すると、話したことがみんな山代さんの過去になって行く。私が山代さんの過去を作って上げるようなものですな。そりゃあ、人間だから、過去の中にはいろいろなものが、いいことも悪いことも埋まっていますよ。なかった方がいい過去なら、ないままにしておく方がいい。——そうでしょう?」 「それはそうですが」  山代は郷倉の顔に眼を当てていたが、 「私も自分という人間は、いろんなことをしていると思うんです。しかし、一応自分が何をやったか、自分のやったことを知っておきたいと思います。そうしないと、いつでも過去に脅かされていなければなりません。人から話しかけられると、いきなり逃げ出さなければなりません。きのうもそういうことがありました」  山代はきのうの事件を、かいつまんで郷倉に話した。それを聞き終えると、 「大変ですな、貴方も」  と言って、 「しかし、ですね」  郷倉は茶を運んで来た女中にウイスキーを持って来るように命じた。 「しかしですね。いまの場合、貴方の過去を作る役割を受け持っているのは私です。貴方の過去を作る、作らないということには、私も多少の権限があると思うんです。いまの女の人の名前を言う、言わないは、さしてそんな重大な問題ではないと思います。言ってもいいし、言わなくてもいい。どうしても言ってくれとおっしゃるなら言いましょう。しかし、貴方の過去を作るということは、この場合、同時に、その女の人の過去も作るということです。女の人は、貴方と違って、ちゃんと記憶を持っています。しかし、貴方が忘れているなら、女の人も過去を持っていないと同じことだと思うんです。——たとえばですね。甲が乙と喧嘩した。ところが甲はその記憶を失ってしまった。その場合、乙は甲と喧嘩したことを憶えている。しかし、甲が記憶を持っていない限り、甲と喧嘩したという事実は意味を持たなくなりますよ。相手を憎むことも意味を失うし、相手に謝罪させることもナンセンスです」  郷倉は、女中の運んで来たウイスキーを、三つのグラスに注いだ。山代には郷倉という人物が、自分に気に入った話には饒舌になる人物であるように見えた。近頃にない興味ある話題にぶつかったといった楽しそうなものが、喋るにつれ、少しずつ郷倉の機嫌をよくしつつあった。 「ね、そうでしょう」  郷倉はウイスキーを二人に勧めた。 「ですから、貴方の過去を作ると同時に、女の人の過去も作るわけです。厳密に言えば、貴方の自由になるべきものではない。その名前を喋る、喋らないには当然、私の考えが主導権を持つべきでしょう」 「はあ」  山代は頷いた。少からず議論のための議論というところが感じられるが、いまの場合、相手の言うことを傾聴する以外仕方なかった。自分を老人に紹介したという女の名前を言うも、言わないも、確かに老人の考え次第であった。 「結構です。その女の人の名前のことはお任せします。話して戴けようと、話して戴けまいと、まあ、それはそちら次第ということに致しましょう。ところで、セザンヌの絵ですが、僕はどのような態度で、それを持ち込んで来たでしょう。そのことを伺えませんか」  山代は話を進めた。この方が肝心だった。 「そうですな。非常に売り急いでいました。その点が、どうも、私には信用がおけない気持でした。それからその絵の出所をはっきりさせませんでした。どうせ、誰かが持っていたものに違いない。しかし、誰が持っていたかということは一切言わなかった。所蔵者が急に金に困って売りたがっているのだが、所蔵者の希望でその名を明らかにするわけには行かない。こう言われた。ですから、買うことは買ったが、どうも不安なので、少し損をして、すぐ手放してしまったわけです」  郷倉は言った。 「私を紹介して来たという女の人は、どんな紹介の仕方をしたのでしょう」  山代が訊くと、 「それは至極ありふれた紹介の仕方でした。自分がよく知っている信用できる人物だから会ってやってくれないか。そしてその上でもしできるなら仕事を応援してやって貰いたい。絶対に間違いはないと思うが、もし間違いがあったら自分が責任をとる。大体こんなことを電話で言って来ました」  郷倉は言った。 「その女の人の言ったことを信用なさいましたか」 「信用しました。信用できる人物でしたからね」 「金額は?」  また山代は訊いた。 「初め三千万と言っていました。——何も覚えていませんか」 「覚えていません」 「記憶を喪失しておられることは知っているんですが、ご本人を前にして、ご本人が話されたことを喋るんですから、どうも難しい」  郷倉は笑いながら言って、 「初め三千万円と言っていましたが次第に値段を下げて、最後に話の纏まった時は二千万円でした。こういうところから考えると、売ることを非常に急いでいたと思うんです」 「なるほど」 「それから二、三日後に金の受け渡しをすることにし、貴方は絵を置いて帰られました。その二、三日の間に、私は親しくしている画商何人かに絵を見て貰いましたが、誰にもよく判らない。いいもののようにも思われるし、何となくくさいとも思われる。実際に画商にも判らない。で、私は私の一存で買いました。買いましたが、どうも一点不安な気持があるんで、暫くして手放したというわけです」 「じゃ、絵を持って伺ってから二、三日して、お金は戴いたんですね」 「上げました。小切手で」 「私が戴きに伺いましたか」 「いや、貴方を紹介して来た女の人が、貴方の代理として受け取りに来ました」  郷倉は言った。この時だけ、山代は心なしか、郷倉の眼が光ったように思われた。 「ほう、その女の人が受け取りに来ましたか」 「そうです」 「誰ですかな、一体」  山代は言った。すると、つかさが、 「お訊きしないでおくことになったんですから、いいじゃありませんか」  と言った。その口ぶりからして山代は、つかさがすでにその人物が誰であるかを知っているのではないかと思った。  女中が電話が掛かって来たと言って、郷倉を呼びに来た。郷倉が部屋を出て行くと、山代はすぐ、 「女の人って、誰か判る?」  と訊いた。 「判りませんわ。ご本人の山代さんでさえ判らないんですもの」 「全然判らん?」 「ええ」  そう言ってから、つかさは、 「ただ、わたくし、何となくお月見の方ではないかと思いますの」  と、低い声で言った。 「どうして?」 「どうしてということはないんですが、そんな気がします。厭ですわ。お金を受け取らせたり、お月見に会う約束なさったり——」  つかさはつんとして横を向いた。山代はつかさが持って来た観月の夜伊豆で会う約束をした女の横顔の写真を思い浮かべていたが、それに対しては、依然として心の動きはなかった。 「そうかな。そんなことあるかな」 「きっと、そうですわ」 「どうして、郷倉さんは名前を言わないんだろう」 「言ってはいけないことがあるから」  つかさが、ぴしゃりと言った時郷倉が部屋へはいって来た。郷倉は自分の席へ坐りながら、 「いずれにしても、真物とは驚きましたな」  と言った。 「いつか村木さんからの電話で、あれが真物だと聞かされた時は、正直に言って、しまったと思いましたよ。——村木さんは悦んでおられるでしょう」 「どうも不思議なんです。私も偽作を売ったような気がするんです」 「そのことも、村木さんから聞いたんですが、何にしても、奇妙なことですな。売ったご本人が偽作を売ったような気がするとおっしゃる。しかし、真物である。——実際に、それ、真物なんでしょうね」 「そうでしょうか」 「そうでしょうか、と貴方がおっしゃるのでは困る。貴方がお売りになった。売ったのは貴方だ。しかし、よくしたもので、その記憶を貴方は失っておられる。——何にしても、面白くできている。近頃、これだけ面白い事件はありませんよ」  それから郷倉は続けて言った。 「一体、貴方はあの絵をどこから手に入れたんでしょうな。それさえ判れば。——無理なことですが」 「若い偽作者から手に入れたように思うんです。その記憶だけ残っています。そして、それを最初、貴方でない方に売った。どうも、偽作であることを承知の上で売ったように思います」 「誰です。その売ったという人物は」 「それが判りません」 「なるほど、——よくできている」  郷倉はまた感心したように言った。 「最初に絵を売った方が誰であるかは、山代さんを紹介なさった女の方がご存じではないでしょうか」  つかさは初めて郷倉の方に話しかけた。 「さあ、その人は何も知らんのではないかと思いますね。私の感じでは、セザンヌの絵に関する限り何も知らないような具合でした。ただ山代さんに頼まれたので、山代さんを紹介して来た。そんな風に私は受け取っていました」  郷倉は言った。そしてこの話題に終止符を打つように、 「まあ、いずれにせよ、真物だったということは結構でした。これが偽物だったということになると山代さんの立場も変なものになりますからね。いくら過去を失くして覚えていないと言っても、なかなか世の中はそれでは通らない。——私の考えるところでは、山代さんもその絵を誰からか買った。山代さんはさっき若い偽作者と言われたが、恐らくその人から買った。それを買う時、これは偽物ではないかという疑いを持たれたに違いない。そしてそれを売る時、やはりこれは偽物ではないか、偽物だったら大変だという気になられたと思うんです。そうしたことが山代さんに一種の妄想として作用しているんじゃないですか。——自分が若い偽作者から買ったとか、偽作と承知の上で人に売り付けたとか、そんな風な妄想を持つようになった。こうしたことは充分考えられることだと思いますね」  郷倉はこの問題に一つの解釈を与えるような言い方をした。  山代は、勿論そんな解釈はそのまま受け取れなかった。自分が持っている記憶の欠片を妄想であるとするような見方には、到底承服できなかった。しかし、口では、 「そんなことかも知れませんね」  と言った。山代はそろそろ郷倉家を辞そうと思って、つかさの方に、それとなくめくばせして、 「いろいろ有難うございました。もうお暇します」  と、言うと、 「そうですか。まあ、体を充分大切にして下さい。妄想ですよ。貴方は真物を売ったんです。多少売り急いでいたとは思うんですが、めったなことはない。大体、偽物が真物になるなんて考えられませんよ」  郷倉は笑いながら言って、 「何にしても私には運がなくて、村木さんに運があったわけです」  山代とつかさが立ち上がったので、郷倉もまた立ち上がった。  郷倉家を辞して、門を出ると、 「セザンヌの絵のことは、本当に郷倉さんがおっしゃったように、山代さんの妄想ではありませんかしら。佐沼先生に、一応このことはお話してみた方がいいですわ。——女の方については、わたくしが調べてみますわ。これは偽物でなくて真物ですもの」  つかさは、真面目とも冗談ともなく言った。  崖 の 上  郷倉訪問から帰った夜、山代は疲れて早く寝についたが、翌日は朝早く眼覚めた。窓のカーテンを引くと、いかにも寒そうに氷雨《ひさめ》が落ちていた。  山代は郷倉から妄想に襲われているのではないかと言われたことを、改めて思い出した。それに依って、つかさもあるいは妄想ではないかという考えを持ったに違いなかった。そんなことを仄《ほの》めかすような言葉を、郷倉家を出るや否や、つかさが口から出したことをもまた、山代は思い出した。  偽物がいつか真物に変っていたということは、常識では考えられぬことである。初めから真物であったと考えるのが極く自然であり、そうなると、それが偽物だったということは、山代の妄想だと解釈する以外仕方ないようである。こうなって来ると、山代は自分の何もかもが信じられなくなる思いだった。自分がこれまでに取り返した過去の一部というものも、実際にそれが過去の一部であるかどうか甚だ怪しくなるというものであった。  セザンヌの絵が偽作であることの根拠となっている若い偽作者との応答も、また、それをあの崖の上の老人に売り付けた時感じた良心の呵嘖《かしやく》も、それが妄想だとすると、同じように八束陽子に対する恋情も甚だ怪しいものとせざるを得なくなる。  若い画家と会ったことも、セザンヌの絵を崖の上の老人に売り付けたことも、恐らくそれは間違いない過去の事実に違いない。ただ、それの持つ意味を山代の妄想が異ったものにしているかも知れない。八束陽子と海岸を歩いたことは、八束陽子自身も肯定しているくらいだから、それは山代の過去の歴とした一つの事実であろう。ただその時、山代が恋情を打ち明けたり、愛の接吻を交したことは山代の妄想が勝手に潤色したものであるかも知れない。  このような考えを持つと、いかにもそれが本当らしく山代には思われて来た。八束陽子と会ってみても、少しも自分が心を動かされなかったこと、八束陽子が伊豆の夜の海岸の散歩のことを話題にしても、いささかの動揺も見せなかったこと、そうしたことは妄想ということをそこに一枚加えてみると、すべては納得行きそうである。  山代は烈しい不安に襲われている自分を感じた。自分が取り返したと思っていた過去がそのままには信じられない気持だった。そうした事実はあるかも知れなかったが、それの持つ意味は違っているのである。  山代は急に気抜けした思いで二日間を、アパートに引き籠って過した。そして雨が上がった日、山代は再度の郷倉訪問を思い立った。郷倉がその名を語らなかった女のことを、改めて郷倉の口から知ろうと思ったのである。あの時はつかさが同席したので、郷倉はその名を口にするのを躊躇したかも知れなかった。こんどは一人で行ってみることにした。  山代はアパートを出た。二、三日続いた雨が上がって、埃のない街路に冬の弱い陽が落ちている静かな日であった。  山代はアパートを出る前に、郷倉家に電話をしてみた。郷倉は家に居たが、今日は日本橋の会社の方に出るので、訪ねて来るなら会社の方にして貰いたいということだった。  山代は、この間一度そこへ足を踏み入れて、すぐそこから逃げ出した日本橋へと向った。考えてみれば、日本橋の地下鉄の出口を出たところで、中年の男から呼び留められ、急に不安になって逃げ出してしまった事件も、やはり自分の妄想が然らしめたものと言えた。山代は相手の人物に眼の鋭いただ者でないものを感じたが、一緒にいたつかさは、相手から山代とは違ったものを受け取っていたのである。  山代は、この間と同じように、渋谷までバスで出て、そこから地下鉄に乗った。こんどは途中でいかなる人物から呼び留められても、逃げ出してはならないと、自分に言いきかせていた。  郷倉生命のビルはすぐ判った。表通りから少しはいったところにある大きな単独のビルであった。新しいビルらしく、各階に窓が大きくとってあって、ビルの表面の色も渋い落着いたものであった。  山代は一階の受付で五分程待たされた。そして若い秘書課員に案内されて、エレベーターで四階に上り、そこにある客室へ通された。革張りの見るからに豪華な椅子が散らばっていて、十人や十五人の客なら、らくに受け入れることのできる広さを持っていた。  壁面には数点の絵が架けられてあった。その中の一点に、山代は見覚えがあった。どこで見たものか判らなかったが、とにかく初めて見るものではなかった。山代が順々に壁の絵を見て廻っている時、郷倉が、 「この間はどうも」  と、愛想のいい顔ではいって来た。今日は洋服を着ているためか先日よりずっと若々しく見えた。郷倉は山代が絵を見ていたのを知って、 「この中にも一点、貴方の画廊から来たものがありますよ」  と言った。 「例のセザンヌの絵を頂戴してから間もなく、もう一点買いました。私が貴方の画廊へ出掛けて行って、気に入ったのが一点あったので、それを買いました」 「ほう」  山代は言ってから、 「これですか」  と、何となく見覚えのある正面の二十号程の絵を指で差した。 「判りますか」  郷倉は言った。 「何となく見覚えがあるんです。やっぱりこれですか」  山代が言うと、 「それです。——確りしているじゃありませんか。ちゃんと判るんですな」  郷倉は言ったが、却って訝しそうなものが、その表情には感じられた。 「判るといっても、いつどこで見たかといったような記憶はないんです。ただ何となく初めて見るものではないという気持がするだけです」  山代は説明した。そして絵の話は打ち切って、ここに郷倉老人を再度訪ねて来た用件にとりかかった。 「この前、名前をおっしゃらなかった女の人について、やはり一応お伺いしておきたいんです。それで、今日はひとりで伺いました」 「うむ」  郷倉は幾らか気難しげに短い声を出したが、改めて顔を山代の方へ向けると、 「貴方は、それを知りたいですか」  と言った。 「教えて戴けるなら、教えて戴きたいです」 「うむ」  郷倉はまた唸るように言って、 「これは、私ひとりの勘だから、実際にそうであるかどうか判らないが、私の思うところでは、その女の人は貴方と特別な関係を持っていたのではないかと思いますよ」 「ほう」 「こう言っても、思い当りませんか」 「全然」 「全然思い当らない!? 記憶喪失というものは、まあ、そういうものでしょうが、結構というか、結構でないというか、まあ、奇妙なものですな。私は若い時から勘はかなり強い方で、めったに狂ったことはないんです。ことに男女関係についての勘というものは自慢にはなりませんが、正確な方です。貴方のお使いでその女の人が私のところへ見えた時、おやと思ったことが二、三ありました。それで、貴方とはただではないなという見方をするようになったわけです。——いま、その人はちゃんとした生活をしていると思いますよ」 「ちゃんとしたと言いますと?」 「家を持っています。家を構え、配偶者と見|做《な》していいような男性を持っている。正式に籍がはいっているかどうか知らないが、相手の男性も別に家庭を持っているわけでもないから、世間ではちゃんとその二人を一組の男女として見ていると思います」 「なるほど」 「こういうわけですから、きのう、私はその女の人の名を言うのをためらったわけです。名前を言わなくていいものなら、何もわざわざ言う必要はない」 「なるほど」 「貴方が、いま、それを知っても、別に一文の得になることでもない。貴方としても知らないでおいた方が却っていいんじゃないですか。貴方さえ知らないでいたら、その女の人の過去は、世の中で誰も知らないと思うんです。誰も知らなければ、そんなことはなかったと同じですよ」  郷倉が言った時、 「その女の人の配偶者というのは老人ですか」  山代は訊いた。 「老人!?」  郷倉は眼を光らせて言ったが、すぐ、 「知りませんな」  と、うそぶくような言い方をした。 「何となく、そんな気がするんですが」  山代が言うと、 「何となく、何となく、と、よくおっしゃいますな。老人だというなら、知っていると言うんですか」  郷倉の言い方は、多少|棘々《とげとげ》していた。 「いや、そういうわけじゃないんです。例のセザンヌの絵を最初に売り込んだ老人とは、この間会ったんですが、どういうものか、私をひどく恨《うら》んでいるんです。どういう恨みか判らないんですが、とにかく、恨みを持っているんです。それで、ふと老人のことが頭に浮かんで来たんです」  郷倉は黙って聞いていたが、 「さあ、それは知りませんな」  と、少し意地悪く言ってから、 「どうです。この問題はこれで打ち切れませんか。私の考えでは、どうもその方がよさそうです。何も平地に波風をたてるには及ばないでしょう。貴方は失った過去のことを全部知りたいに違いないし、その気持も判らんこともないですが、この一点だけは永久に判らないことにしておきなさい。その方がどうもよさそうだ」 「いや、お言葉に従いましょう。しかし、たとえ事実を知っても、そのためにどうということはないと思うんです。私とは違ったもう一人の人間のやったことを、私がただ知るだけで、そのために私の気持は少しも動かされません。影絵でも見ているようなもので、その中に居る自分の気持さえ、私には判らないと思います」 「さあ、それはどうかな」  郷倉は言った。 「人間ですから、自分がやった行為を知れば、それをどのようなつもりでやったかぐらいのことは判るでしょう」 「いや、それが判らないんです。記憶を回復した時は、すべてのことが蘇って来るのかもしれませんが、そうでない限りは、単なる事実の羅列《られつ》で、その事実の中の意味というものは全く判らないと思います」 「それじゃ、何を聞いても、自分とは無関係ではないですか」 「そうです。全く無関係です」 「それなら、知っても知らなくても、同じことですな」 「同じことですが、知りたいです」  山代は言った。相手に教えないという態度をとられると、どうしてもそれを知りたい気持が強くなった。 「貴方がいま言った老人というのは、どういう人です」  郷倉は訊いた。 「どこへ勤めているか判りませんが、関口台町附近、——崖のあるところがありますね、あの上あたりに住んでいるのではないかと思います」  山代は言った。  山代の言葉を聞くと、郷倉ははっとしたように表情を変えて、 「崖の上! 貴方は何もかも忘れたとおっしゃるが、丁度この壁の絵に見覚えがあるように、いま問題になっている女性のことも、一応判ってるじゃありませんか」  と、訝しそうに言った。 「いや、絶対にそんなことはありません。全然判らないので、こうして伺いに来ているんです。判っていたら伺いには来ないでしょう。どういう関係か知りませんが、余り名誉になることでもなさそうですし」  山代が言うと、 「そりゃ、そうですな、でも、崖の上などとおっしゃるから。と言うのは、その女の人も崖の上に住んでいると思いますよ」 「ほう」 「私は主義として、他人のことは余り喋らんことにしています。だから、貴方がどうしても、その女の人の名前や、その人との関係を知りたいのなら、ご本人に会ってみたらいかがです。私が喋ると、みんな臆測になってしまい、おそらく事実を間違って伝えてしまうと思います。その女の人は一人で住んでいると聞いています。勿論女中さんは使っているに違いないが、とにかく一人で住んでいるでしょう。そういう噂です。まあ、有体《ありてい》に言えば二号さんの生活ですな。二号さんか、本妻さんか、そこは知りません。しかし、外見は一人住まいです。そういう家なら、あの近辺で誰かに訊いたら、すぐ判るでしょう。そして、お会いになってみたらいい」  郷倉は言った。 「会って構わないでしょうか」  山代は臆病になって訊いた。問題の女が崖の上に住んでいるとすると、例の自分に敵意を持っている老人と何か複雑な関係がありそうである。 「私がいま言いました老人について、何か思い当るものをお持ちではないでしょうか」  山代が言うと、 「いや、それは知らん。知りません。しかし、関係のある人かも知れません。そりゃ、貴方がそう思うくらいだから、何か関係がありそうですな」  郷倉はそんな言い方をしたが、 「まあ、その女の人に会ってみることがいいでしょう。貴方が健康な人なら、問題は別ですが、貴方は何もかも忘れてしまっている、記憶喪失者です。もう過去は失くなっている。その女の人に会っても、別に新しい事件は起らないでしょう。相手の女性が、話していいことは話すでしょうし、話してはいけないことは話さないでしょう。貴方とその女性と何か特殊な関係があったらしいと、私が言ったことは、少しお喋りが過ぎたかも知れない。しかし、言ってしまったことは致し方ありません。尤もこれは私の想像ですから、違っているかも知れない。その程度に考えておいて下さい」  郷倉は言った。  郷倉は自分の喋ったことがよほど気になっているらしく、 「私は自分だけが感じたことを言ったわけですが、しかし、お会いになるなら、その程度の予備知識を持って行かれる方がいいでしょう。そして相手の人が言うことをそういう含みで解釈したらよろしいでしょう。貴方が記憶を失っていると知れば、誰だって、そうばか正直に何もかも話さないでしょう」  そう言った。 「承知しました。会うだけ会ってみましょう」  山代は言って、立ち上がった。  郷倉生命のビルを出ると、山代はその足でこの前行ったことのある江戸川公園の台地の上へ行ってみることにした。いま行かないと、再び女を訪ねて行ってみる気持を失ってしまいそうな気がした。  都電を江戸川橋で降りると、あとは大体見当を付けて、台地の上の住宅地をめざして、くるまの往来の烈しい坂道を登って行った。そして坂を登り詰めたところから横手へはいると、この前崖の斜面を上った時歩いた静かな裏通りへと出た。気難しい老人と出会ったところである。  郷倉の言ったことをそのまま受け取れば、女の家はこの地帯のどこかにある筈であった。山代は女の家を、どこかで尋ねようと思った。それにしても、老人の家もこの近くにある筈であった。二人の家が申し合せたようにこの附近にあるということは、二人の間に何らかの関係があることを物語っていそうに思われる。  山代は女を訪ねて行って、そこで老人に会うような場合があっても、その時はその時の成行きに任すべきだと思った。現在の自分は何も知らないのだ。女といかなる関係にあったか、老人といかなる関係にあったか、全く知らないのである。  女を訪ねて行くという行為が、よしたとえ老人の怒りを買うものであるとしても、自分はそれに対して責任をとることはできないのだ。自分は自分の過去を知りたいだけである。そうしなければ生きて行けないのだ。  山代は洗濯屋のご用聞きらしい青年を捉まえて訊いてみた。 「この辺に女一人で住んでいるお宅を知りませんか」 「何というお宅です」  青年は訊き返して来た。 「それを忘れてしまったんです」 「忘れた? それじゃ、判りませんよ」  投げ出すように青年は言った。 「何でも、前に女優さんだった人で、二号さんか何かの生活をしているんじゃないかと思うんですが」  山代が言うと、青年はちょっと胡散臭そうに山代をねめ廻したが、別段、怪しい人物でもなさそうに思ったのか、 「新見《にいみ》さんかな、それじゃ」  と言った。 「新見さん!?」  勿論、山代にとっては新見という苗字には何の思い当るものもなかった。 「新見さんなら前に女優さんをやったことがあるそうです。誰かがそんなことを言っていました」  青年は言った。 「有名な女優さんですか」  山代が訊くと、 「有名じゃないでしょう。有名ならすぐ判りますがね」 「幾つぐらいの人ですか」 「三十ぐらいですか。——もっと上かも知れません。とにかく、その新見さんならこの次の路地の角から二軒目の家です」  そう言うと、洗濯屋の若者はすぐ自転車を前に押し出した。 「有難う」  礼を言って、山代はそのままそこに立っていた。山代はニイミ、ニイミと、低く口の中で呟いてみた。何の親しみもない音である。ついでに名前まで訊いておけばよかったと思った。新見——、何と言うのであろうか。  山代は歩き出したが、ひどく足は重かった。どんな女が出て来て、どんなことを言うか判らないが、ともかくここまで来たのだから、会ってみようと思った。恐らく、その新見なにがしが、自分の探している相手に違いあるまいと思われた。  洗濯屋の若者に言われたように、山代は次の路地へはいって行った。路地は崖っぷちまでに三軒の家を並べている。三軒の家の並んでいる向い側は、もとは家でも立っていたらしいが、いまは空地になっていて、針金の柵が廻されて、内部へ立ち入れないようになっている。山代はゆっくりと路地を歩いて行った。なるほど角から二軒目の、つまり三軒ある家のまん中の家には�新見�という表札が出ている。百坪程の敷地の中に、和洋折衷の明るい感じの家が立っていて、低い塀を蔓薔薇が覆《おお》っている。  山代はその家の前を通り抜けて崖っぷちまで出た。道は自然に曲って、この前山代が立った見晴し台とでも言いたい藤棚の下にベンチの置かれてある場所がすぐそこに見えている。  山代は眼下に拡っている下町一帯を見渡した。薄ら陽の洩れている寒空の下に、街は不機嫌な表情でどこまでも拡っている。  山代は崖の下に眼を落した。小さい公園には今日も十人程の子供たちの姿が見えている。一組がキャッチボールをやり、他は何をやっているのか喚声を上げて、細長い公園の敷地をやたらに飛び廻っている。その子供たちの声が、くるまの騒音に混じって、山代のところまで立ちのぼって来ている。  ——こうしていても始まらない。新見という家を訪ねてみるか。  山代は崖っぷちの道を引き返し始めた。依然として足は重かった。  山代は再び新見という表札の出ている家の前へ戻った。小門を開けてはいると、一間ほど石が畳んであって、すぐ玄関があった。  山代は玄関のベルを押した。すると十八、九の女中らしい娘が、間もなく内側から扉を開けた。 「山代という者ですが、ちょっとお目にかかりたくて伺いました」 「奥さまにですか」 「そうです」 「ちょっとお待ち下さいませ」  女中はすぐ引込んで行った。山代は女中が自分を知っていないことで、何となくほっとしたものを感じた。玄関をはいった時から何者が現われるか、いかなることが起るか判らない不安に駆られていた。  女中が再び現われて、 「どうぞ」  と言いながら、スリッパを揃えた。  玄関のすぐ横手が洋風の応接室になっていて、小型のソファと椅子が三つ、長方形の、これも小型の卓を囲んで配されてあった。ソファや椅子の色は黄色で統一されてあり、壁には八号ぐらいの風景画が架《か》けられてあった。いかにも主人が女であることを示しているような室内の雰囲気であった。  山代は大きな体をソファに収めて、女主人が姿を現わすのを待った。女中が茶を運んで来た。そして女中が部屋を出て行くと、入れ違いにグレイの洋服を着た女がはいって来た。 「私、山代と言いますが」  山代が言って立ち上がると、 「ご病気だと伺っていましたが」  と、相手は言った。体は痩せぎすだが、女としては背が高い方である。三十三、四歳ぐらいであろうか。細面《ほそおもて》の顔の中で、眼が静かだった。 「実は、私は貴女について何も知っておりません。お聞きになっているかどうか知りませんが、ここ三年程の記憶を失ってしまいまして、実に厄介なことになっております。——郷倉生命の社長の郷倉さんをご存じでしょうか」  山代が言うと、 「はい」  と、低い声で女は頷いた。 「その郷倉さんのところをお訪ねして、貴女のことをお伺いしました。勿論、私は郷倉さんのことも一切記憶がありません。ですから、初対面のお目にかかり方をしたわけですが、とにかく、その郷倉さんから、貴女のことを伺って、いまここへ参上したわけです」  山代は言った。相手は顔を俯けて、膝の上に置いた手を見入るようにしていたが、そのままの姿勢で、 「そのことは、先程、郷倉さんからお電話がありまして、存じております」  と言った。そして女は顔を上げると、 「記憶をお失くしになったと言いますが、何もかもお忘れになってしまいましたの?」  この時だけ微《かす》かながら、女の表情には親しげなものが走った。  山代は相手の顔を見守っていたが、 「失礼ですが、お名前は何というのでしょうか」  と訊いた。すると、暫くして女の口から低く吐息のようなものが洩れたが、 「名前もご存じありませんのね。名前までもお忘れになったんですか。それじゃ、何もかもご存じないのは当然でございますわね。——でも、わたくしの名前を、山代さんがお忘れになってしまうなんて、そんなことがあるものでしょうか」  言葉のあと半分は、一語一語自分の心に問い尋ねているような、そんな口調であった。女の表情はいつか醜いほど歪んでいたが、やがて、 「新見まさ子と申します」  そう言った。言うと同時に、笑い声が女の口から出た。が、それはすぐやんで、山代が相手の顔へ眼を当てた時は、女は寧ろ固い表情をしていた。どうしても一瞬前笑い声を口から出した女の顔とは思われなかった。 「新見まさ子」  復唱するように山代が言うと、 「ご記憶ありません?」  まさ子は言った。 「覚えていませんな」  山代が言うと、 「むかしむかし、あるところに新見まさ子というひとりの女がありました」  まさ子は固い表情のままで言った。口から出た言葉が唐突な感じのものだったので、山代はそれに対して、どのような態度をとっていいか判らなかった。それで、山代はただ黙っていた。 「冗談で申し上げているんではありません。いま申したような話し出し方で、よくお話が始まります。小さい時、そんなお話をいろいろ聞いたものですわ。わたくしいま不意にそんなお話の中の人物になってしまったような気がいたしました。山代さんは過去をお失くしになりましたが、お蔭さまでわたくしも、自分の過去を、自分とは無関係なひとりの女の物語のようなものにしてしまいましたわ。よく夫を亡くした女の人が、ひとりで過去の追憶の中に生きていると申しますが、その場合は過去はなくなっておりませんのね。ちゃんと過去はあって、その中にはいり込んで行けます。でも、わたくしの場合は違います。——わたくしと山代さんとは多少の交渉があったと思います。それなのに山代さんはすっぽりとそれをお失くしになってしまいました。事実、いま、山代さんはわたくしとの過去の交渉について、何一つ覚えていらっしゃらない。山代さんにとっては、そんなものは何もない。山代さんに何もない以上、わたくしにだって、何もありません。追憶できる過去ではなくて、それは自分とは無関係な、ひとつのお話にしか過ぎません。むかしむかし、あるところにと言って始まるお話みたいなものですわ」  新見まさ子は言った。  女中が洋菓子と紅茶を運んで来た。女中が部屋に居る間、新見まさ子は口を噤んでいたが、女中が出て行くと、 「何も失くなった過去のことを、どうしてお知りになりたいんでしょう」  女は言った。 「過去のことを一応知っておかないと、人間というものは一歩も足を踏み出せないからです」  山代は言った。 「そういうものでしょうか」 「そうです、自分がどんな過去を持っていたか、それを知らない限り、怖くて街も歩けません。いつなんどき、自分の知らない過去の欠片にぶつからないとも限りません。実際に退院してから今日までに、いろいろなものにぶつかりました。知らない人にふいに話しかけられたことも一回や二回ではありません。それから全然何もかも覚えていないというのでしたらそれはそれで却っていいと思うんですが、ところどころ覚えていたりするから困ります。牡蠣の生まを食べると、牡蠣の生まを口に入れた記憶はないくせに、その味だけは覚えていたり、何となくあの人だと思って道で見掛けた人を追いかけてみたくなったり、——」 「ほんとに、それは大変ですわね」  新見まさ子は言った。なるほどそれは大変なことだと、心から同情したような、そんな言い方だった。 「それで、郷倉さんのところにも過去のことをお知りになりたくていらしったのですか」 「そうです。セザンヌの絵を売ったことが判りましたので、その辺の事情を一応知っておこうと思ったんです。画商ではあったわけですが、画商を始める少し前から、記憶が失くなっていますので」  山代は言った。 「判りました」  新見まさ子は、少し肩を落すようにして言った。 「わたくしも、存じておりますことは、みんなお話申しますわ。それが、これから山代さんが生きていらっしゃる上にお役に立つというのでしたら」  それから、女中を呼ぶために呼鈴を押したが、思い直した風で、 「ちょっと失礼いたします」  そう言って、新見まさ子は席を立って行った。  山代は紅茶をすすった。喉が渇いていたのでうまかった。紅茶茶碗を皿の上に置いた時、山代はふいに、いままで自分の前に坐っていた新見まさ子は、最近自分がどこかで会ったことのある女ではないか、そんな思いに襲われた。  今頃になって、そんなことに気付くのはおかしなことであったが、新見まさ子が自分の前から姿を消してから、ふいに、どこかで会った人物だという思いが、山代の心の中へ飛び込んで来たのであった。  山代は新見まさ子の顔を眼に浮かべて、どこでいつ会った顔であろうかと、思い廻らせている時、当の新見まさ子が再び部屋へ戻って来た。  まさ子が部屋へ一歩足を踏み入れ、顔を上げた時、山代はふいにああ、あの時の女だと思った。いつかアパートで睡眠剤がわりにイソミタールを服んで寝たことがあったが、暁方、ひと欠片の記憶が山代のところに戻って来た。その時の記憶の欠片の中に登場して来た女の顔であった。  どこか郊外の電車の停留所のようなところへ向って、山代は歩いていた。吐く息の白そうな冬の朝、しかも早朝の感じであった。山代は背後を振り返った。山代を送り出して来た感じで女は立っていた。女の居るところまではかなりの距離があったので、女の顔はそうはっきりは見えなかったが、右手を上げて山代の方へ合図した様子は、何か暖かく優しい感じであった。その時、女の持っているそうしたものが山代の心の中に飛び込んで来た感じで、山代もまた女に愛情のような思いを持ったものであった。  これは山代が取り戻した過去の欠片であった。記憶を取り戻したある日ある時の思い出であった。その前も、そのあともない。ただそれだけのもので、一体いつのことであるか、その場所はどこであるか、そうしたことは一切判らなかったが、そうした時間の中に、山代は自分を置いたことがあるに違いなかった。  この女は、前に銀座の喫茶店で会った七浦敏子なる女性に似ていると思ったが、それは間違いであった。  新見まさ子こそ、その山代が取り戻すことができた過去の欠片の中に登場して来た女性に違いなかった。そうだったのか、と山代は思った。そして新見まさ子が部屋から出て行く前とは少しだけ違った思いで、山代は相手の顔を眺めた。  さっき新見まさ子は、山代と多少の交渉があると言ったが、どうも多少どころではなさそうである。郷倉が二人の間には何か特殊な関係がありそうに思えたと言ったが、その郷倉の見方は当っているに違いなかった。 「失礼いたしました」  そう言って、まさ子は自分の席に腰を降ろし、 「さて、何からお話いたしましょうか」  と言った。実際にどこから話し出そうかと考えている風であった。山代は黙っていた。すると、 「初めてお目にかかりましたのは昨年の夏のはじめでございましたでしょうか。横浜に三城博子さんという映画の女優さんの家がありますが、覚えていらっしゃいましょう」 「知っています。その人についての記憶はありませんが、画廊のおとくいさんで、僕も何回かそのお宅に伺ったと聞いています。退院後その人の家の前を通ったことがあります。全然覚えていませんでしたが」  山代が言うと、 「そこのお宅で、わたくし、貴方に初めてお目にかかりました」  新見まさ子は眼を伏せたままで言った。 「わたくし、三城博子さんの勧めで一、二本映画へ出たことがあります。勿論芸名を使いましたが、いまは誰も覚えていないと思います。有名になるような素質もありませんでしたし、またそれほど長く女優をやっていたわけでもありません。映画会社に籍を置いたのは、二年足らずの期間でした」  山代は�榊原芳重�という男名前とも女名前ともつかぬ観月の手紙の差出人の名前を思い出していた。 「芸名って、どういうお名前でしたか」  山代は訊いてみた。 「榊原|芳重《よしえ》と申しました。ずいぶん固い名前でしょう。名前が固くて、ごつごつしているくらいでしたから、有名にもなりませんでしたのね」  新見まさ子は微かに笑いを浮かべて言った。 「もちろん、山代さんはこのわたくしの芸名をよくご存じでした。山代さんが記憶を失くされなかったら、わたくしのこの芸名を知っているのは、この世で山代さんぐらいだったかも知れませんわ。でも、その肝心の山代さんもお忘れになったので、もう誰も榊原芳重なんて名前を知っている人はありません。よくよく不運な名前だったと思いますわ」  山代はちらっと、新見まさ子の顔に視線を投げた。性格もひどくおとなしそうであるし、顔も整ってはいるが、映画スターとして売り出すほど特長があるわけではない。これでは映画界に出ても、二年ぐらいで消えてしまって当然であろうと思われた。  それにしても、この女性が観月の手紙の筆者であることは、いま山代は知ったわけであったが、それについては触れないでおくことにした。新見まさ子が何を話すか、全部それを聞いてしまおうと思った。つかさは郷倉からこの女性のことを聞いた時、すぐ観月の女性と同一人物に違いないと、自分の考えを口から出したが、まさしくつかさの勘は当っていたわけである。  新見まさ子は続けて話し出した。 「そんな関係で、わたくし、よく三城さんのお宅へ伺っていたんですが、ある時、そこで貴方にお目にかかりました。グレイの洋服をお召しになっていて、ひどく屈託のない感じの方にお見受けしました。時々、大きな声をお出しになってお笑いになりました。画商というような感じは全くなく、芸術関係のお仕事でもなさっている方のようでした。——いま、ここにいらっしゃる貴方とは別人のようです。どちらが本当の山代さんか判りませんけど、とにかく、身に着けていらっしゃるものが全然違いますわ」  新見まさ子はそう言って、自分がいま言ったことを確かめでもするように、改めて山代の方へ顔を向けた。山代は医者にでも診察されている患者のように、神妙に相手の視線の中に自分を置いていた。少しだけ新見まさ子の視線が眩しかった。 「全然違いますわ」  新見まさ子は山代の顔を見守っていたが、もう一度断定するような言い方で言った。違うと言われると、山代は自分が替玉でもあって、それを指摘されているような変な気がした。 「山代さんて、本当はいまの山代さんのような方なんでしょうね」  まさ子は言った。 「いまの僕と言いますと?」 「固くて、寄り付けないような感じです。以前の山代さんには、そんなものは微塵《みじん》もありませんでしたわ」  それから、 「とにかく、三城さんのお宅でお会いしまして、それから二、三日して有楽町の画廊へ伺いました。ドランのいい作品が二、三点あるので、それを見せて上げるとおっしゃったので、それでお伺いしたんです。その日、画廊へ伺った頃からひどい夕立がありまして、雷は鳴りますし、雨は車軸を流すようですし、東京では珍しいことでした。絵を見せて戴いたあと、タクシーはつかまりませんし、ハイヤーも幾ら電話しても一台もありませんでした。それで夜八時頃雨が小降りになるまで、画廊にお邪魔しておりました。そして八時過ぎてから、外へ出て、有楽町の駅の近くのレストランで食事をご馳走になりました。そんなことがあって、すっかりお親しくなりまして、時折画廊へお伺いするようになり、四、五回目にお会いした時、アパートに御一緒に参りました。山代さんのお誕生日だということで、わたくしのほかにも親しいお友達の方が何人かお出でになるということでしたので、わたくし、お伺いする気になったのです」  新見まさ子はここまで言って、ちょっと言葉を切った。 「それ、何月のことです。さっき夏だとおっしゃったと思いますが」  山代が言うと、 「そうです。夏の初めで、七月にはいっておりました」 「変ですね。僕は七月になど生れていません」 「そうなんです」  新見まさ子は軽く頷くと、 「三月三日がお誕生日でしょう。それなのに、わたくしにいい加減なことをおっしゃって、御自分のアパートにお誘いになったんです」  山代は、相手が自分の生れた日を知っていることに驚いた。確かに山代は三月三日の生れであって、誕生日が女の節句に当っているので、小さい時からいろいろと周囲からからかわれて来たものである。 「ほう、嘘を言ったんですか」 「はっきり申しますと、そういうことになりますわ」 「驚きましたね」 「アパートヘ伺ったら、どなたもおりませんでした。勿論、お食事の支度もしてありません。わたくし、腹が立ちましたので、すぐ帰ろうとしたのですが、本当に真剣な顔で、二人だけで話したかったので、嘘を言ったのだと、開き直っておっしゃいました」  新見まさ子は言った。  新見まさ子は表情ひとつ変えないで、眼を膝の上に落したままで続けた。 「誕生日と言わなければ来てくれなかったので誕生日だと言ったのだ。自分は三月三日の生れだから今日は誕生日であろう筈はない。誕生日ではないが、しかし、今日を二人の生涯においての、記念すべき日にしたらいいではないか。——そんなことをぬけぬけとおっしゃるんです」 「ほう」  山代はうんざりして言った。 「構いません? お話しまして?」  新見まさ子は訊いた。 「構いません。自分の過去を知りたくて伺ったんですから、何をおっしゃって下さっても平気です。——厭な奴ですね。まるで無頼漢じゃありませんか」  山代は言った。 「そうなんです。無頼漢ですわ」  新見まさ子は、山代の言葉を少しも否定しないで、そのまま肯定して言って、それから、 「どうか結婚してくれとおっしゃるんです」  それだけ言うと、ちらっと上眼使いに山代の方を見た。 「結婚しろとおっしゃっても、実は無理なことなんです。わたくし、正式の夫ではありませんが、主人を持っておりました。ある人の世話になっておりましたの。女優として映画に出して貰えたのも、その人の力なんです。年齢《とし》は違いましたが、わたくしはわたくしなりに、その人に恩義も感じていましたし、愛情も持っておりました。そんなことは充分承知の上で、わたくしに結婚の申し込みをなさったんです。むきになって、そう言われると、わたくしのような立場にある女は弱いものですわ。口先きだけの、いい加減なこととは判っていても、あまり執拗に言われますと、気持がぐらぐらいたします」 「本気ではなかったんですか」 「山代さんのお気持?」 「はあ」 「本気でないことは、わたくし、その時も、その前からも、判っておりました。判っていても、気持がぐらつきました。女というものの弱い愚かなところだと思います。そうした弱みを見せたことが、わたくしの敗けだったと思います。あとで考えると、なぜ強くつっぱねて、そのお部屋を飛び出してしまわなかったのかと思うんですが、その時はそういたしませんでした。何となく、ぐずぐずしていたんです。そして最後にお部屋から逃げ出そうとした時は、お部屋に鍵がかかっておりました」 「————」  山代は黙っていた。黙っている以外仕方がなかった。 「声は出しませんでした。大きな声を出せばいいんですが、そんなことのできないことも女の弱さだと思います」  新見まさ子は同じ表情と同じ口調のままで言った。  山代は何か言おうとしたが、適当な言葉が思い当らなかった。新見まさ子が語っていることは、甚だ彼にとって名誉ならざることであった。 「——そうしたことがありましてから、わたくし、山代さんに愛情を持とうと思いました。自分の生きる道を、自分なりに決めた気持でした。山代さんに愛情を持ち、いろいろな問題を解決した上で、山代さんと結婚する。これが自分の進むべきただ一つの道だと思いました」  ここまで言って、新見まさ子は肩で吐息するようにして、弱々しく顔を上げた。弱々しくと言ったが、そのように見えたのは、山代が勝手にそう見ただけのことであったかも知れない。新見まさ子は山代の肩越しに、視線を窓の方へ当てていた。その表情は、見方によれば、ぼんやりしているようにも見えた。 「そう思ったのですけれど」  新見まさ子はそのままの姿勢で言った。 「なかなか、そう思うようには参りませんでしたわ。——アパートヘ三回目に参りました時、セザンヌの絵を、主人に、——主人と言いますのは、江原弥一《えはらやいち》と申します。ご記憶を失っていらっしゃるので、ご存じかどうか存じませんが、一応名前を知られた実業家です。その江原にセザンヌの絵を売り込んでくれとおっしゃいました。どうしても仕事を大きくするために、三千万円程のお金が要る。それを売り込んで貰いたい。決して不当な価格で売り付けるのではない。世界的な名画だから、三千万円では安いくらいで、買っておいても決して損なものではない」 「なるほど」  山代は久しぶりで短い言葉を口から出した。 「途中ですが、江原さんというのはこの近くに住んでいらっしゃるご老人ですな」 「そうです」 「会社を日比谷附近にお持ちですね」 「そうですの——江原から聞きました。貴方にお会いしましたことを」  新見まさ子は落着いて言った。山代は、やっぱりあの老人だったかと思った。 「わたくし、どんな立派なものであっても、江原だけには話をするのが厭でした。その気持はお判りでしょう。わたくしにしてみれば、江原を裏切っていたのですから、他のどんな人にでも話はしますが、江原だけには気が進みませんでした。ですけど、どうしても売り込んでくれとおっしゃる」 「うむ」 「厭なら、自分に愛情がないに違いないから別れてしまおうとおっしゃる」 「うむ」 「その頃は、もう、わたくし、別れると言われると、震え上がってしまうようになっておりました。それに、そのお金は仕事の資金だが、結局は二人のために要る金だ。こうおっしゃるんです」 「不埒《ふらち》なことですな」  思わず山代は言った。  山代は新見まさ子の話を聞いていて、どうしても自分の過去が語られているとは思えなかった。話の中に登場して来る人物は自分であるに違いなかったが、全く自分と無関係な人間の不埒な行状記を聞いている思いであった。ひどい奴があったものだと思った。 「いけませんな」  山代が言うと、 「そうお思いになります?」  と、新見まさ子はちらっと眼を山代に当てて言った。 「いかんですよ、実際」 「でも、そういうような方でした。それで、わたくし、江原にセザンヌの絵を売り込みました。江原は一代で今日の地位を築いたような人間ですから、お金にかけてはとても慎重なんです。決して吝嗇というのではありませんが、筋道がはっきりしませんと、一文のお金も出しません。無駄なお金を費《つか》うことを極端に嫌うんです。でも、江原はわたくしに対して特別な気持を持っていましたので、自分では気持は進まなかったと思うんですが、ともかく、その絵のために大金を出してくれました。わたくしにくれるようなつもりで、そのお金を出してくれたと思うんです」 「いつ頃のことですか」 「八月の初めだったと思います。それで、貴方がご自分でその絵を持って、江原の家へお出でになりました」 「僕だけですか」 「そうです。わたくしにも一緒について来てくれとおっしゃいましたが、わたくしはそれだけは堪忍して戴きました。幾ら何でも、二人で揃って江原の前へ顔を出す気にはなりませんでした」 「それは、そうですな」 「貴方は江原の家で、絵とお金とを交換なさいました。それから半月も経たない日のことですが、江原がやって来て、絵は真物かと訊きました」 「なるほど」  山代は思わず表情を固くして言った。 「わたくし、勿論、真物だと答えました。すると、江原が言うのに、何人かの画商に見せたが、みんな首を傾《かし》げる。はっきり偽物だと断定する者もないが、と言って、真物だと見る者もいない。何となく偽物をつかまされたような気がすると言うんです。その時、江原とわたくしは中庭に面した茶の間の縁側に腰掛けていたんですが、わたくしはふいに恐ろしさに身を震わせました。もし偽物だったら、どうしようという気が突き上げて来たのです。それでなくてさえ、江原を欺いているのに、その上お金まで騙《かた》り取るなどということは、わたくしとしては耐え得られないことでした。わたくしは江原にずいぶん厄介になっており、少からず恩義を感じておりました。籍ははいっていませんでしたが、江原は前の奥さんに死別してから、わたくしだけに愛情を注いでくれていました」  新見まさ子は言った。 「偽物だったんですか」  山代は思い切って訊いてみた。自分の持つ記憶の欠片の語るところに依れば、それは明らかに偽物の筈であった。しかし、現在、彼の知っているセザンヌの絵というのは真物ということになっている。 「いいえ、偽物ではありませんでした」  まさ子は言った。首を横に振って、めっそうなというような否定の仕方だった。 「もし偽物でしたら、わたくしの立場は全くなくなってしまいます。それで、すぐ貴方に確かめたんです。すると、絶対に偽物ではない。そこまで悪党にはなっていないとおっしゃいました。それで、わたくし、貴方の言葉を信じました」 「なるほど」  山代の動悸《どうき》は新見まさ子の言莱でも鎮まっていなかった。 「でも、わたくし、江原に疑いを持たれたということは厭でした。とにかく、江原から大金を引き出したのですから、なるべく納得して貰いたかったんです。それで貴方の同意を得て、江原から買い戻し、他の人に引き取って貰おうと思いました。誰かちゃんと絵の判る人で、心から納得してこの絵を買ってくれる人を探したんです。そして漸くのことで見付けたのが郷倉さんなんです。貴方がお会いになった郷倉生命の郷倉さんです。世界的名画を何点か持っている人ですし、わたくしも前から知っておりましたので、郷倉さんに事情を話しました。すると、二つ返事で、自分が引き取ろうと言って下さいました」 「郷倉さんは絵が判りますか」  山代は訊いた。 「判ると思います。画商よりもよほど眼が肥えていると言われているくらいの人です。そういうわけで、貴方にその絵を郷倉さんのお宅へ持って行って貰いました。お金はわたくしが受け取りに行きました。そのお金を江原の方へ返さなければなりませんでしたから」 「ほう」  山代は不得要領な返事をした。すると、やはりセザンヌの絵は真物であるということになりそうである。 「しかし、郷倉さんもそれを直きに離したようですね」  山代が言うと、 「そうらしゅうございます。でも、郷倉さんのお電話では、やはり真物だったらしゅうございますわ」  新見まさ子は言った。 「あれだけの絵になると、いろいろ疑いが起りますのね。でも、わたくしは真物だと信じておりました。山代さんが真物だとおっしゃった以上、真物でない筈はないと思っておりました。他のどんなことでわたくしを騙しても、江原に売り付けた絵で、わたくしを騙したとは考えられませんでした。もし、その絵でもわたくしを騙したとしたら、この世の中に二人とない悪者になってしまいます。幾ら何でも、わたくしが惨めです」  新見まさ子は言った。 「しかし、現在の僕が何となく感ずるところでは、それはやはり偽物ではなかったかと思うんですが」  山代が言うと、 「でも、村木さんがお調べになったことに依ると、真物だったことが判明したと言うのではありません?」  新見まさ子は言った。まさ子にそう言われると、山代は自分の考え方の方を訂正しなければならぬもののようであった。 「何となく腑におちない気持ですが、やはり真物だったのでしょうか」 「ご自分を全く信用なさっておりませんのね」 「いままで伺ったことから推しても、どこかに蔭のある人物ですからね」  山代は過去の自分のことを、このように言った。すると、 「そうなんです。蔭がありますのよ。そのこと、あまりお話したくないんですが、ありのままお話しておきましょう。仕事の資金だとか、二人の将来の設計費だとか言って、わたくしに無理にお作らせになりましたお金は、実はそんなことで必要だったのではありませんでした。二、三カ月経って判ったことなんですが、ある女の方にお上げになるお金でした」  新見まさ子は言った。この時明らかにまさ子の表情はこわばっていた。それが山代にも判った。 「わたくしとしては信じられぬことでした。まさかあのようにして、わたくしに作らせたお金が、女の人のために必要なお金だったと、誰が思うでしょう。わたくしは一時は死んでしまおうかとさえ思いました。わたくしという女は、山代さんにとっては、単にお金を作るために必要だったんです。女として、これ以上の侮辱はちょっと考えられないことでしょう。江原にセザンヌの絵を売り込むために、色仕掛でわたくしをお騙しになりましたの」  新見まさ子は、その問題が現在起っている問題ででもあるかのように、すっかり蒼白んだ表情で言った。 「————」  山代は黙っていた。その通りに違いなかったから、黙って聞いている以外仕方なかった。 「初めから、計画的にわたくしにお近付きになりましたのね。わたくしと関係をお持ちになることも、絵を売り込ませる手段でしたのね。何と愚かだったろうと、わたくし自分に愛想がつきました」 「————」 「江原を裏切り、貴方には騙され、——」 「いや、実に怪しからんことです。しかし、そうしたことを、いまの僕は一つも覚えていません。ただお詫びする以外仕方ありません」 「そりゃあ、いまの山代さんとは関係ないことです。よく存じております。こうしてわたくしの眼の前にお見えになったんですから。そうでなければ、二度とわたくしの前には顔出しはできない筈ですわ」  新見まさ子は、動悸を鎮めるためか、言葉を短く切りながら言った。  山代の眼には新見まさ子が、会って話している間に、次第に違った性格の女になって来るような気がした。初めはおとなしいだけの内気な女に見えていたが、いま彼の前に坐っている女は、思っていることを何でも口にする、一種の開き直り方をした烈しい女性に見えた。 「僕がその金を女に与えたということは、どうして判ったのですか」  山代は訊いた。 「江原がどこからか調べて来たんです。その頃はすでに、わたくしと山代さんのことは江原に判ってしまっていて、わたくしはいわば謹慎中とでもいった恰好の時でした」 「判った!?」 「判りました。江原には何でもすぐ判ってしまいます。仕事に成功するくらいですから、勘が鋭くどんなことでも直ぐ感付いています。山代さんのことは、すぐにばれてしまいました。ある時、江原が旅行中でしたのでわたくし、山代さんのアパートに泊ったのですが、翌朝、アパートを出ましたら、そこに江原が立っておりました。そんなわけで、全く弁解の余地はありませんでした。江原は前から二人のことを変に思っていて、旅行に出ると見せかけて、わたくしの行動を調べていたのです」 「全部江原さんにお話しになったんですか」 「白状いたしました。それ以外はどう仕様もありませんでした。わたくしはもう江原と別れる心を決めておりました。いままで世話になっており、その恩を仇で返すような恰好でわたくしとしては辛いことでしたが、それも仕方ないと思っておりました。ただ、問題になるのは、江原にセザンヌの絵の代金三千万円のうちまだ千万円を返してないことでした。山代さんは江原に三千万円で売り付けた絵をこんどはそれを取り返して郷倉さんに二千万円でお売りになったので、当然そこに千万円の差額ができます。どうしてそのようなことをなさったのか判りませんが、とにかく、郷倉さんに売る時はひどくお金を手に入れることをあせっておりました。わたくしは郷倉さんから戴いたお金をそのまま江原に渡し、別に山代さんから千万円を江原に返すことになっておりました。それがまだ未払いでした。江原は即刻そのお金を返せ、返さなければ山代さんを訴えると申します。山代さんは一年待ってくれとおっしゃる。考えてみれば江原からわたくしを奪っておき、その上お金は払っていないんですから、江原としましては踏んだり蹴ったりです。江原が憤るのは当り前です。それでも江原はわたくしにまだ多少の愛情を持っていて、結局別れるのに二つの条件をつけて来ました。一年間、山代と会わぬこと、一年を期限として千万円返却すること、その上できれいに別れてやろう。こういうのです」  新見まさ子は言った。 「わたくしとしましては江原の出してくれた条件は、まあ、有難いとしなければならぬものでした。わたくしは山代さんと、そのことについて話し合いましたが、好むと好まないに拘らず、その条件に従わないわけには行きませんでした。それで二人は一年先きのお月見の晩まで絶対に会うことを差し控え、そしてそのお月見の晩に、山代さんが江原に払うお金を持って来る。そして、それを江原に返し、その上で二人は初めて一緒の生活にはいる。こういう約束をいたしました。わたくしは真剣にそうしようと思いましたし、山代さんも、その時は真剣な口調でそうすることを約束して下さいました。そうしたことがあってから、わたくしと江原は奇妙な関係になりました。江原ももうわたくしの家を訪ねて来ることはなくなり、必要なお金だけが届けられて参りました。わたくしは一年だけの辛抱だ、一年さえ経てば、山代さんとちゃんとした生活が持てるのだ。そう絶えず自分に言いきかせておりました。味気ない生活でしたが、心に張りはありました。まあ、心配があるとすれば、山代さんが江原に返すお金をうまく作れるかどうかということでしたが、山代さんがそれまでに仕事がうまく行くようになるから絶対に心配ないとおっしゃいましたので、その言葉をそのまま信じておりました。初め江原から引き出した大金は全部、仕事の資金に費ったとおっしゃっていましたので、実際に仕事もうまく行くようになると、わたくし、固く信じておりました」  新見まさ子は言って、ここで言葉を切った。山代は黙っていた。口を差し挾む必要もなかったし、そうした気持にもなれなかった。一人の不徳漢がいかなる行為を為したか、物語でも聞くように、それを聞いているほかはなかった。新見まさ子は、あとを続けた。 「いま申しましたように、江原はもうわたくしの家へ姿を見せることはありませんでしたが、一度だけ、昼間、突然やって参りました。そして、山代という人物を君はどのように思っているか知らぬが、大変悪い男だ。セザンヌの絵の代金として自分から取った金を仕事に費ったなどということは真赤な嘘で、あれはある女にやったのだと申しました。わたくし、その時、その江原の言葉を信じませんでした。そんなばかなことがあっていいだろうかと思いました」  新見まさ子は、ちらっと山代の顔に眼を当てた。 「ね、そうでございましょう。わたくしとしましては、どうしてそんなことを信じられましょう」  仕方ないので、山代は軽く頷いた。自分ながら、ひどく愚劣な役を受け持ってる俳優のような気がした。 「ところが、やはり、それは本当のことでございました」  新見まさ子はまた少し蒼白んで極付けるような言い方をした。 「そのことが、どうして判ったんですか」  山代は訊いた。八束陽子に金を渡したことは、陽子自身の口からも聞いているので、それは疑うことのできない事実である。問題はその事実を、新見まさ子がいかにして確かめたのであるか、そのことを山代は知りたかった。すると、まさ子はその山代の問いには答えないで、逆に、 「山代さんは、お金を渡した女の人のことを、ご存じでしょうか」  そう訊いて来た。 「知っています。八束陽子という名前の女性だと思います。尤も、結婚して姓は変っていますが」  悪びれないで、山代は答えた。 「先日、その女性に会って来ました。僕は大阪時代からその人を知っているんですが、東京へ来てからの記憶を全部失っていますので、東京でその女性といかなる交渉があったか、全く判らないんです。それでその人物の家を訪ねました。かなり多額の金を、僕から受け取ったということを、彼女自身言っておりました」 「その方にお会いになって、どんなお気持がなさいました?」 「何も感じませんでした」 「でも、大阪時代からご存じだったのでしょう」 「知っていました。はっきり言いますと、その当時は強く気持を惹かれておりました。が、こんど会ってみますと、そうした気持を持ったことが信じられぬような、そんな無関心さでした」 「おかしなものですのね」  半信半疑の面持ちで言ってから、 「ともかく、その方に問題のお金をお渡しになりました。上げておしまいになりましたの」  新見まさ子は言った。 「どうも、そうらしいですね。先方もそのようなことを言っております」 「その女の方、ご主人に内緒で株をおやりになり、大金をすっておしまいになって、その穴埋めを、山代さんに相談なさいましたのね。それで山代さんがお金を作って、その方にお上げになったわけです。わたくしのお友達で、証券会社の社長の奥さんになっている方がありますが、その奥さんが事情をよく知っていらしって、わたくしに話して下さいました。そういうわけで、わたくしも、そうした事実を知りました」 「その証券会社の奥さんというのは、どういう方ですか」 「その方、山代さんともお付き合いになっておりました。もちろん、いまの山代さんは覚えていらっしゃらないと思いますが」 「ほう」 「お名前を言うことは控えさせて戴きますわ。——その方がお厭だと思いますから」  山代は、この時、その女性は七浦敏子というのではないか、と口まで出かかったが、危くそれを呑み込んだ。 「わたくし、一時はすっかり絶望的になりました。人間はどんな不幸にも耐えられますが、信じていた人に裏切られた苦しみには耐え得られぬと思いました。現在の山代さんに、恨みごとを言っても始まりませんし、そうした気持はありませんが、山代さんとの関係を申し上げれば、このようなことになります」  新見まさ子は言った。 「いや、いろいろ有難うございました。過去の僕という人間が、大体判ったような気がします。——大変なことをしていますね」  山代は実感を籠めて言った。自分という人間は始末におえぬことばかり仕出かしていると思った。 「まあ、いまとなっては許して戴くしかありませんね」  山代が言うと、 「許すとか、許さないとか、そんな。——先程申し上げたように、山代さんて、本当はいまの山代さんのような方だと思いますわ。それが、ちょっとしたことから、横の方へお曲りになることになりましたのね」 「そのちょっとしたことからというのは、どういうことでしょう?」 「さあ、恐らくその女の方がいけなかったんじゃありません? 山代さんがお金が欲しくて、わたくしに対してなさったことと同じことを、その女の方が山代さんになさったと思います」 「そうでしょうか」 「わたくしは、そう考えております。それにしても、記憶を失くすということは変なものですわね。山代さんはわたくしにお会いになっても何もお感じになりませんのね。可哀そうだとも、悪かったとも、何の感情もお持ちになりませんのね。わたくしの方は、山代さんがいくら記憶を失っていらしっても、顔を合せれば、少しぐらいは判るだろう。そんな気持を持っておりました。ここでわたくし、一つお伺いしていいでしょうか」  改めて新見まさ子は訊いた。 「どうぞ」  山代が言うと、 「わたくし、お月見の晩に、伊豆へ参りました。ご存じでしょう?」 「知っています」 「その時、山代さんの代理だという若い女の方とお会いしましたが、あの方、山代さんの何でしょう?」 「いろいろ世話になっています」 「これから山代さんの奥さまになる方ですか」 「そうかも知れません」 「——と思いましたわ。はきはきしたいい娘さんですね」 「そうです」 「もう記憶を失うようなことないようになさらないと」  多少皮肉な調子であった。  新見まさ子が月見の夜に伊豆のS村へ行った時のことを言い出したので、山代はどういう気持で、まさ子がそこへ出掛けて行ったのか訊いてみたくなった。 「満月の晩、S村で会うことは約束だったのですね。そこへ僕が金を持って行き、——」 「そうです。そして一緒の生活を持つというお約束でした。でも、それを履行するために、わたくし、S村へ出向いて行ったのではありません。入院なさっていることも、記憶を失ったことも存じておりました。ただ、万一山代さんが、このことの記憶を持っていらしって、出向いて来て下さった場合、わたくしが行っていなかったらいけないと思ったんです。——約束は約束でしたから」 「お金のことは申し訳ありませんが、もちろん、いまの僕にはできません」  山代が言うと、 「よろしいんですの。もうすっかり事情は変っております。わたくしと山代さんとの過去はすっかり消えて、失くなってしまいました。いまあるのは江原との関係ばかりです。江原はわたくしに対する怒りは解いてくれました。わたくしの江原に対する気持も一時とは変っております。やはり自分は江原を失っては生活して行けませんし、自分はそうして生きる運命を持って来ていると思います。この間、山代さんは江原とお会いになってご存じだとは思いますが、江原はやはり山代さんに対してはいい感情は持っておりません」 「それはそうでしょう」 「それも、現在の山代さんにとってはお気の毒ですが、まあ、仕方ないことだと思います」  新見まさ子は言った。一時山代に示した怒りの表情や皮肉な口調は消えて、物静かで、何となく哀れなものが感じられた。  山代は先刻から気付いていたことだったが、それとなく新見まさ子の耳に眼を当てた。確かにこの耳には記憶があった。しかし、山代はそうしたことに触れることは、相手に対して礼を欠くことだと思われたので黙っていた。山代は辞去しようと思った。 「いろいろ有難うございました。大変無責任なことを仕出かしていると思いますが、許して戴くほかないと思います。もうお訪ねすることもないと思いますので、重ねてお詫びだけ申し上げておきます。——ただ、江原さんに、お詫びの電話だけ差し上げたいんです」 「さあ」  瞬間、新見まさ子は思い惑っている風だったが、 「どうぞ、——その方がよろしいかも知れません。山代さんもこれから新しい人生をお歩きになるんですから、締めくくりだけはしておいた方がよろしいでしょう。わたくしとお会いになったこともお話しになって結構です」  そう言ってから、 「それにしても、お会いになるのはやめて、電話だけの方がよろしいと思いますわ」  と言った。そして、山代は変な役割を演じた舞台から退場するために立ち上がった。  火  山代は新見まさ子を訪ねた翌日、アパートから江原のところへ電話を掛けた。電話口へ出て来た女中に、こちらの名前を伝えた。果して老人が電話口ヘ出て来るかどうか、甚だ怪しく思われたが、やがて、 「ああ、もしもし、江原です」  そういう声が聞えて来た。その声は江原に違いなかった。 「いつぞや道でお目にかかって、大変失礼いたしました。きのう新見さんのお宅をお訪ねしまして、何もかも伺って、初めて自分の過去を知りました。お許し戴けないとは思いますが、一応お詫びだけ申し上げたいと思いまして」  山代が言うと、 「ああ」  というような不得要領な短い返事が聞こえたが、 「もう、そのことはよろしい」  と、いきなり不機嫌な声が飛び込んで来た。 「よろしい。本当に記憶を失っていることを、この間、病院の先生から聞きました。よろしい。——これから新しい人生を真面目にお生きなさい」  それから、いかにも早く電話を切りたいといった風に、 「もう、これで、よろしいね」  と、相手は言った。 「はあ」  山代が言うと、 「きのう新見から聞いたでしょうが、七浦敏子さんにも電話で一応再生の挨拶をしておく方がよろしい。——いろいろなところへ、あんたは迷惑をかけている。——全部忘れてしまったから仕方ないようなものだが」 「はあ」  山代が言うと同時に、電話は切れた。七浦敏子という名が老人の口から出たので、その女性との関係を訊きたかったが、電話を切られてしまったので、どうすることもできなかった。と言って、山代としては、もう一度江原へ電話する勇気はなかった。  山代は銀座の喫茶店に呼び出され、そこで短い時間話したことのある七浦敏子という女の顔を思い浮かべた。江原はきのう新見まさ子がこの女性のことを話したと思い込んでいて、そのためにこの女性の名前を口に出したものらしかったが、山代はまさ子からは何も聞いていなかった。と言って、満更思い当ることがないわけでもなかった。まさ子は、ある女性から山代と八束陽子との関係を聞いたと言ったが、相手が迷惑するからという理由で、その女性の名前を山代には教えなかった。恐らくその女性こそ七浦敏子であろうと思われた。山代は新見まさ子がその話をしている最中、はっきりした理由なしに七浦敏子の顔を思い浮かべていたが、やはり自分の勘は正しかったのだと思った。  それにしても、七浦敏子なる女性に、自分は一体いかなることをしていたのであろうか。新しい不安が、また山代の心を捉え始めていた。  山代は七浦という名を三回耳にしている。一回は、山代がまだ入院している時、彼女が病室へ来たあとで、佐沼がいまの訪問者は七浦敏子という名前だが、覚えているかと訊いたことがあった。勿論山代は事故で新聞に出た哀れな子供を見舞に来た慈善夫人について何も知るところはなかった。  二回目は、差出人不明の手紙がアパートに舞い込み、指示された銀座の喫茶店へ出掛けて行ってみると、そこへ以前病院に見舞に来た女性が来ていて、自分の出した手紙がまだ手許にあったら返してくれないかと言うことだった。その時、山代は相手に名前を訊いてみると、七浦という苗字《みようじ》だけを口から出した。  三回目は、いま江原へ電話を掛けた時のことで、江原の口からその名前の飛び出すのを聞いたのである。  山代は自分が七浦敏子という女性と、過去において何か浅からぬ関係があることは想像できたが、それがいかなるものであるかは、全く予想できなかった。ただ、いまの江原の口から出た言葉で、自分が相手に詫びを言わなければならぬ程、何か大きな迷惑をかけていることだけは確かなようであった。  山代は電話帳で七浦という名前を繰ってみた。七浦という姓を持つ人物は電話帳に載っている分では一人しかなかった。七浦敏子の容貌や風采からして、電話のない家に生活している女性とは思われない。そうすると、電話帳に載っている七浦初之助という人物は、七浦敏子と何らかの関係を持つ人間と見ていいかも知れない。  山代はすぐ受話器を取り上げた。電話口ヘ出て来たのは、若い女らしかった。 「七浦さんのお宅ですか」 「そうでございます」 「大変ぶしつけなことをお訊ねいたしますが、お宅に七浦敏子さんという方がいらっしゃいましょうか」  山代が訊くと、 「はあ」  と、曖昧に言って、すぐ、 「お宅さまはどなたさまでしょうか」  と、訊き返して来た。 「山代と申す者です」  そう言うと、 「ちょっと、お待ち下さいませ」  相手は電話口を離れて行く風だった。暫くすると、また同じ女が出て来た。 「いま、ちょっと来客中で失礼いたしますが、いずれアパートの方へでもこちらから連絡させて戴きます」  相手は言って、それからアパートの電話番号を訊ねた。山代は相手に電話番号を伝えると、それで受話器を置いた。来客中であるということは嘘で、突然の山代からの電話で、七浦敏子は取り敢えず、そうした態度をとったのではないかと思われた。何となくそんな気がした。  七浦家に掛けた電話を切ってから、五分程すると、こんどは七浦敏子の方から電話が掛かって来た。 「あの、わたくし、七浦でございますが、先きほどお電話戴きましたそうで、——どういうご用件でございましょう」  明らかに、前に銀座の喫茶店で会った七浦敏子の声であった。その口調には、気のせいか、おどおどしたものが感じられた。 「いつぞやは失礼いたしました」  山代が言うと、相手はどぎまぎした風で、 「あ、ついうっかりいたしまして。——いつぞやは、こちらこそお呼び立てしまして、大変失礼いたしました」  と言った。それからまた、 「どういうご用件でございましょうか」  早く用事のおもむきを聞いてしまわないと安心できないといった相手の口調であった。 「実は、ご存じのように、私は過去の記憶を失くしておりますので、このところ、少しずつそれを埋める仕事にかかっております。そうしませんと、これから先き生きて行くのが不安で堪りません」  ここで山代は言葉を切ったが、相手からは何の反応もなかった。じっと息を詰めて、山代の口から出る次の言葉でも待っているのかも知れなかった。 「そんな用件で、郷倉さんにも、新見まさ子さんにもお目にかかりました。郷倉さんや新見さんはご存じでしょうか」 「はあ、新見さんは存じ上げております。郷倉さんて方は存じません」  相手は言った。 「江原さんは?」 「江原さんは存じております」 「江原さんにもお目にかかったり、お電話したりしました」  山代は言った。相手は押し黙っていた。 「私の方は記憶を失っていますので、お目にかかっても、全く初対面の方と同じで、何も思い出しませんが、いろいろ自分の過去のことについて教えて戴きました」 「はあ」  相手は不得要領な相槌を打った。 「どうも、いろいろとろくでもないことを仕出かして、みなさんにご迷惑をかけているようで、穴があったらはいりたい気持です。そんなわけで、江原さんにお詫びの電話をしたのですが、その時、江原さんが迷惑を受けているのは自分ばかりではない、自分に詫びを言うばかりでなく、七浦さんの方にもお詫びしておくべきではないかと言われました。私は勿論七浦さんに対して、どのようなご迷惑をおかけしているか、全然判っていません。お詫びも、お詫びですが、一応お差支えない限り、私と七浦さんとの関係を教えて戴けないかと思いまして」  山代は言った。  山代は相手の疑念を取り去るために、電話を掛けた理由をながながと説明したが、すぐには相手の返事を得ることはできなかった。この場合もまた、七浦敏子は自分がいかなる態度に出たらいいか、そのことを思い惑っている風であった。 「勿論、ご迷惑になることはお話して戴かないで結構です。お差支えない範囲で——」  山代が言うと、 「あの、新見さんは何もかもお話なすったのでしょうか」 「——と思います」 「山代さんとのご関係など——」 「大体、伺いました」 「それ、どの程度なんでしょうか」  そう訊かれると、山代も返事に困った。 「何もかも、一応話して下さったと思います。私が新見さんと関係を持ったのは、大変策謀的なもので、それに依って、江原さんにセザンヌを売り込み、そのお金を全部ある女に与えてしまったというようなことを話してくれました」 「そのある女というのは?」 「新見さんは名前は言いませんでしたが、その女の人が誰であるかは、私はよく知っています。その女の人にも、先日、お会いしました。そして、やはり、大体のことは話して貰いました」  七浦敏子はまた暫く黙っていたが、 「それなら、わたくしもお話ししないといけませんわね。——でも、お電話では」 「電話ではいけませんか」 「そりゃあ、お電話でもお話できないことはありませんが、変ですわ。大体のことをお話するにしましても、——やはり、お目にかかって申し上げた方がいいと思います」 「それは、そうです。どこでお目にかかりましょう?」  性急に山代は訊いた。 「では、この前、お目にかかったお店はどうでしょうか」 「銀座の喫茶店ですか」 「そうです」 「じゃ、そこにしましょう。いつ?」 「いつでも、今日の夕方はいけません?」 「結構です」 「では、あそこで六時にお待ちしております」  七浦敏子は言ってから、 「その後、わたくしが差し上げた手紙や葉書のようなものは出ませんでしたでしょうか」  と、訊いた。 「出ません」 「一枚も?」 「はあ」 「そうですか。それならよろしゅうございますが」  七浦敏子は言った。ほっとしたような表情が、山代はそれを見ないでもよく判った。  山代は七浦敏子との電話を打ち切ると、体を椅子の上に投げ出すような姿勢をとって、煙草に火を点けた。そして自分は何をしているか判ったものではないと思った。新見まさ子という女性に対してろくでもないことを仕出かしているように、七浦敏子に対してもどうせろくでもないことをしているに決まっている。  山代はふうっと大きい吐息をつくと、自分の手を顔の前に持って行って、それを眺めた。一人の悪党の手というものがどういうものであるか、改めてそれを検討するような、そんな気持であった。  いずれにせよ、七浦敏子との関係は、夕方彼女に会った時、大体のことは判るだろう。江原が彼女にも詫びておく方がいいと言ったくらいだから、詫びなければならぬことを、自分はやってのけているのである。  山代がそんなことを考えている時、つかさが部屋へはいって来た。つかさは三日間姿を見せなかっただけであったが、山代はひどく長い間顔を合せないでいるような気がした。 「どうしていましたか?」  つかさは外套を脱ぎながら言った。 「それが、大活躍なんだ。郷倉さんのところを、もう一度訪ねたし、君と一緒に行った時郷倉さんの口から出た女の人のところへも行った。新見まさ子と言うんだが、月見の時君が会った人物だった」 「やはり榊原芳重というのは偽名でしたのね」 「偽名ではなくて、映画に出た時の名前だったらしい」 「女優さんの時の名前ですか」 「そう。——だが、一本か二本映画に出ただけでやめてしまったんで、いまは誰も覚えていないということだった」 「——でしょうね。聞いたことありませんもの。で、どうでした?」 「やっぱり、ひっかかりがあった」  山代が言うと、 「それは判ってますわ。でなくて、お月見の晩にのこのこ出て来たりしません」 「いつか会った例の老人、これは江原という人物だが、その人の世話になっている女性で」 「二号さんですのね」 「二号さんかどうか知らないが」 「二号さんじゃありませんか。正式の奥さんじゃないんでしょう」 「うん」 「じゃ、二号さんですわ」  つかさはそう決め込んでしまう言い方をして、 「冷たいというか、冷酷というか、ちょっとそんな感じの人でしょう」 「うん」  山代は新見まさ子を、つかさの言うような女性には思えなかったが、しかし、つかさの見方に反対しないでおいた。話題が話題なので、反対しないでおく方が安全なような気がした。  山代は一応新見まさ子から聞いた自分と彼女の関係を、ありのままつかさに語った。自分に関係のない小説の筋でも話しているような気持だった。別に話しにくいこともなかった。 「会っていて、どういう気持がしました?」 「どういう感じもしない。八束陽子と会った時と同じように、いかなる感情も動かないんだ。そういうことがあったのか。なるほど自分はそんなことをしただろう。——」  山代が言うと、 「相手の人も張り合いがないことでしょうね。どんな顔をしていました?」 「多少の恨みを持っているんじゃないかと思った。時々、そんな感じを受けた」 「わたくしのこと、何か言いませんでした?」 「将来奥さんになる人かというようなことを訊いた。そうだと答えたら、こんどは記憶を失わないようになさらないと、と言っていた」 「その言い方厭ですわね」  つかさは眉を顰めて言った。 「幾らかまだ変な気持を山代さんに対して持っているんですわね。でなければ、そんなこと言いませんわ」 「そんなことはないと思うね。単なる皮肉なんだ」 「もちろん、皮肉は皮肉ですけど」  つかさは、相手に一度会っているだけに、新見まさ子の場合は、他の女の場合とは違って、とかくおだやかならぬ気持を持つようであった。 「それからもう一人ある。七浦敏子。例のいつか病院に来た女の人だ」 「銀座でお会いになった人でしょう」 「その人と、きょうの夕方、会うことになっている」  山代は七浦敏子と会うようになったいきさつを、これもまた、ありのまま、つかさに報告した。 「どこでお会いになります?」 「この前会った銀座の喫茶店」 「厭ですわねえ。退院してから二回も、そんなところでお会いになるなんて。——まるで密会じゃありませんか」  つかさは明るく笑って言った。新見まさ子の場合とは違って、口では厭だと言っているが、この場合は、少しも厭そうではなかった。 「一緒に行く?」 「どういたしまして。——お二人だけで、お会いになったらいい。お邪魔いたしません」 「が、会って話を聞いたら、どんな問題が飛び出すかも判らない。こっちの方が無気味だ」  山代が言うと、 「わたくし、その人の方は、本当のことを言うと、少しも気になりませんのよ。山代さんが加害者で、その方が被害者ですわ。でも、新見さんっていう人の方は、何となく厭ですの。お月見の夜、のこのこ現われたりしたからでしょうか。なぜか、山代さんの方が被害者みたいな気がします」  つかさは言った。そして言ってから、自分の言ったことを考えでもするように、視線を山代から外してしんとした顔をしていた。  つかさは自分だけで何か考えている風だったが、ふいに顔を上げると、 「崖の下で倒れていらしったんでしょう。新見さんて方が、崖の上に住んでいらっしゃるんですから、やはり、その方をお訪ねになろうとしたのかしら」  そう言った。  このことは山代もまた考えないことではなかった。崖の下で倒れていたのは、あの崖を登ろうとして、誤って転落したものと考えるのが一番自然のようである。それならどうして、あの崖を登ろうとしたのであるか。 「きっと新見さんて方のお家へ行こうとしていたんですわ。それしか考えられない」  つかさは幾らか暗い表情で言った。 「一年間、絶対に会わない約束をしていたと言っていた」 「そんなこと当てになりませんわ」 「しかし、彼女から来た葉書にも書いてあったじゃないか。来年の満月の夜、会おうという葉書だった」 「彼女なんていう呼び方、厭ですわ」 「便宜上、そう呼んだだけなんだ。じゃ、新見」 「あ、もっと厭!」  つかさは顔を顰めて叫ぶように言った。そして、 「新見まさ子って女の人、——そうおっしゃればいい。それが一番自然じゃありませんか。それを彼女だなんて!」 「よし、注意しよう」  山代は真顔で言った。山代自身は相手をどのような呼び方で呼んでも、いかなる感情の動きの違いもなかった。しかし、そうしたことを、つかさに判らせることは難しそうだった。 「崖の上にはもう一人住んでいる。江原という老人だ。その老人を訪ねて行く場合だってないとも限らない」  山代が言うと、 「そのお年老りを訪ねることだって、やはり考えてみると厭なことですわ。新見さんて女の人と関係があることですもの」 「それは、そうだが」  そう言ってから、 「ばかだな、俺たちは。——失くなった過去にあったことを、あれこれ想像しても始まらないな」  と、ふいに山代はそのことに気付いて言った。すると、つかさもまたそのことに気付いた風で、 「ほんとに、いつか知らないうちに、過去の時間と現在の時間がごちゃごちゃになってしまいますわね。ですから、一応何もかも知れるものは知っておく方がいいと思いますわ」  と言った。 「だから、そうしているわけだ」 「そこのところを、余程はっきり自分に言いきかせておかないと」 「それは、君のことだ」 「そうですの。わたくし自身のことですの」  つかさは素直な表情で言った。  山代が自分の行動を一応つかさに報告し終ると、 「わたくしの方も遊んでいたわけではありませんのよ」  と、つかさは言った。 「わたくし、例のセザンヌの絵を取り扱った画商さん二人に会いました。あの絵は初め老人の江原さんへ、山代さんが売り込み、江原さんが何となく疑っているので、それを取り返して、次に郷倉さんに売り替えました。確か、そうでしたわね。ここまでは間違いありませんわね」  念を押すようなつかさの言い方だった。 「うん」  山代は大きく頷いた。 「ところが、郷倉さんも何となく怪しい気持がして、画商に売ろうとしたんです。画商もみんな怖がって手を出さなかったんですが、三松さんという画商がそれを買いました。それから大阪の南泉堂という画商の手に移り、南泉堂から村木さんへ移ったというわけです。このことはわたくしたち村木さんから、いつか聞きましたが、村木さんが話された通りでした。一昨日、三松さんに会い、きのう大阪の南泉堂さんに会いました。南泉堂さんがたまたま上京中のことを三松さんから聞いて、三松さんの紹介で会いました。画商さんたちは二人とも、自分たちに眼がなくて残念だった。村木さんにしてやられてしまったと口惜しがっていました。結局、セザンヌの絵は初めから真物だったということになります。山代さんが心配されたようなことは何もなかったというわけです」  つかさは言って、改めて山代の眼を見入るようにした。 「そういうわけなんだろうが、しかし、どうも変だな。郷倉さんは僕の偽作売買の記憶を妄想だと言った。妄想と考える以外説明がつかないかも知れないが、しかし、どうも腑に落ちないな」  山代は言った。自分の記憶に蘇って来た、若い画家とセザンヌの偽作の取引をした一場面は、根も葉もない妄想だと言い切ってしまうには、余りにもその場面の持っている雰囲気は生々しいと思う。 「過去に於て、僕が一つの妄想を持った。その妄想の部分だけの記憶が突然回復した。さしずめ、そうとでも考える以外仕方がないが、実際にそんなことがあるだろうか」 「きのう、佐沼先生にお会いして、そのことをお話したんです。偽作のことは、先生にはお話してなかったんで、先生はずいぶん驚いていましたが、それはいま、山代さんがおっしゃったように、妄想の部分だけの記憶が回復したのだろうと言っておられました。そうした例はいままでにはないそうですが、絶対にあり得ないこととは言えないんですって」  それから、つかさは口調を変えて、 「ともかく、このことがはっきりしてよかったと思いますわ。偽物を真物だと言って売るような詐欺師でなかったことだけは確かですわ。これから気持よく、新しいお仕事にはいって行けます」  つかさは山代を励ます言い方をした。  山代は前に七浦敏子に呼び出されて出掛けて行った同じ銀座の喫茶店へはいって行った。くるまの混み合う時刻で、約束の六時を十分程過ぎていたが、七浦敏子はまだ姿を見せていなかった。  食事時なので店内は混雑していた。どの卓でも客たちがフォークとナイフを動かしている。喫茶店として知られた店であったが、軽い食事もできるので、夕方から暫くの間は食事をする客たちが店を占領するらしかった。  そうした中で、山代は紅茶の茶碗一つを卓の上に置いて、相手の現われるのを待った。卓は殆どふさがっており、卓のあくのを待っている客もあったが、殆ど全部がアベックの客なので、山代の卓へ近付いて来る者はなかった。そろそろ紅茶いっぱいでは場がもてないと思われる頃になって、 「お待たせいたしました」  と言いながら、七浦敏子がやって来た。 「大変混んでいます。ほかの店へ行きましょうか」  山代が言うと、 「却ってこの方がよくはありません? お話しやすいと思いますわ」  七浦敏子はちょっと店内を見廻すようにして言った。 「では、ここでお話を承りましょう」  山代は言ってから、改めて、 「すみませんでした。とんだことでお呼び立ていたしまして」  と、頭を下げた。 「いいえ」  七浦敏子は軽く会釈してから、 「その後、ご病気はいかがですか」  と訊いた。何となく緊張している感じだった。顔はこの前より蒼ざめていて、着物のためか老けて見えた。 「病気と言っても変な病気ですから、これ以上癒ることは望めないと思います」 「ご記憶の方は、その後?」 「そのままです。記憶を回復するならもうとうに回復している筈です。いままで回復しないところをみると、どうやらこのまま固まってしまうんじゃないかと思います」 「——と言いますと、もうお忘れになったことを思い出すことはないんでしょうか」 「そうだと思います。完全に過去の一部を失ったまま、これから生きて行くということになります。ずいぶん厄介なことですが、これも致し方ありません。僕は、あまりいいことはしておらず、大変周囲の方にご迷惑をかけていると思いますので、まあ、天罰とでも思うべきなんでしょう。それにしてもひと通り自分がやったことだけは、自分で知っておいた方がいいと思います。そんなわけで、突然お電話差し上げたようなわけです」  山代は、七浦敏子のために紅茶を注文した。 「もう記憶を回復しないといいましても、でも、いつまた記憶が戻らないものでもないじゃありません?」  七浦敏子は言った。そのことをはっきりさせておきたいといった言い方だった。 「しかし、発病してから半年以上経つと、もうめったなことでは記憶は回復しないようですね」 「——でしょうか」 「そういう例は非常に少いようです」  それから、山代は、 「ぶしつけな質問で痛み入りますが、僕は貴女とどのような関係にあったのでしょうか」  そういきなり訊いてみた。七浦敏子は上眼づかいに山代の方を見て、何か言いかけたが、そのまま黙ってしまった。 「一体、最初お目にかかったのはいつのことでしょうか」  山代は質問を具体的なものに置き替えた。 「最初にお目にかかった時ですか」  ふいに考えるような眼付きをしたが、 「そういうこともご記憶にありませんのね」 「全然ありません」  七浦敏子は自分の頭の中で、自分の言うことを整理している風に見えたが、やがて肩を落すように大きい吐息をしてから、 「わたくし、山代さんとお目にかかりましたのは、そう度々ではありません。算えるほどです。全部で四、五回ぐらいのものです」 「ほう」 「わたくし、まだ山代さんにお目にかからない前に、新見まさ子さんの訪問を受けました。その時まで新見さんとは面識ありませんでした。ふいに、新見さんが訪ねていらっしゃいました。そして、セザンヌの絵を一点お持ちだそうですが、それを見せてくれないか、こうおっしゃいました」 「ほう。——セザンヌの絵!」 「それでお見せしました。そしたら、わけがあって、これを是非欲しいので、これを自分に譲ってくれないか、というお話でした」  ここで、七浦敏子は言葉を切って、 「確かそうでした。これに間違いありません」  そう考え深そうに言った。そしてまた相手は暫く黙っていた。山代にはまた、七浦敏子が次に語ることを頭の中で考え、そのことで思いあぐんでいるように見えた。  七浦敏子の口からセザンヌの絵のことが出たのは、全く思いがけないことだった。山代は相手が次を続けるのが待ち遠しい気持だった。 「実は、わたくし、今朝ほど新見さんにお電話掛けまして、新見さんがどのようなことを、貴方にお話したか伺ってみました。わたくし、お喋りして新見さんにご迷惑がかかってはいけないと思ったからです。そうしましたら、新見さんは何もかも、ありのままにお話になっておりました。あの通りですのよ、新見さんとのご関係は」  七浦敏子は言った。 「新見まさ子さんは、わたくしが初めてお目にかかった時は、とても山代さんのことを心配していらっしゃいました。こんないい方がどうして山代さんのような方と、——失礼な言い方ですが、本当にその時そう思ったんですから、——山代さんのような方とかかわり合いを持ってしまったかと思いました。見ていられないほどお気の毒でした」  七浦敏子は言った。 「はあ、どうも」  山代は半ばしょげながら言った。 「全く、その通りです」 「新見さんは山代さんに全部ありのままお話になっていますが、ただ一つだけお匿しになっていることがあります。わたくし、自分の一存でそのことをお話申し上げようと思います。お話しませんと、新見さんがどんなお気持を持っていらしったか、山代さんにはお判りにならないと思うからです。いま申しましたように、新見さんは突然わたくしのところを訪ねていらしって、わたくしの持っているセザンヌの絵を、どうしても譲って貰いたいとおっしゃるんです」 「セザンヌの絵と言いますと?」 「セザンヌの風景画で、貴方が江原さんにお売りになったのは、その偽作です」 「やっぱり、そうでしたか。どうも、そういうことではないかと思ったんです」  山代は言った。さしてそのことから衝撃は受けなかった。やっぱりそうだったかという初めて納得する気持だった。 「新見さんはどうしても譲って貰いたいとおっしゃるんです。訳を聞いてみますと、ある人がセザンヌの偽作を売る詐欺事件にひっかかって、大変困っている。真物を手に入れて、それを偽作と替えて、事件が表沙汰にならないうちに処理してしまい、そしてその人を救ってやりたい、こうおっしゃるんです。そのある人というのは、申し上げるまでもなく、山代さんのことです。しかし、お話にどうも不審な点がありますし、その問題のセザンヌの絵というのも、わたくしの祖父がヨーロッパに旅行した時手に入れて持ち返ったもので、わたくしの家としては単に家宝であるばかりでなく、おいそれと手放すことのできないものなんです。それで、いろいろ詳しくお訊ねしたんですが、お訊ねしているうちに何もかも包まずお話しになりました。新見さんは、山代さんがなさった詐欺行為を、山代さんに気付かれないように処理してしまおうとなさっているんです。面と向って、貴方のやっていることはこのように悪いことだと突き付けたら、山代さんの立つ瀬はなくなってしまい、自分からも離れて行ってしまうのではないかと、そのことを新見さんは怖れているわけなんです。わたくし、世の中にずいぶん悪い男の人もいるものだと思いました。そしてそうした山代さんを救うために苦労している新見さんを、本当に心の底からお気の毒に思いました。女というものは何と哀れなものだろうと思いました。もちろん、新見さんは、その時、江原さんとは別れて、山代さんと一緒になるつもりになっておられました」  山代は煙草を喫みたかったが、何となくちゃんとしていなければいけないような気持で、それを遠慮していた。 「僕が江原さんに売り込んだセザンヌの偽作なんですが、それを、どうも自分は、ある若い画家から買いとったような気がするんですが」  山代が言いかけると、 「覚えてらっしゃいますの? そのこと。——覚えてらっしゃいますのね、やはり」  七浦敏子はそんな風に口を差し挾んだ。この時、山代は相手の顔が異様に歪むのを見た。と、その歪んだ顔の中で、眼だけが烈しく山代の方を見た。 「厭ですわ。山代さんって、覚えていらっしゃるじゃありませんか。記憶を失ったなんておっしゃっているくせして、そんなことをちゃんと知ってらっしゃる」  七浦敏子の整った顔の変り方があまり烈しかったので、山代は急にうろたえて言った。 「覚えてはいません」 「いえ、覚えていらっしゃる。では、どうしてそんなことご存じなんです。いま、確か偽作を若い画家から買いとったとおっしゃいましたわ」 「ただ、そんな気がするんです」 「そんな——」 「いや、本当です。どうも、そうじゃないかと思う。画廊の事務所で、若い色白の背の高い画家と、セザンヌの偽作の売買の相談したことがあるような気がするんです。その場の光景だけを、もしかすると思い出しているのかも知れません。勿論、それがいかなる人物かも知りません。その前もあとも判らない。そのことだけが、ぴょっこり蘇っているんです。——妄想かも知れません。しかし、どうも、僕には妄想とは思われない。本当にそんなことがあったような気がするんです。新見さんにも偽作じゃないかとお話しました。そしたら新見さんは、真物だったと言うんです。が、どうも、僕は本当にあったことのような気がする」  山代は多少早口だったが、勢い込んで言った。自分の言うことが偽りでないことを判って貰いたかった。七浦敏子は相変らず顔を歪めたまま聞いていたが、 「新見さんにもお話になりましたのね」 「そうです」 「じゃ、山代さんのおっしゃる通りに信じておきましょう」  口では、そんな言い方をしたが、明らかにほっとしたものが、彼女の顔を掠《かす》めた。 「こうしたことは、もう一つあるんです。それはその絵を江原さんに売り込んだ時の情景です。勿論江原さんにお会いしてみて、相手の老人が江原さんだということは判ったんですが、初めはそんなことは判りません。誰か判らないが、ある老人に絵を売り込んだことがある。そんな気が頻りにしたんです。過去の記憶の欠片を持っているとすれば、この二つです。記憶とは言えないようなものですが」  山代は言った。 「判りました」  七浦敏子は初めてほっとした表情になって言った。 「それ、妄想ではなくて、そうしたことが、ちゃんとありましたのね」  七浦敏子は言った。 「新見さんが真物だとおっしゃったのは、山代さんを庇って上げたんですわ。新見さんは何もかも山代さんにお話になっていますが、わたくし、一つだけ匿していることがあると言いましたのは、そのことなんです。山代さんは何もかも忘れてしまっていらっしゃる。そんな何もかも忘れてしまった人に、貴方は過去にこんな悪いことをしたと、何もそのことを突き付ける必要はないとお考えになったんだと思います。ご自分との関係は一応お話しになった。それだけにしておこう、こうお思いになったんですわ、きっと。——新見さんってそんな優しいところがある方ですわ。ご自分がずいぶん迷惑を受けた人ですけど、偽作のことだけは知らさないでおいて上げようと、こうお思いになったんですわ」  七浦敏子は言った。 「じゃ、やはり、僕は偽作をある青年から手に入れたんですね」  山代が言うと、 「そうだと思います」  七浦敏子は、また多少警戒する表情をとって言った。 「どういう画家なんでしょう」 「さあ」  すぐには返事をしなかったが、やがて、 「わたくしも、その若い画家の方をよく存じません。ただ、いつか若い絵描きさんがわたくしの家へ来まして、セザンヌの絵を勉強のために模写したことがあります。山代さんがお買いになったり、お売りになったりしたセザンヌの偽作というのは、多分その若い絵描きさんの模写した絵なんだろうと思いますわ」  そう、一語一語考えるようにして言った。山代は相手がその他のことは、かなりはっきりした口調で、つけつけと言っているのに反して、若い画家のこととなると、急に言葉が曖昧な調子を帯びて来ることに奇異なものを感じた。 「その絵描きさんというのは、もしかしたら、青江という名前ではありませんでしたか」 「そんなこと存じませんわ。その時は名前を聞いたんでしょうが、覚えておりません」 「幾つぐらいの人ですか」 「さあ、三十ぐらいでしょうか。これも、はっきりとは覚えておりません」 「その後、お会いになってはいないんですね」 「はあ」 「いま、どこにいるんでしょうか、その絵描きさんは」 「さあ」  七浦敏子は顔を俯けていたが、それを上げると、 「外国へ行ったとか、行かないとか、誰かから、そんなことを聞いたような気がします」  そう言った。訊問する者と、される者とが、いつか逆になっている感じだった。 「そうすると、セザンヌの作品の模写をしたその若い絵描きさんが、僕のところへその絵を持ち込んで来たのでしょうか」  山代が言うと、 「そのことは、わたくし、存じませんが、山代さんが若い絵描きさんから偽作をお買いになったというのなら、恐らく、わたくしのところへ来ていた——」  言いかけて、七浦敏子は言い直した。 「わたくしのところへ来た絵描きさんと同じ人だろうと思います」 「模写する初めから、そうした企《たくら》みを持っていたのでしょうか」 「さあ」  七浦敏子はまた顔を歪めて、 「存じませんわ。——でも、初めはそうした悪い気持は持っていなかったと思います。とても純真で、真面目な青年でした。ですけど、青い顔して、どこかに不健康なものがありました。あとで考えると何か注射でもしていたのではないかと思います。注射って、怖いものでしょう。癖になると、どうしてもそれをやらずにはいられなくなるんじゃありません?」  そう言った。 「そういうものらしいですな」  山代は、七浦敏子から眼を離さないでいた。山代にそうさせるようなものを、相手の表情や態度は持っていた。ひどく苦しそうであった。 「そんなことから、どうしてもお金が欲しかったんだと思いますわ。それで、——」 「——僕のところへ持ち込んで来たのでしょうか」 「持ち込んで来たとおっしゃっても、本当に持ち込んだかどうかは判らないんじゃありません? ああいう立場の人は、誘惑には無抵抗ですから、ちょっとでも誘いをかければ」  七浦敏子は相変らず俯いたままで言ったが、口から出る言葉は、山代には何となく歓迎すべからざるもののように思われた。 「すると、僕の方で、その絵描きさんにそのような誘いをかけたということですか」 「さあ。——詳しいことは存じませんけど」  その言葉には、暗に山代の言ったことを肯定しているような響きがあった。山代は、しかし、自分の持っている記憶の欠片から推す限り、そのようなことはないように思われた。確かに、青年は自分からセザンヌの偽作を持ち込んで来たのである。山代が命令し、その命令にこたえて、青年がその絵を持ち込んで来たといったその場の感じではなかった。 「僕はそんなことはせんと思うんですが」  山代は言ったが、それを強調する何の材料もないことに気付いた。 「僕の感じでは、相手が持ち込んで来て、それを、僕が——」  言いかけると、 「感じっておっしゃいますが、本当にそれは単なる感じなんでしょう」  七浦敏子は言った。山代は相手がいまや自分の敵として発言していることを感じた。 「もちろん、記憶を失っている者ですから、大きなことは言えませんが、何となく僕の持っている記憶の欠片のようなものから判断すると、相手が持ち込んで来たように思うんです」  山代が言うと、 「そうかも知れません。でも、そうでないかも知れませんわ。わたくしも、別にその若い絵描きさんから直接聞いたわけではありませんので、わたくしの方も強いことは言えませんが、ただ、そんな悪い企みをする人とは、どうしても思えないんです」 「薬品の中毒患者なら、薬のためにはどんなことでもするでしょう」 「可哀そうですわ。そんな悪者にしてしまっては」  七浦敏子は顔を上げた。恨みがましい言い方だった。相手がそういう言い方をすると、山代の方は、あくまで自分の方を庇いたい気持になった。 「可哀そうかも知れません。でも、そういうことは充分考えられるでしょう。——僕はどうも自分から働きかけたとは思われない。問題は、僕が命じて持ち込ませたか、相手が自分の意志で自分から持ち込んで来たか、ただそれだけの違いで、いまとなっては、どちらでもいいようなものですが」  山代は言った。幾らか興ざめたような思いがあった。 「そりゃあ、いまとなっては、どちらでもいいようなものですよ。そのあと始末はみんな新見さんがなさったんですから」  そう言われると、山代としては一言もなかった。山代は急に自分の気持から気負い立ったものが抜けて行くのを感じた。 「どちらでもいいようなものですけど、でも、悪いことを若い絵描きさんに押し付けては可哀そうだと思います。お金を得るために、山代さんったら、いろんなことをなさってらっしゃるでしょう?」 「はあ」 「新見さんをお騙しになったり」 「はあ」 「ご自分では偽作と知りながら、江原さんにお売り込みになったり」 「はあ」 「ですもの。——若い絵描きさんとのこと、普通に考えれば、わたくしの考えのようになるのが自然だと思います」 「はあ」  山代は全く受け身の立場に立たされていた。返す言葉もなかった。自分では、他に悪いことはいっぱいしているが、これだけは違うと言いたかったが、そう言う元気はなかった。その山代に最後のとどめでも刺すように、 「山代さんのなさったこと、これだけではございませんのよ。江原さんからお受け取りになったお金を全部、八束陽子さんに差し上げておしまいになったんですから。——これこそ、初めから企んだことですわ」  七浦敏子は顔を上げて挑むような表情で言った。 「八束陽子さんをご存じですか」  山代は訊いた。 「存じております。もちろん嫁いで現在は姓は変っておりますが、わたくし、大阪時代からのお友達です」  七浦敏子は言った。 「八束さんに、——ここでは八束さんということにしておきましょう。山代さんも大阪時代からのお付き合いだそうですから、八束さんとお呼びする方がよろしいでしょう」 「そうです。東京に来てからのあの人のことは何も知りません。——もちろん忘れてしまって、知らないんですが」 「その八束陽子さんとのことお話します前に、セザンヌの偽作の締めくくりを申し上げておきますわ。途中で話が横道に逸れてしまいましたから」 「どうぞ」  山代は、相手の言うことをそのまま受けて言った。 「セザンヌの絵は、わたくし、新見さんにお譲りしました。正当な価格で、——もちろん、偽作の場合のような法外な値段はつけません。その三分の一ほどの値段です。そして偽作の方はわたくし頂戴いたしました」  七浦敏子はまた俯いた姿勢になって言った。 「お持ちですか、現在」 「いいえ」  七浦敏子は顔を上げて首を横に振った。はっきりと否定する振り方だった。そして、それに続いて、 「焼きました」  と、ぽっと、その短い言葉を投げ出すように言った。 「焼いた!?」  思わず山代は叫んだ。 「焼いちゃったんですか」 「焼きました。新見さんにご相談して、焼いてもいいかどうか伺ったんですが、焼いてよろしいというお返事でしたので、わたくしの家の庭で焼きました。十分程で灰になってしまいました」 「ほう」 「ですから、もう、山代さんの為さったことは影も形もなくなってしまいました。証拠というものはありません。あるものは、真物のセザンヌの絵ばかりです」 「そんなことを、新見さんは何も話しませんでした」 「そうでしょう。どうせ灰になってしまったことですから、本当にそんなことはなかったということにしておく方が、山代さんがこれから新しく生きて行く上にいいとお考えになったんだと思いますわ。新見さんって、そんな方です。ですから、新見さんの人柄に打たれて、わたくしも主人に納得して貰って、セザンヌの絵をお譲りすることにしたんです」  七浦敏子は言った。  山代は七浦敏子の言葉を聞きながら、自分の悪事の唯一の証拠資料であるセザンヌの偽作が燃える火を、何となく眼に浮かべていた。相手はいつ焼いたとも言わなかったが、山代はそれが真昼の明るい光線の中で焼かれたような気がして、それを焼く炎が陽光の中で白い光を放っているさまを思い描いていた。 「判りました。何もかもこれではっきりしました」  山代は自分の長い間の心配事に終止符が打たれた思いで、ほっとした気持になって言った。すべてはこれで終ってしまったのである。 「お話を伺ってよかったです。新見さんにも感謝いたしますし、貴女にも心からお礼を申します。江原さんが、貴女にもお詫びするようにと電話でおっしゃっていましたが、それはセザンヌの絵のことだったんですね」  山代は念を押した。 「そうでございましょう。わたくし、もちろん初め、それをお譲りしたくはなかったんです。強引にお譲りすることを承諾させられたような形になりましたので、それで江原さんが、そのようにおっしゃったんでしょう」 「その絵のお金は新見さんが払って下さったんですか」  山代はこのこともはっきりしておきたかった。 「すぐ戴きました」  七浦敏子は答え、 「それから、八束陽子さんのことですが、そのお話をいたしましょう」  と言った。 「どうぞ」  山代は煙草を取り出した。いかなることが持ち出されるか判らぬ不安な気持が、また山代の顔を固くした。 「わたくし、八束さんとは学校時代同級でした。二人とも東京で生活を持つようになりましたので、ずっと親しくお付合いしておりました。そんなわけで、八束さんがご主人に内緒で株をおやりになり、それで大変な損をなさった時も、すぐわたくしのところへご相談に来られました」 「ほう。——株ですか」 「わたくしも株をやっておりましたが、あの方、大胆でしょう。わたくしなどからすると怖いようなことをなさって、それで大損なさいましたの。相談には来られましたが、わたくしもどうして上げようもありません。それから二カ月程して来られた時、その時初めて、八束さんの口から山代さんのお名前が出ました」  ここで、ちょっと七浦敏子は言葉を切って、少し語調を改めて、 「山代さんは、八束さんがお好きでしたのね。その気持、いまもございます?」  と訊いた。 「さあ、多分、ないと思います」  山代は答えた。 「八束さんは貴方に急場を救って戴いたと言っておりました。それを聞いた時、わたくし、本当に驚きました。山代さんが新見さんを騙して、江原さんに売り込ませて手に入れたお金は、そっくりそのまま八束さんの手に渡っているんですもの。新見さんこそ踏んだり蹴ったりだと思いました」  七浦敏子は言った。 「新見さんを騙して、八束さんを救《たす》けて上げようとなさいましたのね」 「そういうことでしょうね」  山代は他人事のように言った。そうしたことをした自分という人間の心の内部を窺いみたかったが、しかし、心は空っぽだった。何も詰まっていなかった。 「八束さんをお好きだったという記憶は残っておりますのね」 「残っております。記憶として残っております」 「現在のお気持は?」 「いまは何でもありません。曾て愛情を持っていたという記憶がありますので、会ったらどういうことになるかと思ったんですが、実際に会ってみますと、不思議になんでもありません。他人の恋人に会っている場合と同じなんです。この女性を、過去の自分は愛していたのか。一体、どこに惹かれていたのか。そんなことをあれこれ考えながら、相手の顔をじろじろ見ていただけの話です」 「そういうものなんでしょうか」  七浦敏子は解《げ》せない面持ちで言った。 「ずいぶん頼りないものですのね。——愛情なんてもの」 「はあ」 「記憶を失うと、そんなものも消えてしまうんでしょうか」 「さあ」 「では、記憶を回復なさることがありましたら——?」 「————」 「前のように愛情も生き返って来るんでしょうか」 「さあ、そういう問題は判りません。記憶を回復してみないと見当が付きません。しかし、もう記憶を回復することは恐らくないでしょう」  山代は不機嫌に言った。何十回、何百回となく自問自答した問題を、ここでまた七浦敏子との間に蒸《む》し返す気にはならなかった。  山代は七浦敏子との会見をそろそろ打ち切りたくなっていた。卓の上には、紅茶茶碗が載っている。山代は何か他に聞いておくことはないかと考えていたが、 「この前、お目にかかった時、お手紙のことをおっしゃっておりましたね」  と、話題をその方へ持って行った。いやに手紙のことを気にしていたので、どんな手紙なのか知りたかった。 「手紙でございますか」  七浦敏子はまたさっきとったような固い表情になった。固い表情になると、眼眸《まなざし》が暗い感じになって、多少怯えているのではないかと思われるような顔になった。山代はさっきもそうであったが、こんどもまたこの七浦敏子の顔が気になった。なぜ時々、この女性はこのような表情をとるのかと思った。 「今朝のお電話でも、手紙のことをお訊きになりましたね」  山代が言うと、 「それは、そうですわ。手紙が山代さんのお手許に残っているのは厭ですもの。山代さんが記憶を失っていらっしゃる以上、その手紙の意味は何もお判りになりませんわ。訳の判らぬ手紙が山代さんのお手許にあるというわけでしょう。差し上げた本人のわたくしの身になりましたら、やはり赤の他人に手紙を見られると同じことで堪りませんわ」  七浦敏子は言った。そう言われればその通りであった。曾ての自分に寄越した手紙を、いまの自分が読むことは、七浦敏子の言うように、赤の他人が読むことと同じであった。 「それにしても、どのような用件のお手紙だったでしょう」  山代が訊くと、 「別にたいした用件ではございません」  そう言ってから、 「本当に一本も残っていないのでしょうか」  と言った。この質問は、これまでに何回も七浦敏子の口から出されたものであった。余り度々念を押されているので、この問いに関する限り執拗な感じであった。 「事務所とアパートにあった手紙は一本残らず眼を通しました。貴女からのお手紙は一本もありませんでした。この前ここでお目にかかった時も、手紙のお話が出ましたので、帰ってからまた、全部の手紙に眼を通しました。やはり見付かりませんでした。もうこれ以上探す方法はないと思います」  山代は相手の心から疑念をいっきに払い落してしまうような言い方をした。そうした山代の気持を見てとったのか、 「くどく申し上げてすみませんでした。勿論手紙が残っていなければいいんです。残っていたら破るか返して戴くかしたいと思っただけです。手紙の内容は別に何でもありませんわ。山代さんが偽作をお買いになった青年画家は、さっき申し上げましたように、わたくしも面識がありますし、偽作のもとになった絵はわたくしのところのものですし、もし問題にでもなった場合、わたくしも迷惑いたしますので、その青年からお買いになったようなものが、まだ別にもありましたら、それを買い戻させて戴きたいと、そんな問合せのお手紙を差し上げたわけです」 「ほう。一度ですか」 「はあ。——でも、二度ぐらいでしたでしょうか」  七浦敏子はまた暗い眼をして言った。そして手紙の話を大急ぎで打ち切るように、 「大体、これでわたくしとしましては、全部お話したと存じますが」  と言った。 「有難うございました」  山代は礼を言った。 「新見さんのことが、お判りになって戴けば、それが何よりですわ。本当に山代さんのことを真剣に考えた方ですし、また山代さんのことで一番悩んだ方でもありますし」 「よく判りました。あの新見さんという方にはすまないことをしたと思います。最後まで僕を庇って下さったんですね」 「そうですわ。偽作事件を処理なさったことも、お知らせにならないんですから」 「そのことは心から感謝していますし、お会いの節はよくお礼申し上げて戴きたいと思います」  山代が言うと、 「でも、そのことには触れない方がよろしゅうございますわ。わたくし、自分だけの考えでお喋りしましたが、折角、新見さんが匿しておいて上げようとお思いになったことですし、山代さんとしても、そのことはわたくしから聞かなかったことにしておいた方がよくはありませんかしら。新しい山代さんの出発に対する、新見さんからの贈りものですから」  七浦敏子は言った。 「そうですね。僕も聞かなかったことにしておきましょう。——では」  山代は少し椅子を背後に引いた。周囲の客は少くなっており、紅茶を注文しただけで、長い間ねばった客に対して、心なしかボーイたちの冷たい眼が集っているように思われる。 「もう多分お目にかかることはないと思いますが、お元気でお仕事なさいますよう」  そう言ってから、七浦敏子は、 「お仕事は、以前のお仕事をお続けになります?」  と訊いた。 「仕事のことについては、まだ何も考えておりません。しかし、多分、画商はやらないと思います。以前のひっかかりもあることですから、避けたいと思います」 「そうですわね。そうお出来になるなら、それに越したことはありませんわ」  七浦敏子もまた立ち上がった。  山代は喫茶店を出ると、その店の前で七浦敏子と別れた。  山代はどこという当てなしに、ゆっくりと大股に歩いて行った。偽作問題が新見まさ子の手で処理されていたことは、恐らく過去の自分も知らなかったことであったろうと思う。自分はやはりセザンヌの偽作を売った詐欺師であった。しかし、それは一人の女の手に依って、社会の表面に出ないように処理されてあったのである。山代は奇妙な気持で、しかし、やはり軽やかと言える足どりで、いま歩いていた。  山代は有楽町の駅から電車に乗るつもりで、その方へ歩いて行ったが、ビルの一階にある大衆的な大きなビアホールの前を通ると、ふいにそこにはいってみたい気持になった。沢山ある卓は多数の人たちに依って占められていた。山代は奥の方に一つだけ空いている卓を見付けると、そこに腰を降ろして、ボーイに小さいジョッキを命じた。  山代は自分が大勢の人の中にはいっているのを感じた。そして何とも言えぬやすらぎを感じた。このようなところに身を置いている方が落着けるのかも知れなかった。  山代はビールを飲みながら、この何日かの間に、自分が埋めた自分の過去のことを改めてもう一度振り返ってみた。いろいろなことが判ったようでいて、しかし改めて思い返してみると、何も判っていない気持だった。セザンヌの偽作を売った詐欺師であろうとなかろうと、それは自分とは無関係なことのような気がした。それを聞いた時は、それなりにほっとしたり、驚いたりしたが、それはそうして見せただけの話で、実際は何の痛痒《つうよう》も受けていなかったと思う。新見まさ子とある関係を持ったというが、それは全く自分とは無関係などこかの人間の出来事であった。 「さて、これから自分という人間はどうするのか……」  山代は心の中で自分に問いかけてみた。何の返答もなかった。過去の空白が全部と言わないまでも、大体埋めることができたら、そこから自分は必ず出発して行けると思ったが、一カ月前も現在も何も変っていなかった。  空白だった過去が、茫々《ぼうぼう》たる草の原に変っただけのことである。自分は新聞社の社長と喧嘩して東京へやって来た。そして金を工面して画廊を開き、アパートに住居を持った。この時一人の女と関係を持っていたらしいが、この女のことはまだ判っていない。二年目に男の使用人を馘《くび》にして、つかさを傭い入れた。この頃から八束陽子への思慕が募り、たまたま会った彼女の夫と親しくして彼女の家へ足を踏み入れることになる。そして株で失敗した彼女から金の相談を持ちかけられる。どうしても彼女のために金を作ってやりたい。そこで青年画家からセザンヌの偽作を買いとり、それを江原に売り付ける悪事を企む。しかし、江原はなかなか買いそうもない。そこで江原と特殊な関係にある新見まさ子と肉体関係を結び、彼女から江原を口説かせ、ついにセザンヌの偽作を売り付けて大金をせしめたのである。そしてその大金を伊豆の八束陽子の別荘で彼女に手渡したのだ。災難なのは新見まさ子である。彼女は詐欺漢と結婚したいと思っていろいろと彼のために誠意をつくす。セザンヌの偽作を真物と掏り替えたりしたのも、そうした彼女の気持から出たことだ。詐欺漢との関係は、しかし、江原に判ってしまう。それでも彼女は彼と一緒になる希望を失わない。が、そうした彼女を見舞ったものは、詐欺漢の記憶喪失という事件なのである。  山代は二つ目の小ジョッキを口に運びながら新見まさ子の顔を思い浮かべていた。二つの異った顔が浮かんで来た。一つは恨みがましい表情、もう一つは己が運命に諦めきったような、無気力な表情。そのいずれもが、一人の詐欺漢に騙された女が、その果に持つ表情なのであろう。  いろいろなものが新見まさ子を襲った。彼女は詐欺漢とは知らずに詐欺漢と関係を持った。そしてそこから生れたものが恋であったかどうかは別にして、ともかく、彼女は江原という老人との不健康な生活を打ち切って、新しい人生を踏み出そうとしたのである。そうした彼女が最初得たものは、自分が騙されたことの発見であった。二度目に得たものも、また自分が騙されたことの発見であった。セザンヌの絵は偽作だったし、それから得た金は他の女のために必要なものであったのである。  しかし、そうしたものはすべて消えてしまったのである。文字通りこの世から失くなるといった消え方である。相手の詐欺漢が過去を失くしてしまったので、それと一緒にすべては失くなってしまったのである。新見まさ子の演じた役割は奇妙な滑稽なものと言うほかはない。江原老人との関係は、それを改めることはできず、依然としてもとの木阿弥《もくあみ》である。  山代はもう一度新見まさ子の顔を眼に思い描いた。彼女を弄《もてあそ》んだ運命が残酷であるように、いま新見まさ子の顔を思い描いている山代の心もまた残酷であった。新見まさ子の過去を自分との関係において考えることはできなかったので、当然それは芝居でも見ている観客の心と同じものと言うほかはなかった。同情はするが、所詮は自分が生きている世界とは違った世界の物語に過ぎなかった。  ——俺は新見まさ子を騙し、八束陽子に入れ揚げたのだ。  しかし、その八束陽子にしても、何の実感もなかった。この方は大阪時代思慕の情を持っていたことは事実で、それは一つの過去の事実として思い出の中にちゃんと坐っているが、彼女と会うことに依って、それすら色|褪《あ》せたものになったようである。自分は以前にどうしてこの女性に惹かれたのであろうか。確かに自分はそういう思いを持った筈である。記憶にある彼女との事件でさえそのくらいであるから、まして記憶にない彼女との事件に実感があろう筈はない。これもまた自分とは関係のない物語の世界に過ぎない。  ——さて、それなら、これから自分はどうするのか。  山代は卓から立ち上がると、勘定場の方へ歩いて行った。依然として、彼には過去はなかった。彼は勘定を払うとふらふらした足どりで歩いた。依然として過去を失った人間の歩き方であった。詐欺漢の歩き方でもなければ、女を騙した人間の歩き方でもなかった。  あ る 夜  一月の中旬の珍しく暖かい日だった。風が全くなく、静かな陽射しがやわらかく降っている。山代はアパートの部屋の窓から、多摩川の方を眺めて、久しぶりに散歩してみようかという気持になった。  その月の初め、山代は大阪へ三泊旅行を試みた。一体どうして新聞社を罷めるようになったか、罷めてから上京するまではいかなる生活をしていたか、そうしたことを一応調べるのが、こんどの短い旅行の目的だった。久しぶりで新聞社の友達の何人かにも会った。会いたい連中は沢山あったが、現在の自分の立場があまり自慢できるものではなかったので、会う人をできるだけ制限しなければならなかった。  三日の中の一日をさいて、T市の山手にある前に下宿していた家をも訪ねた。老人夫婦は健在であり、悦んで山代を迎えてくれたが、山代の方はそれほど懐かしい気持は起らなかった。山代がもし記憶を失っていない人間なら、老夫婦に対する気持も多少違っていたかも知れないが、やはり老夫婦との関係の最後の方の記憶が失われていたので、会っていて一点無気味なものがあった。  新聞社の友達もまた同じであった。どの友達に会っても、こいつらは自分の知らない自分の過去の一部を知っている。そう思うと、旧知の者に会う懐かしさは消え、どうしても相手に不快とは言わないまでも、親しみにくいものを感じないわけには行かなかった。  こういう意味では、山代が失ったものは過去の一部ばかりではなかった。大勢の友達や知人をも失っていた。山代は三日間の大阪旅行からは殆ど何ものも得ていなかった。前に佐沼が大阪で調べて来たこと以外に、それに附加すべき新しい収穫はなかった。  山代は大阪から帰ると風邪ぎみで十日程、アパートから出なかった。つかさが殆ど毎日アパートにやって来て、山代の世話をした。つかさは山代が新しい仕事を始める時期を春と決めていた。いつまでもぶらぶらしていても始まらないので、就職するにしても、自分で仕事を始めるにしても、寒い冬が去って、春の陽射しが降り始めたら、そうした第二の人生のスタートを切るべきだと言った。山代は、つかさの勧めを退けはしなかったが、どういうものか、自分の気持が積極的に動くのを感じなかった。  何か正体は判らぬが、肝心のものが欠けている感じだった。一応失った過去の大部分のものは埋められていたが、しかし、何かまだ大切なものが埋められていない感じだった。  山代は、その日、午後遅くなってから、多摩川の磧に降りてみた。職業野球団の練習所があって、そこで練習する選手たちを、多数の人たちが眺めていた。そこには人だかりがしていたが、その一角を除くと、多摩川の磧は静かだった。ゴルフ場もあったが、一組か二組がコースを廻っているだけで、冬の枯れた芝生の拡がりはただ冬の陽の光を静かに吸い込んでいた。  山代は磧から道路へ上がったり、また磧へ降りたりした。道路へ上がるとくるまの往来が烈しかったので、なるべく磧を歩いていたかったが、ところどころに人を立ち入らせないように針金の鉄条網が張り廻らされてあったり、一面に枯草が水にひたっている湿地があったりした。  山代はどこまでという当てもなく上流の方へ歩いて行った。歩いていると気持よかった。気持よくはあったが、山代の頭はこうした場合の散歩者のそれのように必ずしも空っぽになっているわけではなかった。  自分は一体、どうして崖へ登ったのか。新見まさ子の家を訪ねて行こうとしていたとしか考えられないが、いかなる目的をもって、あの時刻にあんなところを登って行ったのか。山代は歩きながら、同じ問いだけを自分に発していた。決して解答の出ることのない難しい問題だった。  山代は何回目かに磧から道路へ上がった。二十メートル程道路を歩くと、また磧へ降りて行ける場所があった。石がごろごろしていて、漸く磧は人工の加わらない本来の姿を持ち始めようとしている。  その磧への降り口がすぐそこにあるというところで、山代は五、六台続いて走って来たくるまの中の、一番しまいの一台が、ふいに自分の方へ方向を転じたのを見た。瞬間、危いと思った。くるまは急にブレーキをかけて停まった。山代との間はほんの一メートル程しかなかった。それと同時に、山代の横手で一台のオートバイもまたけたたましい音を立てて急停車した。  次の瞬間、くるまの屋根を越すようにして、一人の人間が空中高くもんどり打つ姿が見えた。オートバイに乗っていた青年だった。急停車の反動で、体だけが空中に舞い上がったのである。どうする暇もなかった。山代は、上から降って来る青年の体をよけようと思ったが、よけ切れなかった。烈しい打撃を肩先きに感じながら、山代は自分の体が路面から下の磧へと吹飛ぶのを感じた。  山代はすぐ立ち上がった。立ち上がることができたので、どこも大きい傷は受けていないに違いなかった。二メートル程右手から、オートバイの青年もまた立ち上がった。この方は立ち上がりかけて、すぐ屈み込んだ。道路からくるまの運転手が降りて来た。 「ばか野郎!」  いきなり彼は青年を呶鳴った。青年は足を引きずって立ち上がると、自分の方の非を認めたのか黙っていた。 「もうすんでのところで、お互いにお陀仏《だぶつ》じゃねえか。この間抜け野郎め。おめえみたいのがいるから事故は絶えないんだ」  そう居丈高《いたけだか》に呶鳴ってから、運転手は初めて気付いたように、山代に、 「あんたの方はどこもどうもなかったか」  と訊いた。山代は憤っても始まらなかったので、ただ怪我はないらしいと答えた。 「あんたこそ災難だな」  それから青年に向って、 「よく詫びとけ!」  運転手は言った。  事故の責任は運転手の言うように、オートバイの青年にあることは明らかだった。前を走って行ったくるまと擦れ違ったオートバイが、いきなり道路の中央に出たので、次のくるまがカーブを切りながら急停車したのである。 「気を付けろ、これから」  運転手は呶鳴るだけ呶鳴ると、道路へと上がって行った。オートバイの青年も山代に謝ってから上がって行った。四、五台のくるまが停車して、二、三人の男がくるまから降りて磧を見降ろしていたが、やがて再びどのくるまも動き出した。  磧には山代だけが残された。路上に一台のくるまも居なくなってから、山代は、ああ危かったと思った。くるまの停車が少しでも遅かったら轢《ひ》かれているところであったし、またオートバイの青年のぶつかり方次第では、自分は大怪我をしていたかも知れないのだ。  山代は肩と腰にさわってみた。それから後頭部にも手を持って行った。そのいずれにも多少の痛みのようなものがあった。しかし、怪我と言えるほどのものではない。  山代はまた歩き出した。歩き出した時、いままでずっと眼にしていた光景が、脱色でもされたように少し沈んで見え、じいんと心に沁み入って来るように落着いた静けさで見えた。  山代は立ち停まって周囲を見廻した。何となく、どこかが違っている感じだった。山代は、このあたりは前に歩いたと思った。磧にも、磧の石の白さにも道路にも、その向うの丘陵のたたずまいにも見覚えがあった。  山代はそこに立ち停まっていた。歩き出すより歩き出さないでいる方が、何か安全なような気がした。いま、自分は大切な瞬間にいる! そんな思いだった。山代は磧の石の白さを見詰めていた。その見詰め方が、次第に睨み付けるような烈しいものになって行った。  ああ、そうだ、思い出したと、異様な形相のままで、山代は思った。ここは八束陽子と歩いた道だ。畜生め! 烈しい怒りの感情が山代の体をつんざいた。  ここを八束陽子と歩いた。足が棒になるほど歩いた。夕立にも遇った。上手の料亭にもはいった。そこで遅い昼食も摂った。それから後川家の多摩川の別荘にも行った。夫がアメリカヘ出張中だったので、二人はたいして気兼ねなしに会えたのだ。  俺はあの日八束陽子から絶交を申し渡されたのだ。俺は縋りつくように相手の心を繋ぎとめておこうと思った。しかし、そんなものはてんで受け付けられなかった。俺は彼女のために、悩んで詐欺漢にもなったのだ。新見まさ子も騙したのだ。三千万という大金も与えたのだ。みんな八束陽子の笑顔が欲しかったからなのだ。  そうした俺に、相手は「もう取り引きはすんだ」と言ったのだ。三千万円の金を貰った代りに、伊豆の別荘で自分は貞操を与えたのではないか、そう八束陽子は言ったのだ。それを言ったのは多摩川の別荘だった。  山代は二、三歩歩き出して、また立ち停まった。  山代は、また思った。俺はあの日から八束陽子を失ったのだ。絶交されたので、相手を失ったのではない。憑きものがおちたように、俺の心から八束陽子という女性が消えてなくなったのだ。八束陽子が口から出した短い言葉で、ふいにあの女性の持っていた栄光は跡形もなくなってしまったのだ。  俺は彼女の少女時代から知っていた。その頃から俺は彼女に惹かれていたのだ。彼女のためなら、偽作を売ったり、女を騙したりするぐらい何でもなかったのだ。が、そうした俺にとっては絶対であった八束陽子の持っていた崇高なものは一瞬にして消えてしまったのだ。  ——取り引きは三津の別荘でもうすんでいる筈です。  俺は耳を疑った。そんな言葉が彼女の口から出ていいものであろうかと思った。しかし、相手ははっきりとそう言ったのだ。俺は金で八束陽子の貞操を伊豆で一夜だけ買いとったと思ったら、自分が救えない気持だった。俺は金など惜しくはなかった。ただ、そうした取り引きの相手にさせられたと思うと、居ても立ってもいられなかった。いや、そうではない。八束陽子がそうした女であったことがやり切れなかったのだ。  それから俺は八束陽子には会っていない。俺は多摩川の別荘を飛び出して、この道を歩いた。別荘はずっと上流にあった。山代はここで、その別荘にこの間自分が、八束陽子に会いに行ったことを思い出した。前から別荘別荘と呼んでいたが、そこに彼女は夫と住んでいた。駒込の本邸の方は老人たちの住居になっているということだった。そうだ。俺はこの間八束陽子に会ったのだ。そして俺はあの女と話したのだ。何という間抜けたことをしたのだろう。  山代は歩き出した。磧から道路へ上がると、こんどは磧とは反対側の低地に降りた。細い道が一本走っている。あたりは畑地で、その中に家がちらばっている。山代はアパートヘ戻ろうかと思った。それにしても、随分遠くまで歩いて来たものである。山代は一刻も早くアパートヘ帰り着きたかったが、アパートまではひどく遠く思われた。  山代は小さな八百屋の前を通る時、赤電話のあるのを見ると、すぐそこへ行って受話器を取り上げた。やがて、つかさの声が聞えて来た。 「どうなさったんです、せかせかして」 「どうもしない」  そう言ってから、 「すぐ来て貰いたい。記憶を取り戻した」  山代は投げ付けるように言った。つかさは息を呑んでいる風で、何の応答も聞えなかった。 「すぐ来てくれ」 「行きますわ」  落着いたつかさの声と一緒に受話器を置く音が、山代の耳に聞えて来た。  山代はアパートヘ帰ると、すぐ窓のカーテンを閉めた。山代にとって、いまやあらゆるものが刺戟であった。いままで失くなっていた過去は八方から山代めがけて押し寄せようとしていた。大きな空っぽなものは、満たされようとしていた。  山代は夕明りが立ち籠め始めている外の風景をカーテンで遮断《しやだん》した。部屋が暗くなると、山代は寝台の上に仰向けに倒れ、考えてはいけない、何も考えてはいけないと自分に言いきかせた。過去のことは考えてはいけない。現在のことだけ考えていろ!  しかし、彼の眼に飛び込んで来るものはすべて過去に繋がっていた。机に眼を遣ると、それがアパートの自分の部屋にあった時のことが、すぐ頭に浮かんで来た。あの頃この机の上にいつもあった花瓶はどこへ行ったのか。そうだ。あの花瓶は窓際の卓の上に置いてある。つかさが来る度にそれに花を插してくれているではないか。  山代はすぐ机から眼を離す。花瓶に関連を持つ雑多なことが、次から次へ襲いかかろうとして牙をむいている感じである。花瓶は何年か前に、新聞社の同僚の結婚の披露宴の時、引出物に出されたものである。大勢の新聞社の同僚の顔が浮かんで来る。山畑、田口、大貫。  山代は俯せになると、眼をつむった。何も考えまいと思った。考えることが怖かった。水道の栓を捻《ひね》ったように、あらゆるものが凄まじい勢いで流れ込んで来る。とめどなく流れ込んで来る。流れるに任せておいたら、自分は狂ってしまうだろう。山代はつかさを待った。一刻も早くつかさがやって来ることを願った。  山代は、自分が眠っていたのか、眼をあけてぼんやりしていたのか判らなかった。とにかく、かなりの時間が経った筈であった。つかさが枕許に立っていた。 「いつ、来た?」  山代が訊くと、 「いま来たところです。眠っていらしったの?」  つかさは言った。外はすっかり夜になっているらしかった。 「記憶が戻ったらしい」 「本当ですか」 「どうも、そうらしい」  そう言うと、 「わたくしのこと、覚えていらっしゃる?」  つかさは訊いた。 「覚えている」  山代は静かな口調で答えた。実際に覚えていた。 「ずいぶん、君は変った」 「厭ですわ。——そんな」  つかさはぎょっとしたような顔になった。 「繋がります? いまと以前と」 「繋がるらしい。君は固くてこちこちした感じの娘だった。——いつも憤っているみたいだった」  ふいに、山代の眼に画廊の事務所が浮かんで来た。そこへ訪ねて来る画家や、客たちの顔が、次々に現われて来る。何と大勢の人間たちが自分の周囲を埋めていたのだろう。  突然、正体の判らない烈しい感情が突き上げて来た。山代は手を伸ばして、つかさの手を探り取ると、それを抱くようにして泣いた。嗚咽《おえつ》が山代の体を細かく揺すぶっている。 「離れないで、ここに居てくれ」  山代は言った。つかさの体に縋り付いている限り、いかなる過去が押し寄せて来ようと、それに耐えていられそうだったが、自分一人ではそれに立ち向える自信はなかった。 「離れないでいてくれ」 「大丈夫。ここにこうしています。——記憶が戻ったんですから、もう何もお考えにならぬ方がいいわ」 「考えまいとしても、向うからやって来るんだ」  山代はそんなことを言った。 「お寝みなさい」 「眠れない」 「そんなことおっしゃらないで、眼をおつむりになって」  つかさが言ったので、山代は言われるままに眼をつむった。体の関節が抜けるほどだるい。過去と一緒に疲労が山代を襲ったのかも知れない。  つかさは山代の手から自分の手を抜くと、それを山代の額の上に置いた。そうされると、山代は不思議に心が次第に落着いて来るのを感じた。何も考えまいと思った。山代はつかさのやわらかい掌の感触を額の上に感じながら、そのことだけへ思いを集めていた。  山代はいつか眠った。どれだけ時間が経ったろう。山代は二、三人の人声がしているのを耳にした。一体、ここはどこなのだ? そうだ、ここはアパートだった。俺はつかさに手を額の上に載せておいて貰って眠ったのだ。  山代は低い叫び声を口から出した。自分が記憶を取り戻したことを思い出したからである。八束陽子と新見まさ子の顔が、殆ど同時に山代の眼に浮かんで来た。山代はいきなりその二つの顔を向うへ押し遣った。考えてはいけないと思った。  山代は寝返りを打った。煙草を銜えて椅子に腰掛けている佐沼の姿が最初に見え、次に、その横に立っている高崎の姿が見えた。つかさが紅茶茶碗を盆の上に載せて運んで来た。高崎がそれを受け取って、三つの茶碗を一つずつ卓の上に置いている。 「それにしても、どういうきっかけで記憶を取り戻したんでしょうね」  高崎が言うと、 「まだなんにも聞いておりません。ひどく昂奮していますので、とにかく、眠らせようと思いました。そうしたら、うまい具合に眠りましたの」  つかさが言った。 「とにかく、記憶が回復したことが事実なら、大変なことだね」  そう言ったのは佐沼である。  山代は、手術を終えた患者が初めて蘇生して部屋を見廻す時のような、そんな気持でしみじみと佐沼と高崎とつかさがお茶を飲んでいる情景に眼を当てていた。いつまでも眺めていたいような、そんな安穏な情景であった。そのうちに、つかさの顔がこちらを向いたかと思うと、つかさはすぐ立ち上がって来た。 「眼が覚めました?」 「うん」 「佐沼先生と高崎先生が来ていらっしゃいます」  つかさは言った。その佐沼と高崎はその時はもうつかさの背後に来て、二人とも山代の顔を覗き込むようにしていた。つかさは佐沼に場所をゆずった。佐沼は、 「記憶が戻ったそうですね。——よかったですね」  と言った。 「——と思うんです」 「前のこと思い出せる?」 「——と思うんです。怖いので思い出さないようにしていますが」  山代が言うと、 「もう、大丈夫でしょう、思い出しても」  佐沼は言って、 「一体、いつ、どうして記憶が戻ったんです」 「夕方です。夕方、多摩川の磧を散歩している時です」  山代は、それから夕方自分がぶつかった小さい事件を、ありのまま話した。佐沼とつかさは立っていたが、高崎は椅子を持って来て、そこに腰を掛けて、ノートをとっていた。 「頭はいまはどうです? まだ痛みますか」  佐沼が訊いた。山代は手を後頭部へ持って行って、 「全然痛みはありません」  と答えた。 「磧に落ちた時、頭を打ったことは確かですね」 「そう思います。とにかく、起き上がって、頭へ手をやり、そこが痛んでいたのを覚えています」 「なるほど」  それから、佐沼は訊いた。 「それで、一番最初に何を思い出しました?」 「ここは、あの時歩いた道だと思いました。いきなりそう思いました」  山代は言うと、すぐ言葉を切った。八束陽子のことを話すべきか、どうかという考えに突き当った。山代は咄嗟に自分の態度をきめかねたが、 「あの時というのは、ある女性と多摩川の川ぷちの道を散歩した時のことで、その時のことを思い出しました」  と言った。そして、 「いつかイソミタールを注射した時、譫言《うわごと》を言ったそうですが、恐らくいま考えると、それはその時のことだと思うんです」 「——なぜあんなに磧の石は白いんだ。そんなことを言いましたね」  高崎が口を挾んだ。 「そうです。実際、その時そう思いました。そう思ったということをいま思い出すことができます」  そう山代は言った。 「それでは、その一緒に歩いた女性というのは誰ですか」  果して佐沼はそう訊いて来た。 「八束陽子という女の人です。八束というのは結婚前の姓ですが。——その人と多摩川の川縁りを歩いたことがあるんです。その時のことが、いきなり思い出されて来ました」  山代は答えた。 「なるほど」  佐沼は言って、 「その時、記憶の回復を知りましたか」 「そうです。その瞬間、自分を取り巻いている世界がまるで違ったものに感じられて来ました。何を考えてもまるで違うんです。みんないままで失くなっていた過去が生きて来ているんです」 「ほう」  高崎は感じ入った頷き方をして、 「何もかも判りますか」 「判ると思います」 「すると、全部の記憶を取り戻したんですね」 「——と思います。何となく怖い気持で何も考えないことにしていますが、考えたら、全部判ってくるんじゃないでしょうか」  山代は言った。 「じゃ、崖から落ちたことを知っていますか」  いきなり佐沼は訊いた。 「崖!?」  言ったなり、山代は黙ってしまった。崖!? 自分は崖から落ちたに違いなかった。しかし、その落ちたことは、依然として判らなかった。山代はまた自分の顔から血の引いて行くのが判った。 「崖!?」  山代は急に泣き出しそうな顔をして、 「そのことは判りません」  と言った。 「ほう。——すると、全部の記憶が回復しているわけでもないですね」  佐沼は言って、 「じゃ、回復している部分と、回復していない部分があるわけですね。——一体、どの程度回復しているんでしょうね」 「さあ」  山代は依然として泣きそうな顔で言った。第一問に答えることができなかった小学校の生徒に似た気持の挫《くじ》け方だった。 「こちらから、いろいろ質問してみましょうか」  高崎が横から口を出した。 「そうだね」  佐沼は考えていたが、 「どこまで記憶を回復しているか、山代さん自身に考えて戴きましょうか。それがいいでしょう。どうして大阪の新聞社を罷めたか。それからどうして東京へ出て来るようになったか。東京へ来てからはどうしたか。順序をたてて、ご自分で考えて貰いましょう。どうも、それが一番よさそうだ」  佐沼が言うと、 「そうしましょう」  山代は答えた。そうしてみようと思った。 「では、ひとりで考えてごらんなさい。僕たちは向うへ行っています」  佐沼が言うと、みんなそれに応じて、山代の枕許を離れた。  山代は一人になると、再び寝台に仰向けに横たわった。俺はどうして新聞社を罷めたのだろう? そういう問いといっしょに、大阪の狭くるしい編集局の情景が眼に浮かび、そのまん中で、社長と向い合って立っている時の自分が思い出されて来た。  俺はあの時、自分の心を突き上げて来る激情に耐えることはできなかったのだ。社長の我儘で短気な性格も、またそのよさもよく判っていたが、あの時だけは我慢ができなかったのだ。社長は部数の落ちたことを編集の責任にしようとし、幾つかの例を上げ、 「月給だけただどりして、ぐだぐだしているからだ」  と言った。 「そんなことありませんよ。若い連中はただみたいな安い月給でよくやっていますよ」 「よくやっている!?」 「よくやっているじゃないですか。こんなぼろ新聞でも何とか自分たちの力で守り育てようと思えばこそ、雀の涙ほどの月給で我慢しているんです」 「君、言葉を慎しめ!」  社長の体が急に自分の方へ詰め寄って来た。顔がひどく憎々しかった。その時、自分はもう我慢のできない気持になっていた。この顔にずいぶん長いこと我慢して来た。しかし、もう駄目だと思った。  自分は自分の体を荒々しいものが突き抜けて行くのを感じた。次の瞬間、社長の体はのけ反って倒れたのである。  俺は編集局の中を歩いていた。誰が連れ去ったのか、もう社長の姿はなかった。俺は大きな声を出して、編集局の全員に対して社を罷める挨拶をした。少くとも何人かの人間が自分と一緒に席を立つだろうと考えていた。しかし、喋り終えた時、俺は一人の記者も席から立ち上がらないのを知った。みんな俺の喋ったことを聞いていない風を装って、自分の席にしがみついていた。いかにも自分はいま自分がやっている仕事に没頭し、他のことには気付いていないのだといった、そんな顔をしていた。  俺は編集局を横切り、エレベーターのところまで来て、もう一度背後を振り返ってみた。誰もついて来なかった。俺は新聞社の建物を出た。すべては終ってしまったと思った。  俺はT市の下宿に帰った。夕方三人の同僚がやって来た。慰めにやって来たのだ。その晩、みんなで酒を飲んだ。その翌日から、俺は全く一人だった。一週間程、毎日のように大阪へ出掛けた。酒場《バア》のマダム島内啓子《しまうちけいこ》のアパートに入り浸っていた。事件のあった翌日の晩、俺は啓子と関係を持ったのである。 「これから二人で力を併せて生きて行きましょうよ」  島内啓子は生まれて初めて生き甲斐というものを持ったような言い方をした。実際に島内啓子には、初めてこの世が生きる価値のあるものに思えたに違いなかったのだ。  山代は、いつもどこかに不幸がついているような島内啓子の余りぱっとしない色白の顔と、小柄な体を思い出していた。島内啓子は実際に不幸だった。最初の結婚に失敗して以来、酒場のマダムになるまでにいろいろな生活は持っていたが、いつも決して幸福ではなかった。島内啓子がこれまで知った男の中で、山代は一番まともな相手だったに違いない。だから島内啓子は、山代のためにはどんなことでもしようと思ったのである。  山代が東京へ行くと言うと、島内啓子も東京へ出ると言った。山代が纏った金が入用だと言ったら、その金を作ろうと言った。そして彼女は実際にそのようにしたのである。  山代は東京へ出てから、画商になる決心をした。画商という商売を選んだのは、八束陽子が絵が好きだったからである。それ以外いかなる理由もなかった。金は予想外にたくさん要ったが、島内啓子が全部工面してくれた。  画廊にするためにビルの一室を見に行った。部屋は気に入ったが、多額な敷金が入用だった。この金を作るために、島内啓子は大阪の店を畳んで、東京へ出て来たのである。しかし、島内啓子との生活は長くはなかった。二人はアパートで同棲したが、一年とは続かなかった。 「わたし、幾ら貴方につくしても、何だかつくし甲斐がないような気がするの」  そんな言葉が、度々島内啓子の口から出るようになった。島内啓子には、彼女が山代を愛していただけに、山代の心の内側が透いて見えたのである。  それまで、山代は八束陽子に対する気持を必ずしも意識していたわけではなかった。八束陽子は自分にとってどうすることも出来ない相手だと思い込んでいたし、会いたいという気持も持っていなかった。 「貴方は、誰か、わたし以外の人を愛しているわ。貴方の心の中には、他の女の人が住んでいると思うの」  嫉妬《しつと》の感情を混じえた言い方で島内啓子が言うと、山代はその度に、八束陽子の顔を心に思い描くようになった。いま考えてみると、八束陽子への思慕は、島内啓子の嫉妬に依って次第に強く煽《あお》られて行ったのである。  島内啓子との同棲生活は決して楽しくはなかった。画廊の仕事がどうにか軌道に乗り始める頃から、二人の間には口論が絶えなくなった。 「貴方の好きなのは誰? さ、おっしゃい!」  島内啓子が詰めよると、山代はいつも相手から自分が八束陽子という女性を真剣に守っているような奇妙な気持になった。山代は、島内啓子を厭《いと》う気持を持っていたわけではないが、しかし八束陽子への思慕は全く異常に嫉妬深い同棲者のお蔭で、次第に彼の心の中で大きく育って行ったのである。  山代はいつか寝台の上に半身を起し、少し前屈みになっていた。島内啓子についての回想が彼にそのような姿勢をとらせたのであった。山代は、佐沼と高崎とつかさが何か話しているその話声も耳にはいっていなかった。眼だけは時々その方へ向けられたが、しかし彼等が立ち上がったり、手を伸ばしたりするその小さい動作に気持を奪われるためではなかった。山代の眼は周囲の何ものも見ていなかった。過去のひとこまひとこまが、山代の眼の前をゆっくりと動いていた。  島内啓子との同棲生活は長くは続かなかった。と言って、二人は同棲生活を打ち切っても、なかなかきちんと別れることはできなかった。一週間か十日間ぐらいずつ、島内啓子は山代のアパートへ来て泊ったり、また小さい口論がもとで出て行ったりした。二人がうまく行かない原因は専《もつぱ》ら島内啓子の、どうしてもその実体を掴めぬ嫉妬にあったし、そうしたことを除けば、山代は島内啓子に対してやはり惹かれるものを持っていた。それに何と言っても、上京して画廊を営むまでの金は、殆どその全部を彼女から引き出していた。  島内啓子がふいに画廊に出入りしていた青年と恋愛関係にはいり、あっという間に結婚したのは、つかさが店へ姿を見せるようになる少し前のことだった。  山代は正直に言ってほっとする思いを持ったと同時に、島内啓子に見棄てられたことから受ける打撃もまた烈しかった。この頃から山代は八束陽子に対する思慕の擒《とりこ》になって行った。それまでは八束陽子に会いたい気持はあっても、実際に会うということなどは考えられないことだった。それが、島内啓子に去られたあとは、陽子に対する思慕は単なる思慕ではなくなった。山代はどうしても八束陽子に会おうと思った。そして会うために、どうするかということを真剣に考えたのである。そうして半年程たった時、恰もその役を引き受けるために登場して来た人物ででもあるかのように、突然八束陽子の夫は画廊へ姿を見せたのであった。山代は急速にその人物と親しくなって行った。ゴルフなど少しもやりたくはなかったが、その人物と一緒に多摩川のゴルフ場へも出掛けて行った。練習の途中で雨に降られ、全身びしょ濡れになってしまったこともあった。  このゴルフ場で夕立にあった時のことを思い出した時、ふいに洗濯屋の中年夫婦の顔が思い出されて来た。この前病院で会った時は、どうしても思い出すことのできなかった顔である。病院で会った時も、主人はジャンパーをひっかけていたが、以前もそれと同じ恰好をしている人物であった。夫婦のどちらかが毎日のようにアパートに姿を見せていた。山代はいま、寝台の上で、その夫婦に堪らなく懐かしいものを感じた。  山代は洗濯屋の夫婦のことを想念の向うへ押し遣ろうとした。洗濯屋の夫婦の顔と一緒に、画廊へ出入りしていた人たちの顔が、いっせいに彼の前へ躍り出て来そうな気配を感じたからである。いつか病院で、洗濯屋夫婦と会った直後に顔を合せた額縁商の坪内太一の、何となく信用できぬものを持っている顔も現われた。  ——あいつには金を貸してある。  と、山代は思った。店を拡げるからということで、三回に亙って纏った金を渡したが、それをまだ返して貰っていない。この間会った時は、彼はそんなことはおくびにも出さなかった。もともと虫の好かない奴だったが、やはり厭な奴である。  それからまた平松商事の社長である平松左吉郎の顔も浮かんで来た。いつか入院中に高崎と美術館へ行ったことがあったが、その時顔を合せた老紳士である。  ——平松さんには世話になったな。  そんな思いがいきなり山代にのしかかって来た。平松さんは、自分が全く記憶を失っていることを知って、さぞ驚いたことだろうと思う。あれだけ世話になっておいて、貴方は一体誰でしょうという素振りを見せたのだから、驚くのが当り前である。山代は堪らなく平松左吉郎に会いたいと思った。できることなら、いま直ぐにでも会いたい。会って自分の非礼を詫びたかった。  それからまた、山代はいつか日本橋で会って、いきなり自分が逃げ出してしまった、その相手の人物を思い出した。顎の張った眼の鋭い顔が眼に浮かんで来た。常磐《ときわ》二平《にへい》である。自分は彼から逃げ出したが、逃げ出さなければならぬ何の理由もなかった。自分の遠縁に当る人物で、土木関係の請負業をやっている男である。顔付きはひと癖もふた癖もあるが、顔に似合わず、心根は親切でいい男である。常磐二平にもまた会いたいと、山代は思った。  しかし、山代はそうした次から次へ現われて来る人物にかかずらわっていては切りがないことに気付くと、そうした回想を振り払うように寝台から降りた。そして自分の机のところへ行って、煙草を一本|撮《つま》み上げた。  ——そうだ。俺は八束陽子のことを考えねばならぬ。  山代は思った。そして歩き出した。佐沼や高崎やつかさはすぐ向うの部屋におり、彼等の姿も見えていたが、山代はその方へは近寄らないで、寝台のある部屋だけを、行きつ戻りつした。動物園の檻の中の熊のように歩き廻った。  八束陽子の夫と一緒に彼女の家へ行き、夕食を御馳走になった。一度陽子に会うと、あとはブレーキがきかなかった。二回目に銀座の喫茶店で会った。その時八束陽子は金の話を持ち出した。三千万円という大金をどうにかならぬかと言った。  その時、俺はその頃画廊へ出入りし始めている若い画家の顔を頭に描いていた。悪魔がその瞬間、俺の体に飛び込んだのだ。  山代は新見まさ子や七浦敏子から聞いた話を大幅に訂正しなければならなかった。若い天才肌の、しかし、すっかり注射で体をいためている青江という画家に、ヨーロッパの巨匠の絵の模写をけしかけたのは、他ならぬ山代自身であったからである。  八束陽子から金の相談を受けてから何日も経っていない頃であった。山代は若い画家と、画廊の事務所で、夜遅くまで酒を飲んだ。 「ゴッホでも、セザンヌでも、何でもいいが、そうした思い切って世界的な大家の作品の模写をやってみる気はないか」  山代は相手から眼を離さず言った。すると、感受性が病的にとがれている若い画家は、 「報酬次第ではやりますよ」  いきなり言った。 「偽作を描けとは言わん」  山代が言うと、 「どっちだって同じことじゃないですか。僕なら寸分違わんものを描きますよ。真物が偽物になり、僕の描いた奴が真物になりますよ。必ずそうなると思うんです。しかし、安い報酬ではやらん」 「報酬は出す」 「纏《まとま》って出しますか」 「出す」 「じゃ、やりますよ。それにしてもどうしてそんなことを考え付いたんです。こうした悪事を企むというのは、よくよくのことだ。——山代さん、おっしゃい」 「悪事を企むとは何だ。君が描いたものを売った場合には、悪事ということになるだろうが、売らん限りは悪事でも何でもない。——とにかく、君の腕を験してやる。一、二点模写してごらん」 「じゃ、僕も勉強のために名作の写しをやりますか」  そして青年は何とも言えぬ厭な笑い声を口から出した。 「何を描く?」 「僕のパトロンのところにセザンヌの風景があります。これは名作です。それをやりましょう」 「借りられるか」 「借りなくても、そこの家へ行って描きます」 「それはいかんだろう」  山代は言った。 「模写する分には、誰|憚《はばか》ることはありませんよ。そうでしょう」  それから、青年は低い声で言った。 「そこの細君は僕の言うなりです。そういうことになっとる。その僕のパトロンが誰であるか言いませんが、その事実だけをご披露しておきますよ。ね、そうでしょう。そこの細君は僕の言うなりですよ」  青年はまた何とも言えぬ厭な声を出して笑った。 「言いなりとはどういうことだ」 「裸になれと言えば、裸にだってなりますよ」  青年は言った。  ——裸になれと言えば、裸にだってなりますよ。  若い画家の言葉が思い出されて来た時、山代はああ、そうだったと思った。あの青年は七浦敏子とある特殊な関係にあったのだ。  美貌で才能のある若い画家、これは有閑夫人の間違いそうな相手である。初めパトロンになったのは彼女の夫であったかも知れない。しかし、夫以上に血道を上げるようになったのはその細君なのだ。しかし、七浦敏子は美貌で才能のある若い画家が、甚だ厄介な相手であることを発見するにはそう時間はかからなかった筈である。蒼白んだ青年の美しい皮膚の下には異常な病的なものがひそんでいたのである。  山代は自分が擒になっていた過去の時間から、ふいに現実に立ち戻ると、この間銀座の喫茶店で会ったばかりの七浦敏子の膝の上に眼を落した色白の顔を思い出した。悩みがいっぱい詰まっている顔である。彼女はいまも絶えず二つの暗い影に怯《おび》えている筈である。若い画家とのスキャンダル、そしてその画家に依って引き起された偽作事件。  七浦敏子は新見まさ子を救ってやるために、セザンヌの絵を提供し、その偽作を庭で焼いたと言ったが、そうしたことは新見まさ子のためというより、先ず何より彼女自身のためであったのである。  ——さて、それから、どうしたのだ!  山代は再び自分の記憶の糸をたぐり出す仕事へと戻って行った。これまでは一瞬にして彼の頭の中へ立ち戻って来た記憶であったが、途中で思いが横道に逸《そ》れたためか、ふいに山代は自分の頭が石のように動かない固いものになったのを感じた。  もうこれ以上思い出せないかも知れないと思うと、山代はじっとりと全身の皮膚が汗ばんで来るのを感じた。  ——それから、一体どうしたのだ!? 俺はあの若い画家に偽作を描くことを勧めたのだ。そこまではっきりしている。それからどうしたのだ。  と、ふいに、山代は曾て自分が思い出した若い画家と事務所に向い合っていた時のことが、前とは違ったみずみずしさで思い出されて来た。それは記憶の中のひとこまではなく、過去の大きい記憶の中の一部分だった。  青年は偽作を持ち込んで来たのだ。俺は買った。買いながら、俺はそれを売り込む相手の顔を頭に描いた。老実業家の江原である。ふんだんに金を持っていて、絵の好きな人物と言えば、彼しかなかった。しかし、真物を売り込むのではない。偽作を売り込むのだ。らくな仕事ではないだろう。この時もう一人の人物の顔が浮かんだ。老実業家の愛人である新見まさ子の顔である。新見まさ子を手に入れて、彼女から売り込ませよう。俺はそれまで思ってもみなかった恐ろしい企みに、らくらくと身を任せて行った。若い青年の病的な皮膚の下に匿されているものは、いつか自分に乗り移っていたのだ。  山代の記憶は、若い画家に偽作を描くことをけしかけた夜から、いきなりその偽作ができ上がって、それがその画家に依って持ち込まれた日へと飛んでいた。その間にどのくらいの時日が経っているか判らぬが、とにかく空白があった。そこだけの記憶は依然として戻っていなかった。しかし、そうしたことに関係なく山代はいまや自分のものとなった過去の中へとのめり込んで行った。  山代は新見まさ子と映画女優の三城博子の家で最初に会った時のことを思い出した。ドランの絵を見るために彼女が初めて画廊へやって来た時のことを思い出した。その日の夕立の凄まじさを思い出した。誕生日と偽って、彼女をアパートヘ連れ込んだ夜のことを思い出した。彼女の唇や皮膚の感触を思い出した。そしてまた自分が少しも相手に愛情を持たないで、相手を自分のものとしたことを思い出した。それから、また、彼女を通して偽作を江原老人に売り込んだこと、まんまと大金をせしめたこと、そうしたことを次から次へと思い出した。すべて新見まさ子が彼女自身の口から山代に語ったことと符合していた。  それから、俺は江原老人から受け取った大金を持って、伊豆の陽子の別荘へ出掛けたのだ。そうだ。あれは八月の中頃だった。俺は朝の汽車で東京を発ち、沼津からくるまで三津へ向った。途中、農家の庭先で百日紅の見事な古木を見た。花が美しかった。三津でくるまを棄てると丘陵への細い道を登って行った。別荘の前に、留守番の男が居た。俺は門からはいり、中庭へと廻った。銀粉でもふいたように、庭の砂は白く光って見えた。縁側に陽子は腰掛けていた。俺は庭へ足を一歩踏み入れかけて、はっと立ち停まった。それほど陽子は美しく見えた。しかし、俺の立ち竦《すく》んだのは陽子が近寄り難いほど美しく見えたからではない。自分の生涯を台なしにする女がそこに居るのを感じたからである。実際に、その時既に俺の生涯は捻じ曲げられてしまっていたのだ。俺は彼女のために歴とした詐欺師になっていたし、一人の女の貞節をも踏みにじっていた。  山代は、自分が前に取り返すことのできた記憶の欠片の中で、その三津の別荘の庭がどうしても百日紅の花が咲いている庭のような気がしていたが、それはそこへ行く途中に農家の前庭で見た百日紅の映像がそこヘダブって映っていたためであろうと思った。  その日からその翌日へかけての出来事が、次々に早いスピードで山代に思い出されて来た。その夜、俺は陽子と二人でいさり火の見える海岸を散歩した。初めて俺は自分の気持を陽子に打ち明けた。俺は陽子の唇を奪った。その夜、別荘へ戻ってから、俺は陽子に金を渡した。暑苦しい夜であった。二人はまた夜更けの庭を歩いた。庭で接吻した。そしてまた庭を歩いた。  山代は、その時、二人がこのままそれぞれの寝室に引き上げて行くことができなくなっているのを感じていた。 「あのお金、当分の間、お返しする当てがありませんのよ」  ふいにそんな陽子の言葉が耳にはいって来た。 「返して戴く必要なんてありませんよ。もともと差し上げるつもりで持って来たんです。まだお金のことにこだわっているんですか」  山代が言うと、 「いいえ、わたしも戴いてしまうつもりでおります。でも、こんなことでもお話していないと、ほかに話題がありませんもの」  陽子は言った。そして、すぐ続けて言った。 「——息が詰まりそうで」  実際黙っていると、窒息しそうに息苦しかった。 「暑いですね」 「いつも、この時刻になると、少しは風が出ますのに」 「また海岸へ出ますか」 「海岸へ出ても同じことですわ。浜にも風はないと思います」 「じゃ、そろそろ寝みますか」 「ええ」  山代は縁側から部屋へ上がった。 「もう失礼しましょう」 「どうぞ。——寝室はこちらです」  陽子は長い廊下を先きに立って歩いて行った。そして短い渡り廊下を渡った。離れらしかった。  部屋の入口で、山代は陽子の肩を抱いた。山代は陽子の肩を抱いたまま部屋へはいった。 「真暗ですわ。あかりを点けませんと」  陽子はそんなことを言ったが、そのままそこに立っていた。山代はそうした陽子の態度で、急に大胆になって行った。  山代は、ここで思った。自分には真剣だったものが、陽子には単なる取り引きであったのであろうか。  ——取り引きは三津の別荘でもう済んでいる筈です。  二カ月後に、多摩川の川縁りを散歩した時、別荘でと陽子ははっきりと言ったのだ。その時の火傷を負ったような苦しい思いが、山代には思い出されて来た。  山代は自分と陽子との関係を、どうしても取り引きとは思いたくなかったし、また思えもしなかったが、しかし、それは紛れもなく一つの取り引きであったのである。それ以外の何ものでもなかったのだ。三千万円の金を陽子に渡し、その代償として、俺はあの寝苦しい真夏の一夜、陽子の体を得たのである。  しかし、翌日、三津の別荘を引き上げる時、俺はまだ何も知らなかった。陽子を得た悦びで、往きとは全く違った気持で、伊豆の西海岸をくるまに揺られたのである。海はインキを流したような濃い青さで拡がり、八月の強い陽が波の上に落ち、前夜と違って、涼風が絶えずくるまの中に吹き込んでいた。  山代はまた寝台の上に倒れた。佐沼、高崎、つかさの三人が、何か低い声で話している。山代には彼等が、自分が過去を思い出している仕事を邪魔しまいと、意識してこちらを黙殺する態度をとっているのが感じられた。  山代は煙草に火を点けると、哀れなお前は、それから大変だったなと、自分に語りかけた。  三千万円を得るために為した詐欺行為がばれないように、いろいろなことをしなければならなかった。洪水の時、堤防を溢れる水を食いとめるために、実に沢山のことをしなければならぬように、俺は沢山のことをしたのだ。あちらを防ぐと、こちらが破れ、こちらを防ぐと、あちらが破れた。  最初の破綻《はたん》の徴候は新見まさ子に依って伝えられた。 「江原が、どういうものか、あの作品を信用しておりませんの。何となく臭いと言うんです」 「厭なことを言うね。しかし、信じられぬと言うのなら買い戻すんだな。ほかのもっと眼のある人を探して、その人に売り替えて、その金を老人に返してしまえばいい」 「————」  俺はすぐ言った。一刻も早く江原の手許から偽作を取り上げねばならぬと思った。しかし、新しい買い手が見付からぬと、それはできなかった。俺は新見まさ子に買い手を探すように命じた。まさ子は俺のためにはどんなことでもする気になっていた。  俺は急場の措置として、老人の疑念を押えることに、まさ子に全力を払わせた。  ——君なら、できないことはない筈だ。一緒に寝ていて、よく話すんだな。  俺はそんなことを言った。もうすっかり悪党の心になっていた。まさ子はその時、厭な顔をし、俺の言い方がひどいと言って、長い間泣いた。しかし、そのようにして、ともかくも最初の破綻を押えていた。すると、それを追いかけるようにして鬱陶しいことがやって来た。蒼白い顔をし青年は画廊へやって来ると、小遣《こづかい》をせしめるために、変なことを口走り始めたのである。いつも薬が切れている時だった。 「同じものが、この世に二枚あるとは変なことですよ。しかし、僕は描いただけですからね。模写しただけのことです」  そんなことを言う度に、俺はいまいましかったが、相手に金を握らせた。金を握ると、すぐ、相手はふらふらした足どりで階段を降りて行った。いつ爆発するか判らぬ危険物は次第に間隔を詰めて、画廊に現われた。  珍しく正気の時、一度、彼は画廊へやって来た。そして、 「いけませんよ。あれ、ばれますよ」  と言った。声の低いことが、いつもの彼と違っていた。 「いかんですよ」  青年は言った。 「どうしたんだ」 「パトロンから今朝電話があったんです。あんたの描いた模写を、真物だと思って買った人があるらしいと言うんです」 「で、何と答えた?」  俺は訊いた。 「何とも答えないで、いきなり電話を切って、いま、ここへ来たんです」 「そいつはいかんな」  俺は呻くように言った。何とかしなければならぬと思った。 「パトロンって誰だ?」 「それは言えません」 「普通の関係じゃないと言ったな」 「そうです」 「名を教えてくれ。俺が直接交渉しよう」 「いや、それはいけません」  相手は言った。梃でも動きそうになかった。 「とにかく、倉庫で話そう。人に聞かれたら困る」  俺は青年を階下の倉庫へ連れて行った。そして相手を中へ入れると自分だけそこから出て、いきなり扉を閉めた。青年の体から薬が切れるのに、二時間程待っていればよかった。  俺は夕方、つかさやアルバイトの学生が帰ってから再び倉庫へ出向いて行った。扉を開けると、青年はにやにやしながら出て来た。思わずぎょっとするほど、眼が坐っていた。 「七浦敏子。——証券会社の社長の夫人です。——さあ、金を下さい」  偽作家は言った。俺は、その夜、すぐ七浦敏子の家へ電話を掛け、至急相談したいことがあるからと言って、相手を呼び出した。七浦敏子は画廊の事務所へやって来た。この時、俺は初めて七浦敏子と会ったのである。 「困ったことが起きましたね。私は知らないであの青年から買ったセザンヌの絵を売ったんですが、どうも偽作だったらしいですね」  俺は言った。七浦敏子は血の気を失った顔をし、体を細かく揺すぶっていた。生きた空はないという面持だった。 「私にも、勿論、手落ちはあります。しかし、申し開きできる手落ちだと思うんです。あの青年も、あのような健康状態ですから、やったことは悪かったにしても、彼がやったのでなく、病気がやったようなものだと思うんです」  俺が言うと、 「そうなんです。偽作を描くつもりで描いたんじゃありません。勉強のために模写しただけのことだと思います。それをつい貴方にお売りしたのでしょう」 「そうです。それに違いありません。ただ表沙汰になると、あのような青年ですから、何を喋り出すか判りません。貴女のお名前も出ると思います。お宅の作品を写したんですからね」  俺は言った。相手は額に手を当てていた。いまにも失神しそうな顔をしていた。 「あの、わたくし」  相手は呻いた。 「一体、どうしたらいいでしょう」  すっかり平静さを失った七浦敏子の顔だった。 「どうしたらいいか、僕にも判りません。ただ危険物は遠ざけてしまわなければなりませんね」 「と申しますと——」 「あの画家を、ひとまず外国へでもやってしまうことができれば——」  俺は言った。偽作を描いた張本人を日本から立ちのかすことが、いまの場合の応急措置としては一番大切なことだった。たとえ偽作だということがばれても、描いた張本人がいなかったら、事件を曖昧のうちに葬り去ることもできた。それからまた若い画家をどんな悪人にも仕立て、彼に一切の悪を背負わせてしまうこともできた。  とにかく、俺にとっては、その時の場合、青年が日本に居ないという状態が一番望ましかった。そしてそのことはまた七浦敏子にとっても望ましいことに違いなかった。彼女の方は、偽作事件そのものより、偽作事件が表沙汰になることに依って、自分と青年との醜関係があばかれることの方が怖かったに違いないが、そのことも青年が日本に居ないということで、一時的に糊塗《こと》できる筈であった。  俺にとっても、七浦敏子にとっても、一番怖い厄介な存在は、その青年画家だった。 「外国にやるんですか、あの人を」  七浦敏子は少しだけ落着きを取り戻して、低い口調で言った。 「外国へやるということは、できないことではないと思います。本人もしきりに外国へ行きたがっておりますから」 「じゃ、そうすることですね。お互いにつまらぬ事件で、世間から誤解を受けてもつまりませんからね」  俺は言った。そして更に付け加えた。 「どうせやるなら早い方がいいです。偽作の所有者が表沙汰にでもしてしまうと、事は面倒になります」 「じゃ、そういたしましょう」  七浦敏子は言った。 「できますか」 「できると思います。お金の方はわたくし、何とかいたします。でも、現在、外国へ行くのは厄介ではありません、ドルの関係で」 「多少うるさいかも知れませんが、それはお宅のご主人にでも話したら、どうにかなるんじゃありませんか」 「主人に話すんですか」  瞬間、相手は苦しそうな表情をとったが、やがて、 「よろしゅうございます。そうしてみましょう」  と言った。 「それも一刻も早い方がいいですよ」  俺は、俺自身のためにも気がせいていた。早く危険な爆発物を自分から遠ざけてしまいたかった。  新見まさ子が郷倉という買手を探したのは秋の初めだった。それまで俺はいつも不安に曝《さら》されていた。文字通り危い橋を渡っている落着かない気持だった。しかし、秋風が吹き始めると共に、一つずつ問題は片付いて行った。江原老人の絵を郷倉に売り替えるために、俺は郷倉邸を訪ねた。金を受け取る時は、まさ子が一人で行った。俺が郷倉の言うなりに二千万円で手放したことがまさ子としては不服らしかったが、俺は気がせいていた。偽作を一日も早く江原の手から郷倉の手へ移さなければならなかった。 「江原に返すお金が千万円不足ですわ」  まさ子は言ったが、一時何とか老人をまるめ込んでおくように、俺はまさ子に命じた。まさ子はそうしたことを厭がったが、しかし、結局は俺の言葉に従うほかはなかった。  偽作の若い画家が、七浦証券の嘱託《しよくたく》という形で、フランスヘ発ったのは九月の終りだった。俺は羽田まで送って行った。七浦敏子の姿は見えなかった。  偽作の売替えと、若い偽作家の外国亡命という二つのことは、相次いで実現したが、その間に、新しく面倒な事件が起きていた。江原老人が、俺とまさ子の関係を知ってしまったのだ。 「最後までどうして否定しなかった?」  俺はまさ子を非難したが、 「アパートを出たところを捉まってしまったんですもの、仕方ありませんわ」  そうまさ子は言った。まさ子の方はこの事件で、老人と別れ、俺と一緒になる決心が一層はっきりしたものになったらしく、寧ろさばさばしている風だったが、俺の方はやり切れなかった。たいして好きでもない新見まさ子にしがみつかれては堪らないと思った。  老人が姦夫姦婦に提出して来た条件は、俺にとっては寧ろ有難いものだった。一年間二人は会ってはならないという条件も、俺には結構なことだったし、一年以内に不足分の千万円を返せということも、苛酷《かこく》な条件とは言えなかった。すぐ返却を迫られても少しも不思議ではなかった。  俺は老人がまさ子に未練のあるのを感じた。老人が提出した二つの条件のいずれも、老人がまさ子を突き放していないことを示していた。俺は老人から与えられた一年という期間のうちに、ゆっくりとまさ子の気持を自分から離すように仕向けて行けばよかった。  事態はすべて俺という悪党の方に好都合に動いたわけだったが、しかし、偽作が郷倉の手許にあるということは、依然として気がかりだった。八束陽子のために苦し紛れにやった詐欺行為は、依然として、それは消えることなく、そこにあり、俺を脅かし続けていた。  それから俺は、——?  山代はここで、また寝台から半身を起した。それから俺はどうしたのか。この問に対して、山代は答えられなかった。どうしたか、全く判らなかった。幾つかの小さな事柄はすぐ思い出されて来たが、肝心の偽作事件にも、まさ子との関係にも、直接は繋がっていなかった。  その後、新見まさ子とはどういうことになったのであろうか。彼女が老人に不貞を見付けられ、さんざん罵られた挙句に、別れるための二つの条件を出され、それを山代の許に報せて来た時が最後になっている。その時の新見まさ子の昂奮で蒼白んだ顔が、山代の記憶の最後に坐っているだけである。それからあと、俺は新見まさ子に会っただろうか。  七浦敏子から聞いた話に依れば、偽作は真物と代っており、偽作は彼女の手に依って焼かれたということだが、それに関するいかなる記憶の欠片もなかった。  七浦敏子とは? この方も見通しの全く利かない靄の中にはいっているように、その後の彼女との関係は杳《よう》として判らなかった。七浦敏子に関する記憶と言えば、画廊の事務所に於ける最初の会見だけであった。彼女から貰っているらしい何本かの手紙についても、記憶は残っていなかった。  山代は寝台の上に坐っていた。余り長く動かないで坐っていたので、佐沼は無気味にでも思った風で、ふいに立ち上がると、山代の方へやって来た。 「どう?」  そう低い声で、静かに言った。 「去年の秋の中頃までは記憶を取り返していると思います。その間に記憶の戻らないところもあるようですが、それは極く短い期間ではないかと思います。とにかく、秋の中頃までは大体思い出しています。それからあとはぼんやりして消えてしまっています」  山代は言った。 「そう、それにしてもよかったですね。一度に大量の過去を取り戻したんですからね」  佐沼は言った。高崎もつかさもやって来ていた。高崎は、 「去年の秋までと言いましたね。記憶を取り返したところと、取り返さないところとのけじめははっきりしていますか」  そう訊いた。 「はっきりしていません。どこから思い出さないか、甚だぼんやりしたものです」 「とにかく、記憶を取り返したところだけでもノートしておきましょうか」 「どうぞ」  山代は言った。山代は偽作事件や、まさ子との関係については語らなかったが、それ以外のことは、頭に浮かぶままに喋った。どういう絵を誰に売ったとか、どんな事件があったとか、いつ雨漏りして大騒ぎしたとか、そういったことを話した。高崎がノートをとっている傍で、つかさは時々、山代の話に相槌を打ったり、頷いたりしていた。  早  春  山代が崖から落ちて病院へ運び込まれてから丁度一年経った。入院記念日というわけではないが、その日、つかさの発案で、山代は佐沼と高崎を招んで、銀座の中華料理店で一緒に夕食を食べた。  その席で、山代は春になったら、自分はつかさと結婚したい意向を持っているということを佐沼と高崎に告げた。高崎がつかさを彼自身の結婚の対象として考えているらしかったので、つかさと相談の上で、こうしたことは早く発表しておいた方がいいというわけで、そのような態度をとったのであった。 「それはいい」  まっ先に言ったのは高崎だった。 「お二人にとっては一心同体の一年でしたからね。お二人が結ばれるのは一番いいと思う。僕は研究の材料を頂戴しましたから、それで満足しますよ」  高崎はそんな言い方をした。皮肉でもなければ厭味でもなかった。すると、佐沼が、 「高崎君は前につかささんに対して意思表示をしようかと、僕のところへ相談に来たことがあるんです。ところが、暫くしてから、自分より山代さんの方が彼女を必要とするから、山代さんに結婚を勧めたらどうか、自分の方はおりる、そう言って自分でおりたんです」  そう言って、笑った。 「厭ですよ、ばらしては」  高崎は照れたが、すぐ、 「実際、僕はそう思ったんです。つかささんがあれだけ山代さんの世話をすることは、つかささんの愛情だろうと思うし、山代さんにとっては、いままでも、またこれからも、つかささんは生きて行く上に絶対に必要な女性ですからね」  と言った。 「結婚するとなると、やはり仕事を考えなければなりませんね。過去の大部分の記憶を取り戻したんですから、もう何かした方がいいでしょう」  佐沼は言った。 「そのことも、この間から考えていますが、まだ決まらないんです。人の間にはいって仕事をする自信がないというか、不安なんです」 「そう言っていたら、切りがありませんよ」 「そうなんです。ですが、もうちょっと考えさせて下さい」  山代は言った。山代も春から何か仕事を持ちたいと考えていたが、その言葉通り、もう一つ心の底から生まれて来るような積極的なものがなかった。  その晩、銀座から帰ると、山代とつかさはアパートヘははいらないで、三丁程離れたところの丘の上にある梅林へ行ってみた。梅の木が十本程並んでいて、梅林というと大袈裟になるが、山代は以前から、散歩の折、その前を通る度に、梅の花が咲いたら、一度ここへ来てみようと思っていたのである。誰の所有か判らなかったが、手入れがしてあるので、近所のどこかの家の持ちものであることは確かだった。  二人は月光に照らされながら、その梅の林の中を歩いた。 「佐沼先生もおっしゃったんですから、お仕事を決めないといけませんわね。わたくし、当分の間ご自分でやれる仕事がいいと思うんです。お勤めとか、お店を持つとかはやめて余り気をつかわないお仕事がいいわ」  つかさは言った。 「そんな都合のいい仕事はないだろう」  山代が言うと、 「薔薇を作るとか、お花を作るとか、そんなお仕事はいけませんかしら。勿論、人を使わねばなりませんが、わたしの伯父でそんな仕事をやりたがっている人があるんです。もし山代さんにその気があるんでしたら、任せると思います」  つかさは言った。 「そうしたことの知識も技術も経験もないからね」 「でも、画廊を始めた時も、何の知識も持ってらっしゃらなかったんでしょう。できますわよ、技術者を使えば」 「大きくやるのかな」 「そうらしいですわ。伊豆の東海岸に温室を作る地面を何千坪か手に入れたんですって」 「ほう」  山代は感歎したように言った。面白そうな仕事だとは思ったが、積極的に気持は動かなかった。この場合もまた自信というものがなかった。 「まあ、いいですわ、急に決めなくても。……でも、またいつか二人でゆっくり考えてみましょうね」  つかさは言った。いかにも山代の取り扱いに慣れているといった感じだった。二人は暫く梅の木の間に立っていたが、夜寒が厳しかったのでアパートヘ帰ることにした。月光も、白い梅の花も、夜気も、みんな冷たかった。 「三年ぐらい前、誰か女の人と飛行機で東京から大阪へ行ったことあります?」  ふいにつかさは訊いた。 「ある」 「佐沼先生が、山代さんを初めて見た時、飛行機の中で見掛けたことがあるような気がしたんですって」 「ほう」 「いつか佐沼先生がそんなことをおっしゃっていたことがあったのを、いま思い出しました——。どなたですの、その方」  つかさは訊いた。山代は島内啓子の、どこかに不幸な影を持っている平たい顔を思い浮かべていた。 「大阪から一緒に来て、いま誰かと結婚している女性だ」 「ああ、あの方! それならいいんです」  つかさは言った。そしてすぐ言い直した。 「よくはありませんが、致し方ありませんわ」  つかさは言った。 「とにかく、一年経ちましたわ。記憶を回復する場合は、大抵一年以内だと佐沼先生がおっしゃっていましたが、本当に一年以内に八分通り取り戻しましたわ。もうたいして不安なことはないでしょう」 「そう。これでもう少し経ったら、いまの不安はなくなってしまうだろうと思うね」  山代は言ったが実際はそうは思っていなかった。道路から跳ね飛ばされたお蔭で八分通りの過去は取り戻したが、最後の四カ月程のことは依然として記憶を失ったままである。三年間の過去を失っていた時も、いまのように四カ月程の過去を失っている時も、不安という意味では全く同じだった。はっきりしたことは判らないが、八束陽子と多摩川の川縁りを散歩した日の苦しい思い出が、どうやら記憶を取り戻した最後になっているようである。それはどうも十月の中頃か終りのことのような気がする。  それから崖から落ちるまでの四カ月程の間のことは全く深い霧の中に匿されている。新見まさ子との関係では、例の観月の手紙を手にした時の記憶はあるが、その後どういうことになっているかは判っていない。江原老人から出された一年間会ってはならぬという条件を守って、二人は会わないままでいたのであろうか。  七浦敏子とは? 八束陽子とは? 山代は考えることはいっぱいあった。三年間という大量の過去を失っている時は、深い沼の面でも見ているようにぼんやりしていたが、現在は違っていた。考えることは向うから勝手にやって来た。七浦敏子や、八束陽子や、新見まさ子の顔が、互いに申し合せでもしているように、交替で山代の脳裡に浮かんで来た。一つが消えると、それに代って他が現われた。  こうした状態だったので、山代は気持の休まることはなかった。いつも何かを考えていた。一番|屡々《しばしば》山代の頭を掻き廻しにやって来るのは、崖から落ちた事件であった。自分は一体、いかなる理由で、あの夜あんなところを登って行ったのであろうか。あの崖の上には新見まさ子の家もあれば、江原老人の家もある。崖の事件一つでも判ればもっと落着くことができると思うが、その正体は依然として今の山代にとっては、謎のままであった。 「わたくしと映画女優の三城さんのところへ行ったこと覚えていらっしゃいますわね」 「覚えている」 「三回行ったでしょう」 「どうも二回しか思い出さないんだ」 「三回目の時、帰りに、わたくし風邪をひいて頭が痛みました。山代さん、とても気を遣って下さいました」 「その時のことは、どうも思い出さないんだ」 「あれは確か十一月の初めでしたから、それ以前で記憶は切れているんですのね」  一日に一回か二回は、記憶の断ち切れている箇処を探すために、二人の間にはこの種の会話が交されていた。  二人はアパートヘ戻った。 「どうしても四カ月程のことがお判りにならなくて不安でしたら、その間のことをすっかり埋めてしまいましたら?」  つかさは外套を脱ぎながら言った。 「三年間のこととなると、どこから何を埋めて行くか、ちょっと見当が付かないようなものでしたが、こんどはその点ずっとらくですわ。二人が少し努力すれば、かなり正確なものができると思います」 「そりゃあ、そうだが」  山代は浮かない顔で答えた。取り戻した過去の中で、大体のことはつかさに話してあったが、しかし、何もかも話してあるというわけではなかった。八束陽子のことや、七浦敏子のことや、新見まさ子のことで、幾らつかさと一心同体の関係にあるとは言え、それをそのまま話すことのできない部分もあった。  八束陽子と関係したことも話してなければ、夕立に遇った日の多摩川の散歩の内容についても話してなかった。また、新見まさ子との関係はぼんやり伝えてあったが、自分の悪党としか呼びようのない気持をそっくりそのまま伝えてあるわけではなかった。やっていることが、すべて八束陽子への思慕に繋がっているので話しにくかった。  七浦敏子のことに到っては、そうした女性を知っていたという程度にしか話してなかった。これは七浦敏子自身の秘密に関することなので、つかさに対しても、一応秘密を守ってやらなければなるまいといった気持が動いていた。 「とにかく、四カ月のノートを作ってみましょう。判らないのは四カ月ぽっちです。四カ月の人工的な時間を作りましょう。できないことありませんわ」  つかさは言った。  山代は家へ帰るつかさを階下の出口まで送って行った。そしてつかさと別れ、部屋へ戻るためにアパートの階段を二、三段上った時、山代はぷんと鼻先きで梅の匂いがしたような気がした。さっきつかさと梅林を歩いた際、白い小さい花に顔を近付けて、鼻をくんくんさせたが、その時の微かな匂いが思い出されて来たのであった。  山代はまた二、三段上った。そしてこの匂いは何か思い出すものがあると思った。梅の花の匂いそのものではなく、その匂いによって惹き出されて来る特殊な雰囲気であった。感傷的なものではなく、寧ろひどくさばさばした思いである。自分の周囲のものがふいに消えてなくなり、何もない世界に自分一人が立っているような、そんなひどくさっぱりした思いであった。  山代は何であろうかと思った。山代はまた二、三段上った。そしてまた梅の花の匂いを鼻先きに感じた。山代は階段を上りつめたところで立ち止まった。そして、ああ、そうだ。俺は自殺しようと決心したのだと思った。  そうだ、俺は熱海の梅林の中で、それを決心したのだ。瞬間、山代は自分の体の内部において、何ものかが裂かれるような音を聞いたように思った。絹の布でもさっと引き裂かれるような、そんな烈しい厳しさを持った音であった。山代は、それと同時に、ふいに空中高く自分の体が浮かび上がるのを感じた。夢の中で空中を飛ぶことがあるが、そのような重量感の全くない浮かび上がり方であった。  山代は自分の周囲を見廻した。暗い廊下であった。どこかの部屋からラジオの音楽が聞え、それに混じって、子供の泣き声が聞えている。山代は自分の周囲に何ものも起っていないことが不思議な気がした。絹の布の裂かれる音も、体が浮かび上がったのも、勿論山代の錯覚であった。しかし、この時、山代はいままでとは全く異った山代になっていた。山代は昂奮してはいけないと思った。山代はゆっくりと部屋の方へ歩いて行った。そして部屋へはいると、鍵をかけた。  俺は自殺しようとしていたのだ。それなのに、いま生きていると思った。生きていることが不思議に思われた。あの時、俺には死しかなかったのだ。俺は熱海の梅林の中で、自殺することを、自分に言いきかせたのだ。死ぬ以外、最早いかなる方法もなかったのだ。あらゆることは、俺を死に追いやるために、俺に突進しつつあった。山代は、その時、正確に言えば、一年前の梅の季節のある日の、血を吐くような苦しい思いを思い出していた。  現実にその苦しみが心に沸《たぎ》っているように、山代はその苦しい思いを思い出していた。どこへも行き場はなかった。死だけがあった。  八束陽子を失ってから、俺はやたらに忙しくなった。全くいまとなっては無駄でしかなかった八束陽子に与えた大金のために、そのあと始末をしなければならなかった。江原老人は初め一年の猶予をくれたが、突然手紙でそれを半年に縮めて来た。半年以内に千万円返却しなければ訴えるというのだ。新見まさ子は老人の眼をかくれて、一度画廊へやって来た。そして自分の力では江原の気持を翻させることはできないと言った。自分の女を奪られた老人としては当然の怒りであった。訴えられることは怖かった。金の問題ばかりでなく、偽作問題に火の手の廻る心配もあった。  俺は八方へ手を廻して金を作ろうとしたが、それだけの金のできる当てはなかった。それでなくてさえ、店の経営は秋から苦しくなっていた。俺は苦しまぎれに七浦敏子を何回も画廊へ呼び出した。例の若い画家が他にも偽作を売っていて、それが問題になりかかっている。それを押えてしまうには、その絵を買い戻さなければならぬ。そういうことを理由に、俺は七浦敏子から金を引き出そうとした。  七浦敏子は俺の言うことを信じていないに違いなかったが、それでも俺の言うなりに金を出そうと言った。彼女としては、俺に自分のスキャンダルを握られているので、それをあかるみに出されることを怖れていた。  しかし、肝心の金はなかなかできなかった。女の手でそれだけの大金を作ることが容易であろう筈はなかった。彼女は何回も画廊へやって来たり、手紙をくれたりした。金のできない言い訳だった。  年が改まると、俺は気がせいた。二月の終りが、江原老人の出した期限になっていた。俺は無駄な金策に八方飛び廻った。俺は老人に電話で猶予を頼み込んだが、勿論受け付けて貰えなかった。  七浦敏子からどうしても金の工面ができないという手紙を受け取った日、俺は実業家矢吹貫一郎の熱海の別荘へ金策に出掛けた。矢吹は不機嫌な顔で言った。 「君が江原さんに持ち込んだセザンヌがどうもよくないという評判があるよ。入手経路をはっきりさせた方がいいと思うね」 「江原さんから買い戻しましたよ」 「心暗いことがなければ買い戻す必要はないじゃないか。いま郷倉さんのところへ行っていることも聞いているよ」  そう矢吹は言った。俺は矢吹邸を出ると、梅林へ足を向けた。ふと梅林を歩いてみたいと思ったのだ。梅林を歩きながら、俺は生きるのが面倒になっている自分を感じた。これから先き自分を襲って来る面倒なことと闘う元気はなかった。  俺は疲れていた。半年程金のために飛び廻った疲れが、一度にこの時俺を襲っていた。俺は死んでもいいではないかと思った。八束陽子のために、自分は何というばかなことをしたのだろう。しかも、その肝心の八束陽子も失ってしまったではないか。  しかし、八束陽子を失ったという思いは、自殺の決意には何のかかわりもなかった。詰まり、俺には陽子を失ったことに依る失意というものはなかった。八束陽子に棄てられた日、俺は自分の方でもまた八束陽子という女性を棄てたのだ。ふいに彼女の持っていた栄光は消え、八束陽子は俺にとって、ひどくくだらぬ詰まらぬものになったのである。  俺は梅林を歩きながら、新見まさ子に哀憐の情を覚えた。自分が死んだら、新見まさ子はどうして生きて行くだろうと思った。まさ子のことを思うと心を痛みが走った。死んでも死にきれぬ気持だった。この時俺は初めて、自分の心の中に新見まさ子がいつか一つの存在として居坐っていることに気付いた。それを愛情と呼んでいいかどうかは判らなかったが、とにかく、それに類するものであることは間違いなかった。俺は自分が半年何とかして難局を切り抜けようとして苦しんだのも、彼女のためではなかったかと思った。俺は新見まさ子をこれ以上悲しい目に遇わせたくなかったのだ。  俺は熱海の駅前のレストランでウイスキーを飲んだ。時計を見ると二時だった。自殺を決心するとすっかり気持は落着いた。  俺は電車に乗ると、ぐっすり眠った。眼を覚ますと、暮れ方の寒そうな横浜の街が車窓の向うに拡っているのが見えた。  東京へ着くと、俺はタクシーでアパートヘ帰った。アパートの自分の部屋で煙草を一本喫み、机のひき出しにはいっていた七浦敏子からの三本の手紙を細かく破って、紙屑籠に捨てた。わざわざ七浦敏子の手紙を探し出して破ったわけではなく、何となくひき出しを開けた時、それが眼に付いたので、それを破ったのである。  俺は新見まさ子のところへ電話を掛けた。すぐまさ子が出て来た。彼女は低い声で、 「お電話下さらないことになってるでしょう。用事がありましたら、わたくしの方から掛けますわ。——女中がおりますのよ」  いつになくその言葉は冷たく、非難の響きがあった。そしてまさ子はあとは黙っていた。普通なら、いきなり金ができたかどうかを訊いて来る筈であった。それは彼女自身にとっても重大な問題であり、いままで時折、そのことで彼女の方から電話を掛けて来ていた。 「今夜、ちょっと会いたい。どうしても話したいことがあるんだ。五分でもいい」  俺はそう言った。 「家へいらっしゃるのは困ります」 「家へはいかん」 「でも、出られませんわ。風邪をひいていますの」 「風邪って、ひどいのか」 「ひどくはありませんけど」 「そんなら崖の上の見晴台のところまで来て貰いたいな。十時きっかりにしよう」  俺は言った。 「いいか、見晴台のところに十時」  俺はまた言った。相手は黙っていた。俺は前に一度登ったことのある崖の斜面の道を登って行こうと思った。夜だから多少歩きにくいかも知れないが、しかし、ちゃんとした道ではあるし、附近に戸外燈もついているに違いないと思った。崖を登らなくても台地の上から行けばいいようなものの、彼女の家へ曲る路地の入口に江原老人の家があるので、たとえ夜でも、その前を通るのは避けたい気持があった。 「ほんの五分程話すだけだ。どうしても君に伝えておきたいことがある」  俺は言った。俺は一応何もかも新見まさ子に告白して詫びておきたかったのだ。偽作のことも、またそれに依って得た金を全部八束陽子に与えたことも、みんな包み匿さず、新見まさ子に話してしまおうと思った。話してしまってから死のうと思った。話されないで死なれるより、話されて死なれた方が、新見まさ子としても、まだ幾らかでも救われるだろうという気がした。 「本当は、わたくし、いまお会いしたくないんです。ひどく辛く悲しいことがあって、まだ心が整理できないでいます。でも、我慢して行きますわ。もしかしたら、もうお目にかかるのが厭になるか知れませんので、まだ気持がそれほど決定的にならないいまのうちにお目にかかっておく方がいいかも知れませんわ」  まさ子は言った。俺はまさ子の不機嫌さの正体が判らなかった。偽作の噂でも耳に入れたのかも知れない。しかし、八束陽子のことがばれたとは思わなかった。金の受け渡しは、自分と陽子の二人だけが知っていることで、他の誰にも知られていない筈であった。  俺は有楽町へ行くと、画廊へちょっと立ち寄った。誰も居なかった。俺は机のひき出しから睡眠薬の箱を取り出し、その量を調べた。俺は新見まさ子に会ってから、もう一度ここに戻って来るつもりだった。ここで、事務所の椅子に腰掛けて眠ろうとした。一度眠りに落ちたら、再び決して覚めることのない眠りを眠ろうと思った。  俺はひどく腹がすいているのを感じた。どうせ最後の食事だから、何でも食べたいものを食べようと思った。しかし、何を食べていいか見当が付かなかった。空腹ではあったが、食べたいものを選ぶ気持は、もう俺にはなくなっていた。  俺は店を出ると、有楽町の駅の近くをうろついた。そして前から一度はいってみようと思っていたレストランの前を通ると、そこへはいった。生牡蠣がうまいということを二、三回耳にしたことのある店だった。  俺はそこでやたらに食べた。生牡蠣をダースで注文し、それで足りなくて、ビフテキも食べ、ピラフも食べた。いくらでも食べることのできるのが奇妙だった。  俺はブランデーを飲んだ。ブランデーを飲み出してから、時折、思い出したように、暗い気持が襲って来た。新見まさ子のことを思うと、その哀れさがやり切れなかった。  そうだ、俺は八時半頃、あのレストランを出た。俺が出る時、店にはもう客はいなかった。俺はたらふく食べて、ゆったりとした足どりで、あの店を出たのだ。  暗い気持は間歇《かんけつ》的に俺を襲っていたが、それに気付くと、俺はすぐそれを向うへ押し遣った。俺は少し酔っていた。自殺することは、さほど悲しくはなかった。死ぬというより、自分に休息が近付いて来つつある、そんな気持だった。  俺は鶴巻町の電車の停留所附近までくるまに乗った。街には靄がうっすらと立ち籠めていた。くるまに乗っている間、俺は新見まさ子のことを考えていた。八束陽子へ渡す金を作るために、言わば色仕掛けで関係を持った女だったが、いまとなってみると、女の優しさが骨身にこたえる程強く感じられた。この世にあんな優しい女は二人とはあるまいと思われた。  新見まさ子には初め何の愛情も持っていなかった。全く金を作るために必要な女だった。いまになってみると、それが不思議に思われる。あんなつまらぬ八束陽子のような女に大金を与えるために、俺はどうして新見まさ子を騙す気になったのだろう。  俺はあの夜、確かに新見まさ子のことばかり考えていた。俺は彼女に偽作を売らしていたし、そこから得た金は他の女に与えていた。そのことを俺は新見まさ子に何もかも話してしまおうと思った。そのことだけが、あの夜の俺に残された仕事だったのである。  俺は鶴巻町でくるまを降りた。路地を曲った。薄暗い戸外燈がついているだけで、公園の広場は暗かった。俺は崖の道を探した。どこが登り口か判らなかった。  崖の上で水銀燈の光が一つ、その周囲だけを蒼白い明るさで浮かび上がらせていた。新見まさ子と待合せることになっている場所はその水銀燈の灯っている附近であろうと思われた。俺はまっ直ぐそこに登って行こうと思った。  俺は雑木の茂みの間を登って行った。街の灯が次第に下の方に見えて来た。俺は間もなく、崖の斜面を登って行くことの困難を感じ始めていた。足場が不安に思われた。  俺は木の枝につかまったまま煙草に火を点けた。そして不安定な姿勢のままで煙草を喫んだ。しかし、俺はすぐ煙草を足許に落して、靴でその火を消した。俺は右手に移動しようとした。不安定な気持は急に大きなものとなった。手で握りしめている雑木の枝が折れた。その音があざやかに耳にはいって来た。  俺は大きく自分の足がすくわれるのを感じた。瞬間、街の灯が一枚の板のように大きく傾いて見えた。俺は何かに縋り付こうとした。縋り付くものはなかった。俺は落ちた。確かに、あの時、俺はあの崖の斜面を落ちて行ったのだ。  山代は、しかし、いま俺は生きていると思った。改めて、自分を見廻すような気持で、山代はいま自分が生きていることを思った。あの晩、崖から転落しなかったら、自分は崖の上の見晴台で、新見まさ子に会い、そして、そのあとで事務所へ帰り、睡眠薬を口いっぱい頬ばったことであろう。あの時は、そうする以外、もういかなる道も俺には残されていなかったのだ。  しかし、俺は新見まさ子に会う前に崖から落ちたのだ。新見まさ子には会わなかった。従って彼女には何一つ告白もしなければ詫びもしなかったのだ。そしてまた自殺もしなかったのである。  山代は寝台に近付くと、そこに腰を降ろし、煙草に火を点けた。崖の斜面で不安定な気持のままで煙草を喫んだが、それと同じように、ひどく落着かない気持で、煙をひと口ふた口吸い込むと、すぐそれを灰皿の中に擦り付けた。  さて、俺は何をすべきか。何をしなければならないか。山代は立ち上がると、部屋を歩き出した。為さなければならぬことはいっぱいあるような気がした。しかし、何をすべきか、何一つ纏りのある考えは浮かんで来なかった。  だが、山代は自分の足が確りと自分の体を支えて歩いているのを感じた。こうした感じは長い間、山代の忘れていたものであった。考えは何一つ纏らなかったが、彼の脳裡に閃いて来るあらゆるものは、それが本来持っている色艶と陰影を持っていた。  江原老人の顔を思い出すと、彼のいろいろな場合のいろいろな表情が、それぞれの感情に裏付けられて思い出された。山代には江原老人の顔がよく判った。顔に現わされている怒りや悲しみや、自分に対する呪いや憎悪の気持がよく判った。  山代は画廊を眼に浮かべた。画廊もまたよく判った。画廊がなぜそのように飾りつけられてあり、なぜそのようなところに、そのような家具が置かれてあるかが判った。画廊は画廊の持った小さい歴史によって、そのような在り方をしていた。  山代は同じようにして、銀座を眼に浮かべた。多摩川の磧を眼に浮かべた。新見まさ子の顔を、七浦敏子の顔を、八束陽子の顔を、洗濯屋夫婦の顔を、郷倉生命の社長の顔を、大阪の新聞社の社長の顔を、江原老人の顔を、その他数限りない大勢の男女の顔を眼に浮かべた。どの顔も、彼等が生きていることを証拠だててでもいるように、いろいろな感情を現わしていた。苦しそうだったり、憎々しげだったり、嬉しそうだったり、悲しそうだったりした。  山代は窓硝子に映っている自分の顔を倦きるほど見詰めていた。今朝までの顔とは違っていた。自分が何をし、何を考えていたかを、詰まり自分の過去を知っている男の顔であった。八束陽子に入れ揚げる愚かさもあれば、女を騙す図々しさもあれば、偽作を売る太々しさもあれば、すぐ自殺を決心する悪党らしからぬ気の弱さもある顔であった。  山代は記憶を取り戻した翌日から翌々日にかけて、やたらに眠った。昼間でも寝台に横たわると、すぐ眠りに襲われ、ちょうど海外を長期に亙って旅行して来た者が、帰国してから疲れに襲われるのに似ていた。  山代は自分が記憶を取り戻したことを、すぐつかさに知らせようと思ったが、電話機の前に立ってからその考えを改めた。知らせることをもう少し待とうと思った。  山代は、記憶を取り戻したことをつかさに知らせても、その取り戻した記憶の内容のすべてをつかさに伝えるわけには行かないと思った。知らせてもいい部分もあれば、知らせることを考慮してみなければならぬ部分もあった。七浦敏子に関することなどは、全く七浦敏子という一人の女性の私事にわたることで、これは彼女のために秘密にしておいてやらなければならぬことであった。  また新見まさ子に関することも何も改めてつかさに報告すべき性質のものではなかった。全部の記憶を回復したと言えば、最後の崖を登って行った夜のことも知らさなければならなかったが、そうした山代自身の心の内部のことを、わざわざつかさに伝えることは、少しの益もないことのように思われた。  佐沼や高崎には、これは是非とも報告しなければならないことだったが、それを知らせる時期は二日や三日遅れても、いささかの支障はないと思われた。佐沼や高崎に報告する時は、つかさにも知らさなければならぬ時だったので、それまでに発表する仕方を充分考えておこうと思った。  山代は記憶を取り戻してから三日目に、初めて街へ出た。有楽町から銀座へかけて歩いた。一体どんな気持がするだろうかと思って、少からぬ期待を以て街へ出たわけだったが、有楽町の駅から出たとたん、山代は言い知れぬ恐怖に襲われた。ここには顔見知りの人がいっぱいいる筈だった。理髪店の主人や使用人たちも知っていたし、書店の女店員たちも知っていた。会えば何とか一つや二つ言葉を交さなければならぬ関係にあった。駅の近くの小さな飲食店のぎっしり詰まっている通りに到っては、そこにある店の大部分は山代の馴染みと言ってよかった。どの店からも、 �山代さん�  という声がかかりそうだった。  山代は大急ぎで画廊のあった方角とは反対の方角に歩き出し、新聞社の横を通って数寄屋橋の方へ出た。山代は絶えず不安だった。いまにも誰からか声をかけられるか、肩を叩かれそうだった。山代は病院を退院してから今日までに何回かこの辺を歩いたが、よく知人に会わなかったものだと思った。あるいは会っていても、こちらはそれに気付かないで、堂々と黙殺して擦れ違っていたのかも知れなかった。  山代は有楽町から銀座へかけてまるで急用でも持っている人間のように大急ぎで歩くと、あとは日比谷に出、新宿に出、渋谷に出た。  山代は電車に乗ったり、タクシーに乗ったりしたが、どこへ行ってもみんな曾て何回も来たことのある場所としての親しさがあった。もう異境をうろついている異邦人の孤独な気持はなかった。  しかし、山代はそうした場所を歩きながら、自分が急に汚れてしまったような気持を持った。過去を失っている時の、足を一歩前に踏み出すことにさえ不安を感じたあのおどおどした気持はどこへ行ってしまったろうかと思った。おどおどしてはいたが、汚れというものは全くなかったと思う。別の天体からやって来た旅行者のようなものだった。何を見ても初めて眼にするものであり、誰に会っても初めて会う人だった。  それを今日は追われるような気持で歩かなければならぬ。過去の亡霊たちが、いつでも自分に飛びかかろうと待ち構えている。そいつらはどこの街角にも、どの橋の袂にもいる。自分はそいつらに見付からぬように、眼を伏せ、肩をすぼめ、できるだけ足早やに、そこを通り抜けねばならぬ。何という惨めさだろう。  山代は渋谷の道玄坂を上って行った。曾て一、二回酔払って、ふらふらした足どりで上って行ったことのある坂だった。島内啓子とも歩いたことがあるし、新見まさ子とも歩いたことがある。金儲けのことを考えながら歩いたこともあるし、人を呪いながら歩いたこともある。いつもろくでもないことを考えながら、この坂を上って行ったに違いない。 「山代さん」  自分の名が呼ばれたので、山代は足を停めて、うしろを振り返った。過去の亡霊が、過去の亡霊以外の何ものでもないものが立っていた。七浦敏子だった。山代はいきなり逃げ出してしまいたい衝動を感じた。 「先日はどうも」  相手は挨拶した。 「こちらこそ、どうも」  山代は言ったが、まだ逃げ出したい気持は彼を捉えていた。山代は相手から眼を逸らし、辺りを見廻した。 「お変りございません?」 「はあ」 「わたくし、この間、あとで考えまして、もう少しお話しておいた方がよかったのではないかと思いました。お時間ございますかしら。立ち話でもいいんですけど」  七浦敏子は辺りを見廻すようにした。喫茶店でも探しているらしかった。山代は、この間とはまるで違った気持で相手に対していた。なるべくならこのまま放免して貰いたかった。さんざん弱味につけ込んで金をしぼり奪ろうとした相手であった。 「あそこはどうでしょう」  七浦敏子は道の向う側の喫茶店を指し示して言った。 「結構です」  山代は相手のあとについて歩いて行ったが、何か旧悪でも突き付けられそうな不安があった。  喫茶店の二階の窓際に席をとると、七浦敏子は山代に訊いてからアイスクリームを二つ注文した。  山代は席に着くと観念した思いで、漸く落着いて、相手に眼を当てることができた。七浦敏子にはもはや以前に彼女が持っていたような不安な影はなかった。良家の明るい、何の屈託もない夫人に見えた。 「この前、偽作のこと申し上げましたが、あとで後悔いたしました。折角新見さんが貴方の出発のために匿しておいて上げたことを、わたくしが暴露したようなことになりまして」 「いいや、結構です。事実を知った方がいいんです」  山代は言った。 「それで、その罪ほろぼしというわけではありませんが、新見さんのために、新見さんが匿していらっしゃることをもう一つお知らせいたしておきますわ。山代さんは新見さんが大変憤っていたとお思いになっていると思いますが、新見さんは、事件の起る最後まで山代さんから気持を離さないでおられたと思います。と申しますのは、去年の春でしょうか、わたくし、病院で貴方にお目にかかった直後、そのことを新見さんにお知らせしました。すると、新見さんは既に山代さんのことをご存じになっており、自分のところへ来る途中であんなことになったのだとおっしゃいました。そして、あの晩、山代さんは何もかも自分に告白するつもりではなかったかと思う。もし何もかもどんな悪事でも自分に打ち明けてくれたら、自分は彼と一緒になって生きて行くつもりだったとおっしゃいました。真人間になる途中で、山代さんは記憶を失うような事件にぶつかってしまったのだとおっしゃっておりました」 「なるほど」  山代は呻くように言った。実際に自分は新見まさ子に何もかも告白するつもりで出掛けたのである。もし崖から落ちないで新見まさ子に会っていたら、自分の運命も新見まさ子の運命も異ったものになっていた筈である。自分は新見まさ子を死に誘い込んでいたかも知れないし、反対に新見まさ子は自分に生きる力を与え、二人で新しい人生を踏み出していたかも知れない。 「ですから新見さんは山代さんにとっては大変な方だったと思いますわ。記憶をお失くしになってもそのことぐらいは知っていらしった方がよろしいと思いまして」 「よく判りました」  山代は言った。 「お話したかったのはこれだけです」  七浦敏子は言ってから、少し口調を変えて、何でもないことのように、 「その後、お手紙の束など出ませんでしょうね」  と言った。山代は七浦敏子が相変らず自分が出した手紙のことを心配していることを知った。この時ふと山代はある一つのことを思い出した。それは七浦敏子からの手紙の一本に、青江という青年画家との関係が告白されてあったことだ。七浦敏子は恐喝《きようかつ》者に対して、すべてを素直に告白するから是非内緒にしておいてくれという態度をとったのであった。その一本の手紙のために、彼女はいまも枕を高くして眠ることができないのであろう。  ——あれは破りましたよ。  山代はこう言ってやりたかった。実際にあの晩破り棄てたのであるから、その事実を告げてやりたかった。しかし、それはできなかった。山代の記憶が一部でも回復したことを知ったら、彼女はそれこそ震え上がってしまうだろう。 「手紙はおろか塵紙《ちりがみ》一枚出て来ません。それに、この間全部の持物を調べ、焼くものは焼き、屑屋に出すものは出し、売れるものは売りました。現在手回りの必要なものしかありませんよ」  山代は言った。 「そうですか。それは大変でしたわね」  すっかり安心した表情で、七浦敏子は言うと、 「例の問題の若い絵描きさんはこの間パリで亡くなりました」 「亡くなった!?」  山代は驚いて言った。 「天分のある人でしたが、惜しいことをいたしました」 「本当ですか、それは残念でしたね」  山代は、思わず声の高くなるのを抑えて言った。 「全然覚えていらっしゃらないとおっしゃいましたわね」 「覚えていませんね」 「長身で、いかにも芸術家といったタイプの人でした」  その言葉には、多少の感慨が籠められてあった。 「では」  山代の方が言って、さきに腰を上げた。  山代はその喫茶店の前で、七浦敏子と別れた。七浦敏子が青年画家青江の死に対して、いかなる感慨を持っているか知らないが、恐らく彼女としては、たとえある悲しさはあるとしても、やはりほっとしたものがあることだけは確かだろうと思った。  山代はうしろを振り返ってみた。七浦敏子は洋品店の飾窓を覗いていた。早春の陽が足許まで落ちていて、のどかな感じであった。週刊雑誌の口絵にでもなりそうな早春らしい構図であった。  記憶を回復してから五日目に、山代は自分が記憶を回復したことをつかさに告げた。その時、つかさはサンドウィッチを作るといって、調理場で野菜を刻んでいたが、 「いつ?」  と訊いた。五日前だと告げると、 「全部?」  と、また同じ口調で訊いてきた。この二つのことを訊く間、つかさは山代の方に顔を向けなかった。 「そう」  山代が返事すると、つかさは手を動かすのをやめて、初めて山代の方を振り向き、 「何ですか、わたくし、怖い気がしますわ。なぜ、すぐ話して下さいませんでしたの?」 「頭の整理がつかなかった。何もかも一度に思い出されて来たんで」 「それはそうでしょう。本当によかったですわ。でも、わたくしは怖いんです」  つかさは実際に怯えたような表情をとっていた。 「話せと言えば何でも話すが、それはいまは何の意味もないことだと思うね。崖から落ちた晩、僕は新見まさ子の家へ行き、彼女と会い、それから死のうとしていた。自殺するつもりだった。江原老人に訴えられかけていて、にっちもさっちも行かなくなっていた」 「死のうとしていたんですか」 「そう。間違いなくそうだった。崖から落ちていなかったら、死んでいたろうと思うね」  すると、つかさは、 「それでは、いいですわ、もう。——他のことはお話しにならないで下さい」  つかさは強い口調で言った。そして、 「ただ一つ、お尋ねしますわ。わたくしに対する気持は?」 「ばかだな。そんなことを気にする奴があるか。僕はあの晩、死んだんだ。いまここに居る僕は新しく生れて来た人間だよ」  山代は言った。 「佐沼、高崎両先生に報告しなければならぬが、しかし、他の人には記憶が回復したことは秘めておきたいんだ。僕は死んだんだ。死んで、よかれ、悪しかれ、けりはついたんだ。記憶を一年間失っていたということで、僕という人間は本当に違った人間になってしまっている。話せというのなら、何でもみんな話すことができる。他人のことを話すような気持で、いくらでも話すことができるだろう」 「判りました。お話しにならなくて結構です。一度、この世の中から消えてしまったことなんですから」  つかさは言った。 「わたくしが聞いたら、わたくしが聞いたということで、折角死んでいたものが、また呼吸して来そうな気がします」 「呼吸して来たりはしない。ただ、僕は自分が厭になるだけだ」  山代は言った。  その日、山代はつかさと一緒に病院へ行くためにアパートを出た。暖かい日だった。早春という気配はなく、もうすっかり春だった。  山代はつかさと一緒に病院へ佐沼と高崎を訪ねた。二人が記録室で待っていると、高崎がやって来て、 「その後、異状はありませんか」  と、いつもと同じように訊いた。 「多少あります。四、五日前、記憶が全部戻って来ました」  山代はゆっくりと答えた。 「全部って、忘れていたこと全部を思い出したんですか」 「そうです」 「ほう。——ちょっと待ってて下さい」  明らかにただ事でないといった高崎の表情だった。高崎は部屋を出て行ったが、佐沼と連絡したと見えて、暫くすると、佐沼と一緒に再び部屋へはいって来た。 「記憶が戻ったんですって!?」  佐沼もいつもとは違った固い表情で言った。それから、自分の坐る椅子を引き寄せてから、初めてそのことに気付いたように、 「とにかく、おめでとう。よかった、よかった!」  と言った。その佐沼の言葉の中には心をえぐるような切ない烈しさがあった。山代は記憶を取り返したことが、自分にとっていいことか悪いことか判らなかったが、しかし、記憶を取り戻したいということは長い間の自分の念願であったことを今更のように思った。山代は、胸を突き上げて来る嬉しいとも悲しいともつかぬ感情の昂ぶりを覚えた。涙が自然に眼に溢れて来た。つかさもまた、ハンカチを眼に当てていた。 「貴女も大変でしたが、これでやっと酬《むく》われましたね」  佐沼がつかさに言うと、 「いいえ、わたくしなんて。——みんな先生がたのお蔭ですわ」  つかさの声も震えていた。 「いずれにしても、これから当分、私たちと付き合って戴かなければなりません。そのことだけはお願いしておきます」  改まった口調で高崎が言うと、 「幾らでも、病院へ伺いますよ。何でしたら、毎日通ってもいいです」 「それには及びませんが、ただ、時々、お目にかかりたいんです。それはそれとして、今日、これから記憶を回復した前後のことを伺いますが、いいですか」  高崎は言って、すぐ、 「ここでやりましょうか」  と、部屋を見廻しながら、佐沼の意見を訊くように言った。 「わたくし、その間席を外していましょう」  つかさが言うと、 「夕方までかかるかも知れません」  佐沼は言った。 「結構です。わたくし、銀座へ出る用事がありますので、その用事をすませて、帰りにここに立ち寄りましょう」  つかさは結婚式の会場を予約するために、Nホテルに出掛ける用事を持っていた。  四月にはいった第一日曜に、山代はつかさと一緒に日本橋の百貨店に買物に出た。このところ二人で一緒に外出することはめったになかった。山代は大阪の新聞社の幹部の骨折りで新しくできるスポーツ新聞に迎えられることになり、その方の仕事で一人で外出することが多かった。また、つかさはつかさで、もう眼の前に迫っている自分の結婚式の準備に忙しかった。式は勿論内輪で極く簡単にすますことになっていたが、それでも何かと準備があった。  日本橋の表通りを歩いている時、山代は突然、つかさに腕をつつかれた。 「向うから来ますの、江原さんというお年寄りじゃありません?」  そのつかさの言葉で、山代ははっとした。なるほど江原に違いなかった。山代はこれまで江原に会う時、いつも相手の烈しい顔に接していたが、いま眼にする江原老の姿は、物静かな品のいい老紳士であった。山代は瞬間、恐ろしいものにぶつかるような気持になったが、構わずそのまま歩いて行った。  山代は江原との間隔が縮まった時、彼の方から声を掛けた。 「江原さん!」  老人はすぐ足を停めた。そして山代に眼を当てた瞬間、老人の表情は曇ったが、 「やあ」  と、口から静かな声が出た。 「この前は失礼いたしました」  山代は丁寧に挨拶した。 「どうです、その後」 「変ったことはありません」 「記憶が戻らないということは不便ですな。しかし、戻らなければ戻らなくていいじゃないですか。人間というものはどうしても戻さなければならぬ記憶など、あまり持っていませんよ」  老人は言った。明らかに皮肉なものは感じられたが、しかし、この前の時のような怒りはそこには感じられなかった。 「こちらは、近く僕と結婚式を挙げることになっている女性です」  山代はつかさを紹介した。 「そうですか。それはおめでたいことです。この前、お目にかかりましたね」  老人はつかさの方に微かに笑ってみせた。  三人が立っているところへ、突然、新見まさ子が現われた。新見まさ子は買物でもしていて、先きに歩いて来た江原を追いかけて来たとでもいったその場の感じだった。新見まさ子は、山代とつかさを見て、さすがにはっとしたらしかったが、すぐ、 「いつぞやは」  と、山代の方へ挨拶して、江原と同じように、 「いかがでございます? その後」  と言った。 「同じことです」  山代は言った。  山代は記憶を回復して初めて新見まさ子と会ったわけであったが、不思議にこの前会った時と、格別違った感懐はなかった。この前は彼女と自分との関係は図式的には判っていても、それについての実感というものはなかった。ところがいまは彼女と自分の関係は、その心の内部のその時々の動きまで、何から何まで判っていた。彼女への愛情を持ったまま、少くともそれに近いものを持ったまま、山代は崖から落ちたのであった。  もし記憶が回復することによって、山代の心情的なものも回復すると考えるならば、山代は当然新見まさ子に対して、他の人に対するとは別の感情を持たなければならない筈であった。しかし、どういうものか、そうしたものはなかった。山代はやはり自分とは無関係な物語の中の、一人の主人公を見ているような思いであった。やはり、あの時自分は死んだのだと思った。確かに死のうとしていた。そして死んだのだと思った。  山代は自分の顔がひどく悲しげに歪むのを感じた。自分で、自分のそうしたことが判った。と、新見まさ子は突然口を開いた。 「でも、もう、お働きになるにはお差支えないでしょう」 「働くことには支障ないと思います。近く働き出すつもりです」  山代が言うと、 「それは結構でした」  新見まさ子は言って、 「では」  と、江原老人の方を促すようにした。新見まさ子の顔は能面のように無表情であった。 「お大事になさい」  江原老人も言って歩き出した。江原老人は、記憶を失っている人間として山代を理解し、憎しみも怒りも、いまや抑えることができているのであろうと思われた。  山代には、江原老人とまさ子の二人が、物静かに互いに労り合っているような仲のよい組合せに見えた。山代はつかさと並んで歩き出した。 「違う」  山代は言った。 「何が違いますの」 「何もかも違う。記憶が戻っても、戻らなくても、同じことなんだ。——やはり、僕という人間は別の人間になったんだな」  山代が実感を籠めて言うと、 「そうなんです。わたくしにはそれがよく判ります。前の山代さんでしたら、わたくし、こうして二人で街を歩いたりする気にはならなかったと思いますわ」  つかさは言った。山代は自分に千万円の金を江原老人に返却する仕事が残されていることを思いながら歩いた。それは自分にできるかどうか判らなかったが、できたらしなければならないことだった。そのことをつかさにも話さなければならなかったが、それはちゃんとつかさと家庭を持ってしまってからのことだと思った。春の陽が暖かく歩道に落ちていた。山代はそれを見ながら歩いた。  〈了〉 東京新聞夕刊 昭和三十六年一月三十日—三十七年七月八日連載(517回) 〈底 本〉文春文庫 昭和五十四年二月二十五日刊